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第4話 5年間の猶予
1. 宣戦布告のあとの静寂
あの日、雪の中での告白から数日。
直人は逃げるように基地と官舎を往復していた。
だが、レオンは焦らなかった。
彼は「待つ」と決めたハンターだ。
ある夜、官舎のゴミ捨て場で鉢合わせた際、レオンは静かに告げた。
「……僕のことが、嫌いだから断ったんですか?」
直人はゴミ袋を握りしめ、嘘をつけずに本音を話した。
「違う!。嫌いなわけないだろう。お前は……最高のパイロットで、人としても、その……。好ましく思ってる」
その瞬間、レオンの唇が少しだけ弧を描いた。
絶望など微塵もない、すべてを飲み込んだ男の笑みだった。
「それなら、十分です。待ちますよ。美月さんが大人になるまで。五年でも、十年でも。……僕を遠ざけないでください。それだけでいい」
「二尉、お前……」
「ここまで来るのに十五年かかりました。今さら、あと数年増えたところで、僕の何が変わるというんですか。……あなたの隣にいるための覚悟なら、もう一生分済ませてあります」
十五年という歳月の重みが、レオンの言葉に圧倒的な質量を与えていた。
直人は、目の前の若者が抱える「愛」という名の執念の深さに、抗う術を失っていた。
2. 頬をつたう、祈りのような涙
レオンの浸食は、じわじわと進み、美月の中学校の卒業式。
「パパ、一人で行くと絶対泣いて写真撮れないから、レオンさん呼んどいたよ」
中3になった美月の計らい――あるいは、彼女と裏で通じているレオンの策略か。
当日、レオンは当然の顔をして保護者席の、直人の隣に座った。
式典が始まり、静まり返った体育館に美月の名前が響いた瞬間、直人の視界が滲んだ。
これまで、男手一つでがむしゃらに走り抜けてきた。
泥にまみれ、油にまみれ、ただ娘を真っ直ぐに育てることだけを考えてきた日々。
その苦労と、無事にここまで育て上げた安堵が、一気に胸の奥を突き上げた。
声は出さなかった。
だが、堪えきれない一筋の涙が、深く刻まれた目尻から、無骨な頬をゆっくりとつたった。
「班長、早すぎますよ」
「……う、うるさい……。……鼻水が、止まらんだけだ……」
強がる直人の震える拳を、レオンは隣からそっと、大きな手で包み込んだ。
「……っ、橘……」
「いいんですよ。……今日まで、本当によく頑張られましたね」
それは、恋人への誘惑ではなく、
一人の男が歩んできた過酷な歳月を労わる、
あまりにも優しい手のひらだった。
その温もりに、直人の固く閉ざしていた心の氷が、静かに音を立てて溶けていく。
隣で鼻をすすり、レオンの手を握り返す直人。
レオンは、普段の鬼軍曹のような姿からは想像もつかない、
その「無防備な父親の顔」を至近距離で見つめた。
堪えようとして歪む唇、熱を持った潤んだ瞳。
娘への献身的な愛ゆえに流される、あまりにも尊く、美しい涙。
(……なんて、そそる顔をするんだ)
レオンの胸の奥で、どす黒い欲情が跳ねた。
この涙を、今すぐ舌で掬い上げたい。
この男の強さも脆さも、すべてを自分の中に閉じ込めてしまいたい。
だが、レオンは動かなかった。
今ここで牙を剥けば、直人は再び殻に閉じこもってしまう。
レオンは、涙のせいで自分の瞳に宿る「捕食者の色」に気づかない直人の横顔を、
ただ静かに見つめ続けた。
(綺麗ですよ、直人さん。……もっと、僕の前だけで泣けばいい。今はその涙を、僕への信頼として積み重ねるから)
心の内で渦巻くドロドロとした独占欲を、レオンは完璧な微笑みの下に塗り潰した。
3. 入学式の宣戦布告
春。
美月の高校入学式。
残された猶予は、あと三年。
レオンはこの春、一等空尉へと昇任していた。
若き幹部としての自信と直人に対する執着が、
彼をより洗練された「捕食者」へと変えていた。
官舎の駐車場で待っていたレオンは、仕立てのいいネイビーのジャケットを完璧に着こなしていた。
「……やっぱりお前、今日も来るのか」
「当然です。僕が車を出したほうが、直人さんのスーツもシワになりませんから」
高校の校門をくぐった瞬間、周囲の空気が一変した。
一尉としての規律が染み付いた、無駄のない立ち振る舞い。
その隣を、野性味溢れるスーツ姿の熟練整備士が歩く。
「見て、あの二人……。新入生の保護者? 嘘でしょ。モデルみたい。」
ざわつく母親たちの視線を、レオンは涼しい顔で受け流す。
彼はわざとらしく直人の襟元に手を伸ばし、至近距離で見つめ合った。
「直人さん、ネクタイが少し曲がっていますよ」
「……お前、わざとやってるだろ。あと、外で名前を呼ぶな」
「まさか。あなたが一番かっこいい状態で、美月さんの門出を見守ってほしいだけです」
レオンの碧い瞳が、逃げ場を塞ぐような熱を持って直人を射抜く。
