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◇小品 絡み合う音【R18】
その日は、しとしとと春の雨が降り続いていた。
定期演奏会を終え、春休み中の七音は、どこか燃え尽きたようにぼんやりしている。
逆に暁輝は、あの演奏会に触発されたかのように、いつにも増して熱心にヴァイオリンを弾いていた。
いつもの七音の家の防音室。
七音はソファに座り、クッションを抱えたまま暁輝の姿を眺めていた。
暁輝の音色は、出会った2年前から変わらず華やかで、よく響く。
けれど今は、あのころよりも少しだけ、耳に馴染む音になっていた。
鋭さの奥に、柔らかな温度が混じっている。
暁輝が一曲弾き終えた。
弓を下ろし、七音を見て笑う。
「気が抜けてんね」
七音は小さく首を振る。
「この2年間に思いを馳せていたんです」
暁輝は「ふーん?」と気のない返事をすると、ふとピアノの上に視線をやった。
そこに置かれていた楽譜を手に取る。
七音の表情がわずかに固まった。
フランクの『ヴァイオリンソナタ イ短調』。
「これ、どうしたの」
七音は少し口元をもごつかせながら言う。
「……先輩と一緒にやりたくて。知ってる曲だとは思うけど」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、暁輝がぱっと顔を綻ばせた。
それは、恋人からの愛の贈り物も同然だった。
暁輝は譜面台に楽譜を置く。
「やろう」
「え、今?」
「弾けるんだろ?」
七音は小さく息を吐き、立ち上がる。
ピアノの前に座った。
「第4楽章」
暁輝はそういうと、確かめるようにフレーズをいくつかさらい、目で七音に合図を送る。
七音がうなずいた。
ピアノの柔らかな和音が響く。
そこに、ヴァイオリンの旋律が滑り込んだ。
暁輝のヴァイオリンが、しっとりとした色気を孕んで歌う。
七音のピアノそれに応え、旋律が絡み合う。
追いかけ、重なり、また離れる。
呼吸が、ひとつになる。
床を這う振動が、足の裏から身体へと静かに響いてくる。
七音が顔を上げると、暁輝もこちらを見ていた。
視線が絡む。
それでも演奏は止まらない。
二人は見つめあったまま、音の流れに身を任せる。
音楽はどんどん熱を帯びていく。
最後の旋律が駆け上がり、ヴァイオリンの一音が部屋の隅まで鋭く飛んだ。
静寂。
荒い吐息だけが、閉ざされた空間に残った。
暁輝が、彼にしては珍しく、無造作な手つきで楽器をソファへ置いた。
その瞳は、獲物を捉えた獣のように鋭く、それでいて熱を孕んで潤んでいる。
対峙する自分もきっと、同じ目をしているのだろう。
「……なお」
名前を呼ばれるより先に、強い力で引き寄せられた。
ぶつかるように重なった唇は、楽器を奏でていた時よりも熱く、狂おしい。
七音は、暁輝の首に腕を回した。
松脂の匂いと、暁輝自身が持つ優しい香りが混ざり合い、脳の芯を麻痺させていく。
暁輝の手が、七音のシャツの裾から滑り込んだ。
弦を操るために鍛えられた、長く繊細な指。
それが熱を帯びた素肌を這うたび、七音の身体はチェロの弦のように、深いところから震えた。
「……待って」
七音が顔をそらして制すると、暁輝はすべてを察したように動きを止めた。
暁輝の腕を強く取り、二人は防音室を後にする。暁輝は拒むことなく、その導きに黙って従った。
階段を上り、逃げ込むようにして七音の自室へ滑り込む。
扉が閉まる音を合図に、勢いのままにもう一度唇を重ねた。
そのまま雪崩れ込むようにベッドへ倒れ込むと、外の雨音さえも遠のいていく。
暁輝の指先が、七音の胸元を、腹を、執拗になぞる。
奏者特有の熱を帯びた指先と、左手の硬い指先が肌を擦る微かな感触に、七音の思考は真っ白に溶け去った。
「声、聴きたい」
暁輝が耳元で、掠れた低音を囁く。
その声は直接鼓膜を揺らし、身体の奥底までをも振動させた。
七音の口から、抑えきれない吐息が溢れる。
「っふ、はあ……」
震える旋律を耳で楽しむように、暁輝は七音の柔らかな部分を探り続けた。
触れ合う肌と肌の間で、互いの鼓動が重なっていく。
それは、どんな名曲よりも激しく、完璧なリズムに思えた。
暁輝の舌が七音の鎖骨をなぞり、秘められた熱い場所へと降りていく。
解きほぐす指先が、七音の内側をゆっくりと開いていった。
「……怖い?」
低く、慈しむような声が耳元を掠めた。
七音は、逃げるように視線を逸らしたりはしなかった。
恋人の目をまっすぐに見つめ、静かに首を振る。
「……はやく」
その言葉を引き金に、二人の境界線が消えるようにして、熱い塊が内側を満たした。
「……っん、ああ!」
七音は大きくのけぞり、暁輝の肩を強く掴んだ。
内側から直接揺さぶられるような感覚。
それは、音楽家として、恋人として、最も深い場所での共鳴だった。
暁輝が目尻を綻ばせ、額に汗を滲ませながら、うわ言のように紡ぐ。
「……なお、大好き。愛してる」
その声に、七音も必死に答えた。
「せんぱい、俺も。……暁輝先輩……っ」
暁輝の激しい動きに合わせて、七音の声が、旋律のように途切れ途切れに響く。
繰り返される愛撫。
幾度も重なる絶頂の果てに、二人は抗いようのない深い海へと沈んでいった。
ベッドで目を覚ますと、すっかり夜が更けていた。
暗闇に沈んだ部屋で、七音は暁輝の腕に抱かれていた。
隣を見ると、暁輝は最初からそうしていたように、じっと目を開いていた。
「うわっ。……びっくりした」
至近距離で見つめられていたことに驚く七音に、暁輝はくすくすと喉を鳴らした。
「どんな気分?」
七音は猛烈に気恥ずかしくなって、少し俯きながら、けれど隠さずに言った。
「……最高の気分ですよ」
その言葉に、暁輝は今日一番の明るい笑い声をあげた。
窓の外では雨が静かに降り続き、二人きりの夜が密やかに満ちていった。
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