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第5話 約束の五年間

あの日、 降りしきる雪の中でレオンが差し出した心臓を、 直人は「今は考えられない」と拒んだ。 それは明確な拒絶ではなく、 父としての責任感に縛られた男の「逃げ」だった。 だが、レオンはその隙を見逃さなかった。 「美月さんが大人になるまで、五年でも十年でも待ちます。だから、僕を遠ざけないでください」 ゴミ捨て場の片隅で交わされた、 一方的で執念深い宣言。 直人にとっての「いつか」という曖昧な言葉は、 レオンの手によって「美月が卒業するまでの五年間」という、 残酷なまでに正確なカウントダウンへとすり替えられた。 1. 翼を継ぐ決意 三人の生活が決定的に変わったのは、 美月が高校二年の春、 進路希望調査の紙をダイニングテーブルに置いた時だった。 第一志望欄には「防衛大学校」の五文字が 力強い筆致で記されていた。 「……本気か、美月。お前、自衛官になるつもりか」 直人の問いに、美月は迷いのない瞳で頷いた。 「パパの背中を見て育ったし、ずっとかっこいいなって思ってた。それに……私、レオンさんみたいなパイロットになりたいの。パパが整備した機体で、いつか空を飛びたい」 直人は絶句した。 危険と隣り合わせの空の世界。 整備士として多くの「死」を見てきた親としては、 手放しで喜べる道ではない。 だが、その夢を一番近くで支え始めたのは、やはりレオンだった。 「パイロットを目指すなら、外国との共同訓練などで、英語は避けて通れません。極限状態でも詰まらずに、自分の意思を『言葉として紡ぎ出す』慣れが必要です」 そう断言したレオンは、 その日から「家庭教師」として、 毎日のように直人の家に通い詰めるようになった。 美月の帰りが遅くなり鍵が開かない時のためにと、 いつの間にか合鍵も預けている。 もはや客ではなく、 美月の夢を叶えるための「教官」として、 そこにいるのが当然の光景となった。 夕食後のリビングには、 レオンと美月の英語のやり取りが響く。 「"Maintain heading..." 美月さん、言葉が止まっている。拙くてもいい、今の状況を自分の言葉で繋ぎなさい」 「……Yes, sir! I'm... trying to hold the position!」 キッチンでコーヒーを淹れる直人は、 自分には立ち入れない二人の空間に、 言い知れぬ疎外感と、それ以上の「完敗感」を抱いていた。 2. 重なる指先、確信犯の熱 直人が感じていたのは疎外感だけではなかった。 ある夜、キッチンで三人の夕飯を準備していた時のこと。 直人が吊り戸棚の奥にある大皿を取ろうと背を伸ばした瞬間、 背後からスッと大きな影が重なった。 「これですか?」 低く、心地よく響くバリトンが、 至近距離で耳の鼓膜を震わせた。 レオンが直人を背後から包み込むような形で手を伸ばしていた。 官舎の狭いキッチンという言い訳を盾に、 レオンの胸板が、直人の背中に触れるか触れないかの距離で熱を放っている。 「あ、ああ……悪い。助かる」 直人が皿を受け取ろうとした瞬間、二人の指先が重なった。 整備士としての自分の節くれ立った手とは違う、 操縦桿を握るためのしなやかで、驚くほど熱い指。 その熱が、触れた箇所から火花のように直人の全身を駆け巡った。 見上げれば、鼻先が触れそうな距離にレオンの顔があった。 かつての少年らしい幼さは微塵もなく、 そこには一人の成熟した、精悍な「雄」の顔がある。 切れ長の瞳が射抜くように直人を捉え、 その眼差しには隠しきれない独占欲が渦巻いていた。 直人は心臓が早鐘を打つのを感じ、強引に手を引いた。 「……サンキュ。後は俺がやるから、座ってろ」 背を向け、蛇口を捻って冷水で手を洗う。 だが、水流の冷たさをもってしても、 レオンに触れられた場所の熱は一向に引かなかった。 確信犯的に距離を詰めてくるレオンの熱量に、 直人の理性が音を立てて削られていく。 3. 「防大」の魂を叩き込む 試験が徐々に近づくにつれ、 レオンの指導は勉強机の上だけでは収まらなくなった。 ある週末、レオンは美月を近くの公園に呼び出し、 現役時代を彷彿とさせるジャージ姿で現れた。 