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第一楽章 3小節目 いい場所のアリア
弦楽部に入部して、一週間と少し。
放課後の練習室には、新入生たちのたどたどしい音色と、上級生たちの鮮やかな旋律が絶え間なく飛び交っている。
譜面をめくる乾いた音、誰かの弾けるような笑い声。
そんな喧騒から少し離れた部屋の隅で、七音は一人、チェロを構えていた。
まだ、指先に伝わる弦の抵抗感に慣れない。
慎重に弓を動かしても、音の輪郭がわずかに揺れてしまう。
(難しいな)
もう一度、深く。重心を意識して弓を引く。
低く、重厚な音が足元を震わせた。
「朝波くん」
不意に名を呼ばれ、顔を上げる。
いつの間にか、八神暁輝がヴァイオリンを抱えて目の前に立っていた。
「調子どう?」
「……まだ、全然です」
「ちょっと弾いてみて」
七音は言われるまま、ゆっくりと弓を引いた。
飾り気のない、真っ直ぐな音が静かに室内に溶けていく。
暁輝は、わずかに目を細めてその音に耳を傾けていた。
(全然だなんて言ってるけど)
暁輝は内心で驚きを覚えていた。
(音の芯が、もう定まっているな)
それだけではない。
七音の譜面台に乗った楽譜は、すでに一通りさらった形跡がある。他の新入生がまだ音階の読み方で苦戦している段階だというのに、彼の習得速度は群を抜いていた。
暁輝は少し考え、悪戯っぽく口角を上げた。
「朝波くん、ちょっと来て」
「え?」
「いいから。楽器持って」
暁輝はすでに、練習室の重い扉に手をかけている。七音は戸惑いながらも、チェロを抱えて立ち上がった。
「……どこ行くんですか」
暁輝は振り返り、短く答えた。
「いい場所」
彼はそのまま、迷いのない足取りで歩き出した。
渡り廊下を抜けて旧校舎へと入り、軋む階段を上っていく。
三階の、さらにその奥。放課後の静寂が支配する、人影のない廊下。
暁輝は廊下の一番突き当たりで足を止め、窓を大きく押し開けた。
春の柔らかな風が、カーテンをふわりと揺らして入り込んでくる。
「……ここ、ですか?」
「うん。ここさ、響きがいいんだよ」
暁輝はすでにヴァイオリンを肩に乗せていた。
七音は半信半疑のまま、エンドピンを床に立て、弓を構える。
すると、暁輝が先にすっと弓を動かした。
ヴァイオリンの音が廊下に細く伸び、高い天井に当たって、わずかな残響を伴って返ってくる。
七音は思わず目を見開いた。
(……あ)
埃っぽい練習室とは、響きの純度がまるで違う。音が遠くまで、淀みなく抜けていく。
「ほらね」
暁輝が続けて弓を滑らせる。
奏でられたのは『G線上のアリア』。
新入生に与えられる、最初の課題曲。
ヴァイオリンの太い弦が、温かみのある音色で鳴り響く。
ゆったりとした、祈るような旋律。音が廊下の奥へとゆっくり流れていき、暁輝の左手の長い指が、指板の上を滑らかに遊ぶ。
それは、楽器が歌っているかのような音だった。
暁輝が、演奏を止めずに視線で合図を送る。
「……入って」
七音ははっとして、慌てて弓を引いた。
チェロの低い音が、床を伝って足裏から広がっていく。
その重厚な響きの上に、暁輝の旋律が重なる。
二人きりの廊下。
音だけが主役となって、空間を満たしていく。
弾きながら、七音は奇妙な感覚に包まれていた。
チェロが低域を支えると、暁輝のヴァイオリンがふっと浮遊感を増し、より高く持ち上がる。
まるでお互いの呼吸を、音の粒子を通して分かち合っているみたいだ。
(この人の音……)
音が前に、前へと進もうとする。ぐいと、腕を引かれるような強い推進力。
暁輝の弓が描く長いレガートに引きずられるように、七音の弓も自然と連動していた。
弓の速度が、同じ速さで重なる。二人の鼓動が、同じ場所で拍動する。
チェロが深く息を吐き、ヴァイオリンがその上で艶やかに歌う。
絡み合った音が天井で跳ね返り、柔らかなヴェールとなって二人の肩に降り注いだ。
旋律が一段と熱を帯びて盛り上がった、その瞬間。
暁輝が、わずかに首を傾けて七音を見た。
目が合う。
暁輝が、ふっと満足げに目を細めた。
「いいね」
弾きながら、彼は低く呟いた。
七音の体温が一瞬、跳ね上がる。
けれど弓は止めない。
暁輝の旋律がさらに伸び、七音のチェロがそれを慈しむように受け止める。
ヴァイオリンが謳い、チェロがその足元で息を潜める。
まるで、二つの楽器が最初から一つの生き物だったかのような、完璧な充足感。
(……楽しい)
七音のこれまでの人生で、こんなにも心が震える演奏はなかった。
これは、一体なんだ。
曲が終わる。
音がゆっくりと空気の中に消えていき、静寂が戻る。
しばらくの間、二人とも言葉を発することができなかった。
窓から、また穏やかな風が吹き込み、髪を揺らす。
暁輝が、ふっと息を吐いて笑った。
「やっぱり」
七音はまだ弓を握りしめたまま、掠れた声で訊く。
「……なんですか、今の」
「合うんだよ、俺たち」
暁輝は当たり前のことのように言い切った。七音は言葉の意味を反芻し、少しだけ眉をひそめる。
「……そんなに、すぐ分かるものなんですか?」
「分かるよ」
暁輝はヴァイオリンを抱え直し、真っ直ぐに七音を見据えた。
「朝波くんと一緒に弾くと、自由になれる」
七音は一瞬沈黙し、視線を逸らして呟いた。
「……それ、褒めてるんですか?」
「もちろん」
暁輝は迷いなく答える。
「俺さ、合わないやつと弾くと、気持ち悪いんだよ。生理的に無理」
七音は思わず苦笑した。
「随分と、はっきり言いますね」
「でも、朝波くんは大丈夫」
暁輝は再び、ヴァイオリンを肩に乗せた。
「もう一回」
「はい?」
「さっきより、もっと踏み込んできてよ」
七音は、挑戦的な彼の瞳に少しだけ笑った。
「……精一杯行ってますよ」
「いや、まだ足んない」
暁輝は、射抜くような強い眼差しで言った。
「俺の音、ちゃんと追いかけて」
七音は、覚悟を決めて弓を構え直した。
(この人、本当に……)
面白い。
音がもう一度、黄金色の廊下に響き渡った。
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