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第三楽章 1小節目 溶けない音

 校庭の桜はすでに散り始め、足元に淡い色の層をつくっていた。  風が吹くたびに、花びらがゆっくりと舞い上がる。  七音(なおと)は、高校三年生という、宙ぶらりんな受験生になった。    校舎を歩けば、まだ至る所に暁輝(あき)の面影が残っている。  渡り廊下、屋上へ続く踊り場。  そして、あの旧校舎三階の廊下。  ふとした瞬間に、ヴァイオリンを構える背中や、音が立ち上がる直前の鋭い静けさを思い出してしまう。    けれど、その主は今はここにいない。  大学生と高校生という身分の差は、思った以上に二人の世界を遠く隔てていた。  画面越しに届く暁輝の言葉からは、新しい生活の充実ぶりが透けて見える。  暁輝のことだ。  大学という新しい舞台でも、常に輝いて、人に囲まれているに違いない。  「学生オケに参加することにした」  そう報告を受けてから、連絡の頻度が少し減った。  寂しさよりも先に、暁輝が自分の知らない音楽の世界へと鮮やかに踏み出していく焦燥感が、七音の胸を静かに侵食していた。  一方、暁輝は、かつてない壁に突き当たっていた。  初めて足を踏み入れたオーケストラの練習場。  そこは、高校時代のように彼が中心となって回る世界ではなかった。  譜面台が整然と並び、各パートの音がばらばらに鳴っている。  暁輝に与えられたポジションは、2ndヴァイオリンの下位プルト。  かつてコンマスとして部員を率いていた暁輝が、  今は大勢の中の「一団員」として、他人の背中を見ながら弾く立場になったのだ。  楽器を構え、音を出した瞬間に違和感があった。  周囲と音が混ざらない。  自分の音だけが、前に出すぎて浮いてしまう。 「ヴァイオリン、そこ。もっと周りの音に溶けて」  指揮者の棒が止まり、鋭い指摘が飛ぶ。  注意を受けたのが自分だと気づいたとき、暁輝はわずかに弓圧を落とした。    今までソロとして、あるいは主役として生きてきた暁輝の音は、あまりに輪郭がはっきりしすぎていた。  暁輝が弦を震わせるたび、その華やかな音色がオーケストラという巨大な織物から、一筋の糸だけが浮き上がるように突出してしまうのだ。 (……溶ける、か)  今まで考えたことのない言葉だった。  顎に楽器を挟んだまま、暁輝は静かに奥歯を噛み締めた。  合奏の休憩時間。  暁輝が一人で納得のいかないフレーズをさらっていると、背後から柔らかな気配が近づいてきた。 「八神くん、うまいね。今年の新人の中では、間違いなく一番だ」  顔を上げると、そこにコンマスの早川が立っていた。  穏やかな物腰の男だが、いざ楽器を構えれば貴族の未亡人のような、狂おしく情熱的な色気を放つ。  理想的なコンマスとしての風格が、その立ち姿から滲んでいた。 「ありがとうございます」  暁輝が素直に礼を述べると、早川は少しだけ笑い、それから何気ない調子で、逃げ場のない確信を突いた。 「でもね、八神くん。君は、少し『弾きすぎ』だね」 「弾きすぎ、ですか」 「そう。オケはさ、主役が一人じゃない時間があるんだよ」  その言葉は、暁輝のプライドを音もなく貫いた。  高校で七音の音を聞いたとき、あんなにアンサンブルの歓びを知ったはずだったのに。  いざ巨大な組織に放り込まれると、自分の音が異物として弾かれている。  暁輝は、腕の中のヴァイオリンを見つめた。  生まれて初めて、自分の「音」に、深い疑問が芽生え始めていた。

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