「美月さん、防大はただの大学ではありません。1分1秒の遅れも許されない、徹底した規律の世界だ」 レオンは、かつて自分が横須賀の小高い丘の上で、血の滲むような訓練を耐え抜いた経験を美月に叩き込んだ。 「面接官が見るのは、君が『他人の命を預かる覚悟』があるかどうかだ。背筋を伸ばしなさい。返事は0.2秒。迷いは命取りになる。……いいかい、空の上ではパパは助けに来てくれない。自分を律する力だけが、君を地上に帰してくれるんだ」 レオンの指導は苛烈だったが、 そこには嫌われることを恐れない、 真実の家族としての「厳愛」があった。 美月もまた、その厳しさが自分の命を守るためのものだと理解し、 泥にまみれながら必死に食らいついていった。 「そこまで。休憩!」 レオンの鋭い声がかかった瞬間、 美月はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。 直人はすぐさま駆け寄り、 泥だらけになった娘の肩を支えてスポーツ飲料を手渡した。 「よく頑張ったな、美月。……ほら、少し飲め」 「……ありがと、パパ。……死ぬかと思った……」 荒い息をつきながらも、 美月の瞳には充実した光が宿っている。 直人はそんな娘の頭を一度乱暴に撫でてから、 隣に立つレオンを見上げた。 休憩の合図がかかり、崩れ落ちるように座り込んだ美月の元へ、直人は歩み寄った。 「……レオン、ありがとう。美月の甘さを、お前が全部削ぎ落としてくれてる。俺じゃどうしても親の顔が出てしまって、ここまで厳しくはできなかった」 直人の言葉は、本心からの謝辞だった。 自分に代わって「憎まれ役」を引き受け、娘を鍛え上げてくれるレオン。 その献身がどれほど美月への愛に満ちたものか、直人には痛いほど伝わっていた。 「いいえ。僕たちの可愛い美月さんですから。あそこで挫けてほしくないんです。僕が教えられるすべてを、彼女の血肉にして、胸を張って送り出したい」 「僕たちの」という言葉に、 直人の心臓が不意に跳ねた。 レオンは自分の個人的な想い以上に、 一人の「親」として美月の未来を本気で背負おうとしてくれている。 「……ああ。頼んだぞ、レオン」 直人はレオンの肩を強く一度、叩いた。 その手のひらから伝わる熱は、直人の不安を溶かしていくようだった。 4. 深夜の吐露、溶けゆく境界 レオンが提供したのは、目に見える「便利さ」だけではない。 美月の防大進学が現実味を帯びてきた、 高校三年の夏。 直人は、夜ごとに増していく言いようのない不安に苛まれていた。 かつて自分が整備した機体で命を落とした同僚たちの記憶。 娘を「死と隣り合わせの空」へ送り出すことに、 どうしても心が軋むのだ。 そんな夜、リビングのソファで一人、 ボーッとに暗闇を見つめていた直人の元に、レオンは歩み寄った。 「直人さん。少し飲みませんか。今日は……ストレートでいいですか?」 彼はいつの間にかキッチンから二つのグラスと、 以前自分が差し入れたスモーキーな香りのウイスキーを持ってきていた。 レオンは隣に座る許可も求めず、使い慣れた手つきで琥珀色の液体を注いだ。 直人は、促されるままにウイスキーを口に含んだ。 喉を焼く熱さが、溜まっていた言葉を押し出す。 「……あいつは、あんなに嬉しそうに『空を飛びたい』って言ってるのに。俺は、あいつを失うのが怖くて仕方ないんだ。整備士として、親として。……情けないだろ」 吐き出された直人の本音を、 レオンは遮ることなく、 深い夜の底へ沈めるように聞いた。 彼は相槌すら最小限に留め、 ただ直人の隣で、 その重すぎる沈黙を共有した。 直人が自ら言葉を選び、 胸の内のモヤモヤを一つずつ吐き出し、 消化していくのを待つように。 「……お前がいてくれて、本当によかった」 アルコールの熱が回ったせいか、 あるいはレオンの穏やかな静寂に当てられたのか。 直人は、普段なら絶対に口にしない本音をこぼした。 少し潤んだ瞳でレオンを見やり、 柄にもなく弱さを晒す。 「美月の勉強も、進路の相談も、俺一人の手に負えることじゃなかった。……お前がいてくれたから、俺は今日まで、父親として立っていられたんだと思う。……本当に、助かってる。