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第一楽章 1小節目 はじまりの一音
生まれてからずっとそばにあった音楽が、楽しく思えなかった。まるで他人事のようだった。
――彼のヴァイオリンを聴くまでは。
春の午前中の空気は、まだ少しだけ冬の冷たさを残している。
足を踏み入れた校舎は、新しい場所のはずなのに、どこか懐かしい古い匂いがした。
廊下の床はわずかに歪み、ところどころタイルが剥がれている。
この学校は、思っていたよりずっと長い時間を積み重ねてきたようだ。
埃とワックス、それに歳月が混ざり合った独特の香りは、不思議とささくれだった心を落ち着かせた。
悪くない、と直感的に思う。
入学式。
体育館の使い込まれた床が、春の光を反射してやけに眩しく見えた。
整然と並んだ椅子の列に、身じろぎもしない新入生たち。緊張のせいか、会場はしんと静まり返っている。
朝波 七音 は、手元の式次第を指先で折り曲げながら、ぼんやりと前方を見つめていた。
校長の話。来賓の挨拶。
どれも既視感のある定型文ばかりで、時間だけが重たく過ぎていく。
(長いな……)
やがて式は終わり、生徒による部活動紹介が始まる。
七音は、高校で部活動に入るつもりはなかった。
幼い頃から音楽が常に隣にあった。
父の影響だ。
家にはギターがあり、ピアノがあり、譜面とCDが山ほど転がっていた。気がつけば、自分でも作曲をするようになっていた。
けれど最近、音楽に心が躍らない。
曲を書いても、楽器を鳴らしても、どこか冷めた他人事のように感じてしまう。
(もう、辞めてしまおうか)
そんな諦めに似た思考が、頭の片隅をよぎった、その時だった。
ステージの袖から、数人の生徒たちが楽器を抱えて現れた。
ヴァイオリン、ヴィオラ、そしてチェロ。
(弦楽部か)
七音は、わずかに顔を上げた。
クラシックにはあまり馴染みがない。
どうせ退屈な勧誘演奏だろう。その程度の期待感だった。
ひとりの男子生徒が、一歩前へ出る。
背が高い。
ピンと伸びた背筋と、迷いのない立ち姿が目を引いた。
彼がヴァイオリンを肩に乗せる一連の動作は、驚くほど自然だった。まるで楽器そのものが、最初から彼の一部であったかのように。
少し首元が緩められたYシャツ、ラフに崩した制服。
遠目からでも分かる整った顔立ちに、客席の女子生徒たちが小さくざわめく。
(ああ、なるほど)
七音は冷ややかに思った。
(顔がいいやつ)
だが、次の瞬間。
彼の右腕が動き、弓が弦を捉えた。
一音、響く。
その刹那、体育館の空気が一変した。
不純物のない、剥き出しの音が鼓膜を震わせる。
七音の背筋を、ぞくっとした戦慄が駆け抜けた。
(……は?)
重なるように、もう一音。
高く、けれど決して細くない。芯のある音が真っ直ぐに伸びて、体育館の隅々まで鮮やかに飛んでいく。
奏でられたのは、モーツァルトの軽やかな旋律。
春風のように跳ねる音楽の中で、他の弦楽器も重なり合っていく。
けれど、七音の耳は、無意識にあのヴァイオリンの音だけを追いかけていた。
音が、力強く前へ進んでいく。
まるで意志を持って空間を押し広げるような、圧倒的な推進力。
(うまい、とか……そんな次元じゃない)
音が呼吸をしている。旋律がぐっと熱を帯びて持ち上がる。
最高音に達した瞬間、ヴァイオリンの彼がわずかに胸を逸らした。
それは、彼が音を操っているのではなく、溢れ出す音に背中を押されているようにも見えた。
七音は気づけば、身を乗り出すようにしてステージを凝視していた。
(……なんだよこれ)
音楽で、これほどまでに心が掻き乱されたのはいつ以来だろうか。
胸の奥が妙にざわつく。さっきまで感じていた灰色の退屈は、一瞬にしてどこかへ吹き飛んでいた。
曲が終わり、最後の余韻が体育館の空気に溶けていく。
一瞬の濃密な静寂。
直後、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
七音は手を叩くことも忘れ、ただ呆然とステージを見つめていた。
礼を終えたヴァイオリンの彼が、ふっと顔を上げた。
目が合った。
広い会場、何百人もいる中で、そんなはずはない。
けれど確かに、彼は一瞬だけ七音の方を見据え、そして、ほんの少しだけ悪戯っぽく笑った。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響く。
さっきまでぼやけていた高校生活の輪郭が、急に鮮明な色彩を持ち始めた気がした。
七音はまだ知らない。
あのヴァイオリンの先輩――八神 暁輝 と、これから幾度となく音を重ねていくことを。
そして。
自分の中に眠っていた音楽が、残酷なほど美しく変貌していくことを。
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