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◇小品 兄ちゃん
ある日の部活終わり。七音は、いつものように暁輝を連れて自宅へ戻った。
玄関の扉を開けた瞬間、家の中から子どもたちの弾んだ声が聞こえてくる。
「すみません先輩。きょうだい達が来ているみたいで」
七音の言葉に、暁輝は少し意外そうに目を丸くした。
「きょうだいがいたの?」
「はい。別々に暮らしているんですけど……」
説明を続けようとしたその時、リビングの扉が勢いよく開いた。
小さな影が二つ、飛び出してくる。
「兄ちゃん!」
幼い男の子と女の子が、示し合わせたように七音の腰へ飛びついた。
細身の七音がその勢いに押されて後ろへ傾く。
背後にいた暁輝が、とっさに片手でその背中を支えた。
「奏 、律 。元気そうだね」
七音が苦笑しながら二人の頭を撫でる。
にいちゃん、にいちゃん、と騒いでいた二人は、ふと七音の後ろの大きな人影に気づいた。
「だれ?」
「でかい!」
「兄ちゃんの高校の先輩だよ」
紹介され、二人は暁輝をまじまじと見上げる。
やがて弟の律が、ぱっと目を輝かせた。
「ねえ、ゴウカイジャー知ってる!?」
返事も待たず、暁輝の腕をぐいぐい引っ張る。
「こっち!こっち来て!」
そのままリビングへ引き込まれ、姉の奏も後ろからついていく。
七音はおろおろと暁輝を見る。
だが当の本人は嫌がる様子もなく、むしろ面白そうな顔をしていた。
怪獣たちの歩調に合わせて、素直に連れていかれる。
それからの一時間は、なかなか壮絶だった。
かくれんぼ。
鬼ごっこ。
容赦のない戦隊ごっこの敵役。
さらに人気アニメのオープニングをピアノで弾いて聞かせ、夕方のアニメ放送が始まったところで、ようやく二人は束の間の解放を手に入れた。
「すみません、散々付き合わせてしまって」
「いや、面白かったよ。久々にこんなに体を使った」
ソファに深く腰掛けた暁輝が、少し乱れた髪をかき上げる。
七音は、訊かれたわけではなかったが、暁輝にだけは伝えておきたいと思い、静かに話し出した。
「あの二人とは、母親が違うんです」
暁輝は驚く様子も見せず、ただ横目で続きを促した。
「父が再婚して二人が生まれて、今は都内で暮らしています。二人にとってこの家は祖母の家なので、たまに遊びに来るんです」
再婚当時、継母からは一緒に住まないかと誘われた。
けれど、当時は音楽にしがみついていた時期で、七音はこの家にあるピアノや、染み付いた音の記憶から離れたくなくて、一人残ることを選んだのだった。
暁輝は、テレビに釘付けになりながらも時折「兄ちゃん」と振り返る子供たちの姿を見て、ふっと口元を緩めた。
「愛されてるね、お兄ちゃん」
「関係は良好ですよ。きょうだいというより、歳の離れたいとこみたいな感覚に近いですけど」
七音が答えたとき、姉の奏がおもむろに近づいてきて、暁輝の傍らに置かれたヴァイオリンケースを指差した。
「これ、なあに?」
暁輝は優しく笑うと、「見せてあげる」と言って楽器を取り出した。
顎に当て、流れるような鮮やかな旋律を奏でる。
目の前で鳴り響く本物の音に、子供たちは息を呑んで目を輝かせた。
「あたしもやりたい!」
騒ぎ出す奏を七音が慌てて宥めようとしたが、暁輝はそれを視線で制した。
暁輝は奏を自分の膝の間に招き入れ、楽器を構えさせた。
小さな女の子にはまだ大きく重いヴァイオリンを、奏が壊れ物に触れるように慎重に持つ。
「こうやって構えて。そう、弓はゆっくり動かすんだよ」
暁輝が手を添えて導くと、ギィィ、と掠れた、けれど確かな音が鳴った。
奏の瞳がパッと明るく弾ける。
自分が出した「音」に心を奪われた少女の横顔を、七音は眩しそうに見つめていた。
やがて日が落ち、暁輝が帰る時間になった。
駅までの道すがら、七音は改めて頭を下げた。
「今日はすみませんでした」
「いいって。まとわりつかれて死んだ目をしているなおを見るのは、なかなか新鮮で面白かったし」
暁輝が愉快そうに笑う。
七音は少しの沈黙の後、ずっと気になっていたことを口にした。
「あの……楽器にも触らせてくれて。先輩、断るかなと思ったんですけど」
楽器は演奏家にとっての命だ。
他人に安易に触らせるようなものではない。
暁輝は足を止めると、七音の方を向き、いたずらっぽく口角を上げた。
「特別だよ。なおの家族だから」
その言葉に含まれた重みと温かさに、七音は心臓が跳ねるのを感じた。
夜の冷え込みが始まりつつある駅前で、そこだけが熱を持っているようだった。
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