……お前は、俺にとって……」 言葉の先は、熱くなった喉に詰まって出なかった。 だが、その言葉足らずな感謝こそが、直人にとっての最大級の「降伏」だった。 (……ああ、もう認めざるを得ないな) 直人は、閉じたまぶたの裏でそう独りごちた。 レオンという存在が、 もはや「便利な隣人」などではなく、 自分の人生に欠かせない、 唯一無二の相棒(ウィングマン)になってしまっていることを、 直人はついに受け入れてしまったのだ。 5. 三人の「Wingman」 ――そんな夜を幾度も積み重ね、 三人で過ごす日常が当たり前になっていたリビングでの ある日の夕暮れ時のことだ。 キッチンで野菜を刻む直人の広い背中を、 レオンはリビングからじっと見つめていた。 その視線の熱に気づいたのは、美月だった。 彼女はテキストから顔を上げ、 磨きをかけた流暢な英語で、 レオンを試すように揶揄った。 "Hey, Leon. You're staring at my dad like he's the most precious thing in the world. You want him all to yourself, don't you?" (ねえ、レオンさん。パパのこと、世界で一番大切な宝物みたいに見つめてる。独り占めしたいんでしょ?) 不意を突かれたレオンだったが、 彼は視線を逸らさなかった。 真っ直ぐに美月を見据え、 一字一字を噛みしめるような英語で、真実を告げた。 "You're right, Mitsuki. He IS the most precious person to me. I intend to protect him, and stay by his side forever—as family." (その通りだ、美月さん。彼は僕にとって最も尊い人だ。僕は彼を守り、一生隣にいたいと思っている。――家族としてね) 美月はわずかに目を見開いた。「家族」という言葉。それは、レオンがパパの伴侶になろうとしている決意に聞こえた。だが、レオンは戸惑う彼女を安心させるように、ふっと表情を和らげ、兄が妹に語りかけるような慈愛に満ちた声を出した。 "I've never been more serious in my life. And that includes making sure YOU get into the academy. Because you're part of the family I want to protect." (これまでの人生で、今が一番真剣だ。君を必ず防大に合格させることも含めてね。君もまた、僕が守りたい家族の一部だからだ) 美月は、今度こそ息を呑んだ。 レオンが言った「家族」には、自分も含まれていたのだ。 彼はパパのために自分を利用しているのではない。自分と同じ「空」を目指し、共に汗を流してきた自分を、一人の人間として、愛すべき妹や娘のように大切に思ってくれている。自分の夢を叶えるために、レオンは自分の人生さえも背負おうとしてくれている。 美月は、その誠実すぎる熱量に、少し照れくさそうに笑った。 「……重たいなぁ、レオンさんは。合格させるのが、パパのためだけじゃなくて、私のことも『家族』だなんて。……でも、それなら安心かな」 呆れたような口調。 だが、その瞳にはレオンに対する揺るぎない信頼が宿っていた。 美月はわかっていた。 自分への厳しい指導も、 雨の日のランニングも、 すべては自分の夢を本気で応援し、 自分が立派に飛び立てるようにと願う、 レオンなりの深い愛情なのだと。 "I see. Since we both have the same goal—keeping Dad happy—I'm counting on you to be my wingman until the exam day, Leon." (なるほどね。パパを幸せにするっていう『同じ目的』があるんだから、入試の日まで、私の相棒(ウィングマン)としてよろしくね、レオンさん) 美月はレオンに右手を差し出した。 レオンはその手をしっかりと握り、静かに、けれど熱を帯びた声で応えた。 "Copy that. I'll stick with you to the end. For our precious Mitsuki." (了解。