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◇小品 七音くんあるある②沼

 昼休み。  旧校舎一階にある弦楽部の部室は、窓から差し込む初夏の光に包まれ、いつもより少しだけ賑やかな空気に満ちていた。    楽器を置いた女子部員たちが数人集まり、声を潜めて盛り上がっている。 「朝波くんってさ」 「うん、わかる」 「絶対モテるよね」  誰かが可笑しそうに笑った。 「もうモテてるでしょ。自覚なさそうだけど」  その時。  部室の重いドアが静かに開いた。  話題の中心である、七音だった。 「こんにちは」  彼はいつも通りの落ち着いたトーンで、普通に入ってくる。  女子たちは一瞬だけ、示し合わせたように静まり返った。  けれど、七音はその微かな異変に全く気づいていない。背負っていた大きなチェロケースをいつもの位置へ運び、慎重に床に置く。  ふと、近くにいた女子部員の一人に視線を向け、彼は手を止めた。 「あれ、髪型変えてる」  七音は自然な動きで距離を詰め、髪に優しく触れた。  目の前の七音から、花のような淡い香りがする。 「すご。なんか凝ってる」  突然触られた彼女が、驚きに目を見開いて固まる。 「え」 「似合ってますね」  感情を押し付けるでもなく、譜面をめくるような自然さでさらっと言う。  そのまま彼は何事もなかったかのように椅子に座り、ケースの金具を外して、使い込まれたチェロを取り出し始めた。  背後で、女子たちが一斉に顔を見合わせる。  別の女子が、耳元で激しく小声を飛ばし合った。 「今の聞いた?」 「聞いた。やばい……」 「破壊力やばくない? あの感じで言われるの」  その光景を眺めていた紗矢先輩が、諦めたように苦笑した。 「無自覚が一番質が悪いよね」  そんな騒ぎを全く耳に入れていない七音は、チェロを構え、指先でピツィカートを弾いて弦を軽く鳴らした。  その時、真後ろから聞き慣れた声がした。 「なお」  いつの間にか入室していた暁輝だった。 「はい?」  七音が顔を上げると、暁輝はなぜか少しだけ呆れたような、複雑な顔をして立っている。 「……何ですか」  心当たりのない七音は、不思議そうに首をかしげる。  暁輝は深く、重いため息をついた。 「沼」 「え?」 「今、沼作ったね」  七音はしばらく言葉の意味を考え、首をひねったが、結局よくわからなかったのでそのままスルーすることに決めた。  隣で暁輝がまだ何か言いたげに自分を見ていることにも気づかず、彼は再び、深い低音を一音響かせた。

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