68 / 76
◇小品 なおの写真③引出しの奥
【暁輝視点/第一楽章 秋ごろ】
放課後の練習室。
その日はパートごとの自主練習に充てられていた。
窓際にはヴァイオリン、奥の壁際にはチェロ。
部屋の中には、各々がばらばらに音をさらう弦の響きが、不規則な地層のように積み重なっている。
七音はパイプ椅子に深く腰かけ、チェロを抱えていた。
弓をゆっくりと、端から端まで使うように引く。
基礎練習。長いボウイングで、一定のテンポを保ちながら音を伸ばしていく。
地味で、けれど最も精神を使う作業。その動きに合わせて、七音の身体がわずかに、規則正しく揺れていた。
少し離れた椅子に、暁輝が座っていた。
ヴァイオリンを膝に置いたまま、彼はまだ一度も弦を弾いていない。本当は自分も課題曲をさらうつもりだったのだが、隣で七音が音を出した瞬間、抗いようもなく意識を奪われてしまった。
七音の弓が、静かに、執拗に動く。
呼吸に合わせて、制服の肩がわずかに上下する。
目は譜面を追っているはずだが、時折、遠くの景色でも見ているかのように細められる。
集中している顔だった。
普段、自分と話している時の七音とは決定的に違う。
静かで、まっすぐで、余計な夾雑物が何一つ存在しない表情。
暁輝は、無意識のうちにポケットからスマホを取り出していた。
そっとレンズを向ける。シャッター音は消してある。
画面の四角い枠に収まった、チェロを弾く七音。
西日の差し込む窓から光が横ざまに当たり、弓が弦の上を滑る刹那が、銀色の糸のように浮き上がった。
暁輝は何枚か、吸い込まれるようにシャッターを切った。
七音は気づかない。音の芯を探し当てることに、全神経を注ぎ込んでいる。
不意に、弓が止まった。
七音が、ふっと憑き物が落ちたように顔を上げた。
その瞬間、暁輝は反射的にスマホを下ろす。
「先輩?」
七音が、不思議そうにこちらを覗き込んできた。
「ん?」
「弾かないんですか」
「今から」
暁輝は何事もなかったような顔でスマホをポケットの奥にしまい、ヴァイオリンを肩に乗せた。
七音も、疑うことなくチェロを構え直す。
ふと、視線がぶつかった。
「やる?」
「やりましょう」
暁輝のヴァイオリンが先んじて空気を震わせる。
高く鋭い旋律。
その下で、七音のチェロが、待っていましたと言わんばかりに深く鳴った。
音が重なり、練習室の空気が一気に密度を増す。
弓を動かしながら、暁輝の脳裏には、さっきのレンズ越しの残像が張り付いて離れなかった。
(さっきの顔)
――あれは、いい顔だった。
◇
その日の夜。
暁輝はベッドに寝転び、天井にスマホをかざしながら、保存された写真を見返していた。
画面の中には、チェロを弾く七音。
少し俯いた顔のライン。
弓を引く、しなやかな腕。
射抜くような真剣な目。
しばらく無言で眺めてから、暁輝は独り言のように小さく笑った。
「いいじゃん」
その写真は、部活のメッセージグループに流すことも、誰かに自慢することもない。
ただ暁輝のスマホの奥深くに、彼だけの秘められた記録として、静かに残された。
ともだちにシェアしよう!