最後まで離れずについていくよ。僕たちの、可愛い美月さんのためにね) 二人の間に流れたのは、湿っぽい感動ではなく、同じ「家」と「空」を守り抜くための、共犯者にも似た、そして本当の兄妹のような強い連帯感だった。 6. 翼の試練:入試と合格発表 運命の合格発表の日。 三人はリビングのパソコンの前に並んで座った。 美月が震える指でクリックし、画面が切り替わった。 「……あった。……あったよ、パパ!」 画面には、美月の受験番号が鮮やかに刻まれていた。 「……おめでとう、美月。……本当におめでとう。よく、頑張ったな……」 直人は椅子から崩れ落ちるようにして、 美月を抱きしめた。 整備士としての硬い掌が、震えながら娘の背中を叩く。 男手一つで育ててきた歳月、 空へ送り出す不安、 そして誇らしさ。 すべてが涙と一緒に溢れ出した。 その時、レオンがゆっくりと二人に歩み寄った。 その瞳には、かつての少年の面影を残した、 どこまでも優しく、深い悦びが満ちていた。 「美月さん。本当におめでとうございます。……あなたの努力が報われたこと、僕も自分のこと以上に嬉しい」 レオンは美月の肩にそっと手を置き、 本当の兄のような眼差しで彼女を見つめた。 「この2年間、君がどれほど真剣に夢に向き合ってきたか、一番近くで見てきました。君は僕の誇りです。僕の大切な『家族』であり、今日からは頼もしい後輩ですね」 レオンの言葉には、美月という一人の人間に対する純粋な敬意と愛情が宿っていた。 美月はレオンに向かっても満面の笑みを浮かべ、力強く頷いた。 直人は涙を拭い、レオンを見上げた。 「レオン、お前のおかげだ。……ありがとう。本当に……お前は、俺たちの恩人だ」 直人が差し出した手を、レオンは両手で包み込むように握り返した。 「いいえ。僕は、僕が守りたいもののために全力を尽くしただけです。」 レオンは穏やかな声で言った。 だが、握り合っている手の親指が、 直人の手の甲をゆっくりと、なぞるように動く。 「僕たちの……『子育て』も、これで一つの区切りです。……本当にお疲れ様でした」 その言葉は、美月には「受験指導の終わり」として届いただろう。 だが、直人の心臓は、警報のように跳ねた。 レオンは微笑んでいる。 けれどその瞳は、ついに獲物の四肢を完全に封じ込めた捕食者のそれだった。 直人は、レオンに握られた手の熱に、 逃げ場のない戦慄を覚えた。 美月が自立するということは、 自分を守っていた「父親」という盾がなくなるということなのだと。 7. 指先が奏でるカウントダウン 美月が引っ越しの準備で不在の土曜日の午後。 二人で古い映画を観ていた時のこと。 ソファでうたた寝をしてしまった直人の肩に、 レオンが優しくブランケットをかけた。 直人は微睡みの中で、 頬をなぞる微かな感触に気づいた。 壊れ物を扱うような、祈りにも似た指先の動き。 寝たふりを続ける直人の頬に触れるその指は、 小さく震えていた。 どれほどの熱量を五年間もこの細い指先に封じ込めてきたのか。 「……あと、少しですね」 耳元で響いたのは、 地を這うような、低い呟き。 それは美月が高校を卒業し、 防衛大学校へと旅立つまでの 最後の一秒を刻む秒針の音だった。 直人は、閉じたまぶたの裏で強く胸が締め付けられるのを感じていた。 レオンの一途な重圧に。 そして、自分の中に芽生えた、どうしようもない愛おしさに。 8. 幕が上がる、五度目の冬 かつて自分の裾を掴んで泣きそうだった、 あの迷子の少年はもういない。 自分を凌駕するほどの力を蓄えた「一人の雄」が、 牙を隠し、五年もの間、ただ静かに隣に座り続けている。 「……ずるい奴だ」 落ちていく意識の底で、直人は独りごちた。 直人は確信していた。 この五年間、救われていたのは自分の方だったのだと。 そして、季節は巡る。 窓の外では、あの告白の夜と同じ、静かな雪が舞い始めていた。 ついに美月の卒業と、家を出る日が近づいてくる。 約束の、五回目の冬。 止まっていた時計の針が、今、再び激しく動き出そうとしていた。

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