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第一楽章 2小節目 チェロやんなよ
入学式の翌日、放課後。
旧校舎から続く渡り廊下の突き当たり、学校の最果てのような場所に弦楽部の練習室はあった。
錆びついたトタン屋根を戴く、年季の入った木造建築。
かつては特別教室として使われていたというその建物からは、建付けの悪い窓の隙間を縫って、微かな音が漏れ聞こえていた。
断続的に繰り返される開放弦の響き。チューニングだろうか。
七音は引き戸の前で、一瞬だけ足を止めた。
(……別に、入部すると決めたわけじゃない)
自分に言い聞かせるように心の中で呟く。
けれど、あの体育館で聴いた音が、耳の奥から離れてくれないのだ。
七音は短く息を吐き出し、重い扉を横に滑らせた。
「失礼します」
室内には、予想以上に多くの生徒が詰めかけていた。
そのほとんどが女子生徒だ。壁際に並ぶ色褪せた楽器ケース、林立する譜面台、独特な松脂の匂い。あちこちで弦を擦る音や、チューニングの「A 」の音が重なり合い、心地よい不協和音を作っている。
「新入生?」
近くにいた二年生らしき女子生徒が、楽譜から顔を上げて声をかけてきた。七音は短く頷く。
「見学です」
「どうぞどうぞ、奥へお入り!」
促されるまま視線を走らせると、練習室の最奥で、ひと際鮮やかにヴァイオリンを鳴らしている姿があった。
――いた。
体育館で、空気を塗り替えたあの先輩だ。
彼は無造作にヴァイオリンを肩に乗せ、指先を確認するように弓を動かしている。ただそれだけの動作なのに、彼の音だけが、雑多な騒音を透かして真っ直ぐに届いてくる。
(……やっぱり、この人だ)
七音は、吸い寄せられそうになる視線を強引に手元へ落とした。
「楽器、触ってみる?」
先ほどの女子生徒が、親切そうに楽器の並んだ一角を指差した。
ヴァイオリン、ヴィオラ、そして一回り大きなチェロ。
七音はわずかに迷った後、チェロの前に置かれた丸椅子に腰を下ろした。触り慣れたアコースティックギターに、そのサイズ感が近かったからだ。
大きな楽器を体の方へ引き寄せ、包み込むように抱え込む。
想像していたよりも、重さは感じない。
けれど、弦に触れる指先がわずかに強張った。
少しでも力を入れすぎれば、この繊細な均衡を壊してしまいそうな、奇妙な危うさがあった。
見よう見まねで弓を握り、太い弦を一本、なぞってみる。
低く、重厚な音が足元から這い上がってきた。
(……そりゃ、音くらいは出るか)
「ねえ」
不意に、真後ろから声をかけられた。
七音が振り返ると、そこにはあの先輩が立っていた。
ヴァイオリンを肩に乗せたまま、すぐ近くで七音を見下ろしている。
思っていたよりも、距離が近い。
「きみ」
先輩は、確信に満ちた瞳で言った。
「音楽、やってるでしょ」
質問ではなく、完全な断定だった。
七音は止めていた弓を膝に置く。
「……まあ、多少」
「ギター?」
「と、ピアノを」
先輩は満足げに、口角をわずかに上げた。
「やっぱりね」
それから彼は、七音の指先を品定めするように見つめた。
「弦楽 は初めて?」
「そうです」
「でも、楽器への触れ方に迷いがないね」
「……鳴れば、とりあえずいいかなって思って」
七音がぶっきらぼうに答えると、彼は面白そうに声を立てて笑った。
そして、流れるような動作でさらりと言い放つ。
「チェロ、やんなよ」
七音は顔を上げた。
「……なんでですか」
先輩は、軽く肩をすくめてみせる。
「俺と音が合いそうだから」
あまりにも直感的で、根拠のない理由だった。七音は思わず、呆れたように笑みが漏れた。
「それ、勧誘ですか」
「うん」
迷いのない即答。
彼はそのままヴァイオリンを構え、流麗な旋律を一節だけ奏でた。体育館で聴いたのと同じ、どこまでも透き通った音。
七音の胸の奥が、また不規則にざわつき始める。
「俺、ヴァイオリンだからさ」
「……知ってます」
「だから」
先輩は、ほんの少しだけ目を細めて笑った。
「きみと合わせてみたい」
七音は一瞬、言葉を失った。
胸の奥が、ひどく騒がしい。さっき出したばかりのチェロの低い残響が、まだ耳の奥にこびりついて離れない。
七音は、逃げるように弓を持ち直した。
「……じゃあ」
わずかに緩んだ頬を隠すように、視線を伏せる。
「やってみます」
先輩は満足そうに頷いた。
「決まりだね」
それから、思い出したように自分の名前を口にする。
「俺、八神暁輝」
七音は、一呼吸おいてから答えた。
「……朝波です」
「朝波くん」
暁輝は、少しだけ身を屈めるようにして七音の顔を覗き込んだ。
「合わせたいからさ。早く鳴らせるようになってよ」
その言葉があまりにも真っ直ぐで、射抜くような熱を持っていた。七音が戸惑う間もなく、暁輝はくるりと背を向ける。
「暁輝くん!」
練習室の奥から、別の部員の呼ぶ声が上がった。
「ちょっと、こっちのパート見てくれる?」
「はいはい、今行く」
暁輝は軽く手を挙げると、軽快な足取りで奥へと消えていった。
その背中を呆然と見送っていると、先ほどの女子生徒が、面白いものを見たという顔で近づいてきた。
「暁輝くんがあんなこと言うの、珍しいよ」
「そうなんですか?」
「うん」
彼女は肩をすくめて、声を潜めた。
「あの人、音に関しては病的なまでにうるさいから。気に入らない相手とは、音を合わせることさえ嫌がるの」
七音は、無意識に練習室の奥へと視線を向けた。
暁輝はすでに別の部員と談笑しながら、弓の跳ね具合を試している。
不意に響いたヴァイオリンの音。
やっぱり、彼の音だけが、空気の層を突き抜けて真っ直ぐに届いてくる。
七音の胸が、またひとつ、大きくざわついた。
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