直人は、自分を真っ向から「ひとりの男」として捉え続けるレオンの、
重すぎる愛に、息が詰まるのを感じた。
4. 祭りの夜、揺らぐ境界線
高校生活最初の夏。
官舎の広場で毎年恒例の納涼祭が開かれた。
直人は基地の整備班として焼きそばの屋台を任され、汗だくで鉄板に向かっていた。
「直人さん、お疲れ様です。焼きそば、三つください」
不意に声をかけられ顔を上げると、そこには見慣れない姿のレオンが立っていた。
濃紺の落ち着いた浴衣に、無造作にセットされた髪。
普段の制服姿とは違う、どこか色香の漂う「和」の装いに、
直人は思わずコテを握る手を止めた。
「……橘、お前、その格好……」
「美月さんに選んでもらったんです。似合いませんか?」
レオンがふわりと微笑む。
首筋から覗く白い肌と、浴衣の隙間から感じる逞しい骨格。
男の自分でも見惚れてしまうほどの美しさに、
直人はドクンと心臓が跳ねるのを感じた。
ぶっきらぼうに視線を逸らす直人。
その様子を、隣で金魚の袋を提げた美月が、楽しそうにほくそ笑んで見ていた。
(パパ、耳まで真っ赤。レオンさん、大勝利だね)
仕事が一段落し、レオンに促されるまま直人は冷えたビールを煽った。
空腹にアルコールが回り、理性がじわじわと解けていく。
祭りの喧騒を少し離れたベンチで、
直人はレオンの肩に、ずしりと重い頭を預けた。
「……お前、本当にマメだよな……。橘がいなきゃ、俺、美月の受験……乗り切れなかったかもな……」
「……頼ってください。僕は、そのためにここにいるんですから」
直人はそのまま、心地よい体温に身を委ねて目を閉じた。
レオンはその無防備な項を見つめ、細く長い指を、直人の髪に沈ませた。
(……いい人、ですか。今はそれで構いません)
レオンは眠る直人の耳たぶを、
誰にも見えない角度で、熱く、ねっとりと愛撫した。
(あと少し……)
5. 翼を継ぐ者と、完璧な指導者
高校二年の冬。
美月がダイニングテーブルに置いた進路希望調査の紙には、
「防衛大学校」の五文字が並んでいた。
「パパの背中を見て育ったし、それに……私、レオンさんみたいなパイロットになりたいの」
直人の動揺をよそに、レオンは即座に「教官」として家庭内に根を張った。
「防大を目指すなら、英語は避けて通れません。必要なのは完璧な文法じゃない。極限状態でも詰まらずに、自分の意思を『言葉として紡ぎ出す』慣れです」
夕食後のリビングには、レオンと美月の英語のやり取りが響く。
「"Maintain heading..." 美月さん、言葉が止まっている。拙くてもいい、ゆっくりでいい、今の状況を自分の言葉で繋いでください」
「……Yes, sir! I'm... trying to hold the position!」
キッチンでコーヒーを淹れる直人は、自分には立ち入れない二人の空間に、
言い知れぬ疎外感を抱いていた。
レオンは勉強を教えるだけでなく、
週末には体力作りのランニングにまで付き合い、
直人が教えられない「空を飛ぶ覚悟」を、惜しみなく彼女に注ぎ込んでいく。
「……橘、いつも悪いな。お前の時間まで奪って」
ある夜、勉強を終えたレオンにコーヒーを差し出すと、彼はふっと目を細めた。
「奪われているなんて思いませんよ。美月さんは僕にとっても大切な存在ですし……何より、彼女を立派に送り出すことが、あなたの『子育て』を終わらせる、最短のルートですから」
レオンはコーヒーを一口啜り、直人の項をじっと見つめる。
(彼女が防大に入り、家を出る。その時、あなたが一人きりにならないよう、僕がすべての空き地を埋めておきます)
6. 狭まる三年の距離
美月の防大受験という大義名分を得て、レオンの浸食はついに完成した。
一等空尉に昇任してもなお、レオンは頑なに直人の隣の棟に留まり続け、
今や直人の家の合鍵すら、当然のようにレオンのポケットに収まっている。
仕事が終われば、レオンは当然のように直人の部屋のダイニングで美月の指導をし、
直人の淹れたコーヒーを啜る。
夜、窓を開ければ、部屋の明かりが見える。
あと、一年。
美月がこの学び舎を去り、制服を着て横須賀へ旅立つ時。
その時、直人の全方位はすでに「橘レオン」という色彩で完全に塗り潰され、
彼以外の翼なしでは、真っ直ぐ歩くことさえできなくなっているはずだった。
レオンはコーヒーカップを置き、キッチンで背を向ける直人の背中に、
静かな、けれど逃れられない視線を焼き付けた。
(あと、少し。……美月さんが飛び立った後は、僕が独占させていただきますよ、直人さん)
碧い瞳に宿った光は、凪いだ冬の海のように、どこまでも深く、静かな狂気を孕んでいた。
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