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第19話 鋼の咆哮、「喪失の予感」

1. 牙を剥く静寂:スクランブル発進 その音は、予兆もなく基地の平穏を切り裂いた。 「スクランブル! スクランブル!」 けたたましく鳴り響くサイレン。 整備班員たちが一斉に、弾かれたように走り出す。 直人の思考は瞬時に「整備班長」のスイッチへと切り替わった。 だが、掩体壕(えんたいごう)から引き出されるレオンの愛機を目にした瞬間、 心臓を冷たい指先で直接掴まれたような、異質なざわつきが走った。 「燃料、チェックよし。兵装、確認。……エンジン始動!」 直人の指示が飛ぶ。 キャノピーが閉まる直前、レオンと目が合った。 昨夜、あの広いベッドの上で「離したくない」と 子供のように縋り付いてきた、甘く潤んだ瞳はそこにはない。 酸素マスクの奥、レオンの瞳は鋭く、 獲物を屠るためだけに研ぎ澄まされた「氷の王子」のそれだった。 「……レオン」 直人の呟きは、アフターバーナーの轟音にかき消された。 二機のF-15が、陽炎を揺らしながら滑走路を蹴る。 空へと吸い込まれていく鋼の翼を見送りながら、 直人は自分の指先が、微かに、けれど抗いようもなく震えていることに気づいた。 (……レオン。……必ず、帰ってこい) これまで何度も見送ってきたはずの背中だ。 だが、昨夜あの男に「僕の城」へ連れ去られ、 その体温を知り、 その独占欲を全身で受け止めてしまった今、 直人の「公」の防波堤は、音を立てて崩れかけていた。 2. 暗転する空:悪天候の罠 発進から三十分。 指揮所の無線から漏れ聞こえる音声に、 整備場は重苦しい沈黙に包まれた。 空の状況は一変していた。 急速に発達した低気圧の影響で、 レオンたちが展開する空域は猛烈な雷雲に覆われている。 『……こちらアルファ……方位090……視界ゼロ……っ……バリバリ……』 無線の音声が、激しいノイズに混じって途切れる。 「班長……、これ……」 隣で無線を傍受していた部下の声が震えた。 直人は何も答えず、 ただ一点、 レーダーサイトが示す「レオンの輝点」を凝視していた。 (……ふざけるな、レオン) 脳裏に、昨夜の情景がフラッシュバックする。 『あなたの匂いを嗅いでいないと、脳がどうにかなりそうなんです』 あんなに自分に執着し、 自分がいなければ死ぬと言わんばかりに甘えていた男が、 今、自分には手の届かない数万フィートの上空で、 荒れ狂う嵐と対峙している。 「……っ……こちら、……たち……返せ……っ!」 ノイズが激しさを増し、ついに無線の音声が完全に消失した。 レーダーの輝点も、乱反射する雷雲の影響で消失と再会を繰り返している。 直人の息が止まった。 視界が急激に狭まる。 もし、このままあの男が帰ってこなかったら? あんなに広い、あんなに清潔で冷たいマンションに、 俺を一人きりで残していくのか。 家賃なんて言わせた癖に、 自分だけ先に消えて、 俺に一生、孤独を背負わせるつもりか。 (……独身寮の方が、まだマシだった。……お前が、あの場所が『俺たちの家』だなんて思わせたんだ。……責任を取れ、レオン!!) 直人は整備場の隅、 誰の目にも触れない場所で、 手すりを壊さんばかりに握りしめた。 心臓の音がうるさい。 冷や汗が背中を伝う。 かつてない「喪失」への恐怖が、 整備班長としてのプライドを容易く食い破っていく。 3. 沈黙の後に:奇跡のタッチダウン 永遠とも思える十分間が過ぎた。 「……ターゲット、感あり! 距離15!」 オペレーターの絶叫が響くと同時に、 雲を突き破って、満身創痍の鋼の翼が姿を現した。 直人は、滑走路の端へと駆け寄った。 爆音とともにタイヤが接地し、ドラッグシュートが花開く。 機体が停止し、キャノピーが開いた瞬間、直人の足は勝手に動いていた。 タラップが架けられるのも待てず、機体に駆け寄る。 レオンは、ヘルメットを脱ぎ、 乱れた金髪をそのままに座席に沈み込んでいた。 その青白い顔が、直人の姿を見つけた瞬間、ふわりと——氷が溶けるように緩んだ。 「……直人さん。……迎えに、来てくれたんですか」 レオンは機体から降りるなり、 周囲の視線も、軍人としての体裁もすべてかなぐり捨て、 直人の肩にどさりと体重を預けた。 アドレナリンが切れ、全身が目に見えて震えているのが伝わってくる。 「……馬鹿野郎。……死ぬかと思っただろうが、この……っ」 直人の声は、自分でも驚くほど掠れていた。 レオンは、直人の首筋に鼻を押し付け、 深く、深く、その匂いを「補充」するように吸い込んだ。 「……すみません。……でも、あなたの匂いを思い出したら、何が何でも帰らなきゃって……。あんな広い部屋、あなたが一人でいたら……寂しがると思って。僕がいないと、あなたは眠れないでしょう?」 確信犯だ。 この男は、自分が死ぬほど心配していたことを分かっていて、 わざとこんな甘い、それでいて残酷なことを言う。 だが、直人はそれを突き放すことができなかった。 「……ああ。……寂しかったよ、クソ野郎。……早く帰るぞ。……俺たちの、家に」 レオンは、力なく笑いながら、直人の腰をギュッと抱きしめた。 その姿は、先ほどまでの「氷の王子」ではなく、 ただ、大好きな主人の元へ死線を越えて帰ってきた、 ボロボロの大型犬だった。 4. 帰還:本当の「聖域」へ その夜。 新居のベッドルームには、 かつてないほど濃密で、静謐な時間が流れていた。 レオンは直人の腕の中に潜り込み、 まるで一秒でも離れたら消えてしまうと言わんばかりに、 直人の心音を確認するように胸に耳を当てている。 「……直人さん。……家賃、一ヶ月分免除してあげましょうか?」 「……うるせえ。……倍払ってやるから、二度とあんな思いをさせるな」 レオンはクスクスと、喉を鳴らすように笑い、 直人の手のひらに何度も唇を寄せた。 「……幸せです。……あんな冷たい空の上で、死ぬかもしれない瞬間に、……あなたの待つこの部屋のことだけを考えていた。……ここが、僕の本当の『聖域』ですから」 レオンは、直人の首筋に残る昨夜の「愛情の証」をなぞり、 そこに新しく、もっと深い体温を刻み込んだ。 「今夜は、離れませんよ。……僕の熱を全部、あなたの中に閉じ込めておきますから」 窓の外では、まだ激しい雨が降り続いていた。 だが、この分厚い遮音壁と、 互いの震える肩を抱き寄せる体温があれば、 もう何も怖くはなかった。 直人はレオンの柔らかい髪を静かに撫で続け、 ようやく訪れた本物の安らぎの中へと、二人で沈んでいった

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