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◇小品 野生の対位法
ある冬の夜。
七音は防音室のピアノの前にひとり座り、同じフレーズを何度も繰り返していた。
譜面台には、鉛筆の消し痕が広がった書きかけの五線譜。
(……ここじゃない。この音じゃない)
サビへと向かう展開部。
頭の中にはかすかな残響があるのに、指が鍵盤に触れた途端、それは凡庸な和音へと形を変えて逃げていく。
七音にとって、作曲は暗闇の中で正解の石を拾い集めるような、果てしない作業だった。
不意に、防音室の重い扉が音もなく開く。
現れたのは、数ヶ月ぶりに見る父だった。
よれたTシャツに、穿き潰したダメージジーンズ。
冬だというのに季節感のない格好で、年齢不詳の気だるい空気を纏ってそこに立っていた。
父は細めた目で譜面台を覗き込むと、唐突に口を開いた。
「そこ、Fm7じゃなくてさ。……思い切ってDbM7に飛ばしてみろよ。響きがもっと、外に開くから」
七音は驚いて手を止めた。
父から具体的な音楽の指摘を受けるのは、これが初めてだった。
半信半疑のまま、言われた通りに鍵盤に指を置く。
瞬間、防音室の空気が震えた。
今まで濁って淀んでいた旋律が、その一音で魔法のように透き通り、一気に色彩を帯びる。
「あ……」
「そんで、そのあとの展開。あえて解決させずに、11thで浮かせたまま次に行ってみろ。全体が、もっと『焦燥感』でまとまる」
気がつくと、父は真横に立っていた。
独学で世界を渡り歩いてきた男の、鋭く、研ぎ澄まされた野性の耳。
七音は父に操られるように、次々と音を重ねていく。
「ここは、もっと濁らせて。泥の中から音が立ち上がるみたいに」
「……そう、その音。誰かを呼んでるみたいな音だ」
それから数時間、父子は言葉を交わす代わりに、音を作り出す作業に没頭した。
出来上がった譜面には、今の七音が持っている端正な抒情性と、父が持ち込んだ「不規則な毒」が混ざり合い、今まで聴いたこともないような、どこか危うくも美しい響きが宿っていた。
父は満足そうに口角を上げると、母親似の七音の顔をじっと見つめて、呟いた。
「……結局さあ。理論なんて後付けなんだよ。誰かを想って、そいつに聴かせるためだけに作る曲が、一番たまんないんだ」
心臓を素手で掴まれたような気がして、七音は小さく肩を揺らした。
暁輝の顔が、脳裏に強く、鮮明に浮かぶ。
父にはすべて見透かされている。
その恥ずかしさと、認めたくない自分。
七音が、自分には全く似ていない、野性的な父の顔を見つめていると。
父は大きく欠伸をひとつして、「寝るわ」とだけ言い残し、さっさと部屋を出ていった。
父子の間に、親子らしい会話は何ひとつない。
あるのは、五線譜の上に残された、歪で純粋な音の羅列だけだ。
だが、それでいいと七音は思った。
譜面台の上。
親子の奇妙な繋がりを取り持つように、完成したばかりの譜面が、冬の夜の静寂の中で静かに呼吸をしていた。
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