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第5.5話:テイクオフ・シークエンス

合格までの道のりは、決して平坦ではなかった。 1. 最初の関門:一次試験の朝 11月の一次試験当日。 まだ薄暗い早朝の玄関で、 美月はレオンから一冊の手帳を手渡された。 そこには、過去十数年分の出題傾向をレオンが独自に分析し、 美月の弱点に合わせて手書きでまとめ直した「極秘の攻略法」が記されていた。 最後の一頁には、力強い筆致の英語が添えられている。 “Trust your wings. You are ready.”(自分の翼を信じろ。準備はできている) 「いいですか、美月さん。試験は敵ではありません。あなたが空へ上がるための『計器』の一つです。冷静に、誤差なく処理してきなさい」 会場に向かう美月の背中を見送りながら、 直人は隣に立つレオンの、見たこともないほど険しい横顔に気づいた。 「……レオン、お前、俺より緊張してないか?」 「……まさか。彼女が落ちるはずがありません」 固く結ばれたレオンの拳。 直人は、この男がどれほど本気で自分の娘を「家族」として導こうとしてきたかを、 その横顔から改めて思い知らされた。 一週間後、ネット上に公開された合格者一覧。 そこに自分の番号を見つけた美月は、 リビングで待つレオンとパパの元へ飛び込んだ。 「パパ! レオンさん! 一次、通ったよ……!」 「よくやった、美月……!」 直人が娘を抱きしめる傍らで、 レオンは安堵に肩を震わせ、静かに目をつむった。 「……当然です。僕が教えたのですから」 不遜な言葉とは裏腹に、その声はわずかに震えていた。 2. 伝説の影、二次の壁 12月、1次を突破した美月を待っていたのは、 横須賀の教官たちをも唸らせる2次試験だった。 面接室の重い扉の向こう側、ベテランの幹部自衛官たちが鋭い眼差しを向ける。 「真島受験生。君は航空要員を希望しているが、もし適性検査でパイロットの道が閉ざされたらどうする」 防大入試の定番であり、 最も受験生の「覚悟」を試す問い。 だが、美月は0.2秒で応えた。 「いいえ。私は『空を守る組織』の一員になるためにここに来ました。父のように機体を支える整備や、管制の道で空を支える覚悟はできています。……ですが、選抜されるその日まで、私は自分が最高の翼になれるよう、1分1秒を惜しまず努力し続けることをお約束します」 淀みない回答。 そして、レオンから叩き込まれた「士官としての立ち振る舞い」。 面接官の一人が、わずかに口角を上げた。 その男は、かつて防大で「氷の首席」と呼ばれた橘レオンを指導した教官だった。 彼は美月の所作の端々に、かつての教え子が残した、徹底した自己規律の影を見たのだ。 (……レオンさん、私、自分の言葉で言えたよ。パパ、見てて、絶対に合格してみせる!) 3. 最後の夜、二人の「ウィングマン」の密約 3月下旬。 出発を翌日に控えた夜。 直人が「最後だから、忘れ物がないかもう一度見てくる」と美月の部屋へ引っ込んだわずかな隙。 リビングには、美月とレオンの二人だけが残された。 「レオンさん。これ……パパには内緒で、受け取って」 美月が差し出したのは、彼女が幼い頃から大切にしていた、 小さな革製のフォトケースだった。 中には、まだ幼い美月と、 今より少しだけ若く、不器用な笑顔を浮かべる直人が、 古い機体の前で写った写真が入っている。 「パパ、ああ見えてすごく寂しがり屋だから。私がいないと、きっと夜中に一人で、私の部屋を覗きに行っちゃうと思うの。……だから、お願い」 美月は、レオンの目を真っ直ぐに見据えた。 「パパのことを、お願いします。あんなに頑固で、自分のことを後回しにする人はいないから。レオンさんが、パパの隣にいてあげて。……レオンさんなら、パパを一人にしないって、信じてるから」 レオンは、差し出されたフォトケースを、 儀仗を受け取るような厳かさで受け取った。 首席で防大を卒業し、数々の困難を冷徹に突破してきた男の指先が、わずかに震えている。 「……重たい任務ですね。美月さん」 レオンの声は低く、けれど温かかった。 美月はふっと表情を和らげ、レオンの大きな手を、 自分の小さな手で包み込むように握った。 「レオンさん。……私、知ってるよ。レオンさんがずっと、私たちが大人になるのを待っててくれたこと。パパのために、私の『もう一人のパパ』になって、五年間も寄り添ってくれて……。……待っててくれて、ありがとう。自分も含め、私たちの『家族』になってくれて、本当にありがとう」 美月の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。 それは悲しみではなく、血の繋がりを超えた「絆」への、心からの感謝だった。 「……約束します、美月さん。……。君という素晴らしい娘を持てたことを、僕の人生で一番の誇りにします。あなたが空で戦っている間、僕は一瞬たりとも、直人さんを一人にはしません。彼が寂しさを感じる暇もないくらい、僕が彼の隣を……一生、守り抜きます」 「……一生、だよ? 約束ね」 二人は、直人が戻ってくる足音を聞き、同時に微笑み合った。 それは、血の繋がりを超えた、新しい「家族」の契約が結ばれた瞬間だった。 4. テイクオフの朝 翌朝、官舎の玄関。 「いってきます!」 大きなバッグを背負った美月は、一度も振り返ることなく出ていった。 その潔い後ろ姿は、もう守られるだけの子供ではない、 一人の自衛官のそれだった。 美月を乗せたタクシーが角を曲がり、 完全に見えなくなるまで、 直人とレオンは並んで立ち尽くしていた。 タクシーの窓から、遠ざかる官舎と二人の影を見送った後。 美月は品川駅で京急線に乗り換え、横須賀へと向かっていました。 手に握りしめているのは、 レオンが受験の時にに渡してくれた**「手帳」と、パパが持たせてくれた「手作りの弁当」**。 (……パパ。レオンさん。私、ちゃんと一人で歩いてるよ) 馬堀海岸駅に降り立つと、同じような大きなバッグを抱えた、 緊張した面持ちの若者たちが何人もいました。 皆、今日から始まる「地獄」と「栄光」の生活に怯え、けれど期待に胸を膨らませています。 正門の前。 美月は立ち止まり、深く一礼しました。 「真島美月、着校します!」 その声は、かつてレオンに厳しく仕込まれた通り、腹の底から響く凛としたものでした。 ゲートをくぐった瞬間、 そこはもう「パパの娘」でいられる場所ではありません。 怒号のような指導、1分1秒を争う着替え、連帯責任の腕立て伏せ……。 美月の新しい戦いが、ついに始まったのです。 5. 残された親達 美月が旅立った後の部屋は、驚くほど広く、冷たく感じられました。 直人は、美月の机の上に残された「消しゴムのカス」を見つけ、たまらず鼻の奥をツンとさせます。 「……あいつ、本当に一人で行っちゃったな」 「……行っちゃっいましたね」 直人が寂しげに、けれど誇らしげに笑う。その隣で、レオンは預かったフォトケースをそっとポケットの中で握りしめた。 「ええ。……立派なテイクオフでしたね、班長」 レオンの横顔は、いつになく穏やかだった。 だが、その瞳の奥には、5年間の「猶予」を終え、 ようやく手に入れた獲物を決して逃さないという、静かで激しい情熱が再燃していた。 二人は並んで、静まり返った官舎へと戻る。 階段を上がる足音だけが響く中、直人はまだ気づいていなかった。 美月が旅立ったこの日から、 レオンとの「本気の攻防戦」が始まるのだということに。

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