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第三楽章 2小節目 覚悟のクレッシェンド
放課後、七音はある場所を訪ねていた。
閑静な住宅街に佇む、蔦の絡まる上品な邸宅。
呼び鈴を鳴らすと、品のある、けれど冬の空気のように冷たい顔立ちの女性が姿を現した。
元音大講師、東條 礼子 。
七音の祖母の旧友であり、七音が四歳から十年間、音楽の基礎を叩き込まれた師である。
中学の時、七音は「音楽に楽しさを見出せない」と、彼女のもとを逃げ出すように去った。
今回、祖母のとりなしでようやく得た、再教育のチャンスだった。
通されたレッスン室には、重厚なグランドピアノが置かれていた。
大きな窓から春のうららかな陽光が降り注いでいるが、部屋の空気はどこかぴんと張り詰めている。
「もうやりたくないと言って逃げ出した子が戻ってくるなんて。一体、どんな風の吹き回しかしら」
感情を削ぎ落とした厳しい声に、七音は一瞬たじろぐ。
けれど、すぐに腹の底に力を込め、彼女の瞳を真っ直ぐに見返した。
「音楽をもう一度やることにしました。人生の一部に、したいんです」
東條は黒曜石のような瞳でじっと七音を観察したあと、微かに顎でピアノを指した。
「やってみせなさい」
七音は黙って鍵盤の前に座った。
奏で始めたのは、暁輝を想って書き留めた、自身の旋律。
指先が触れるたび、音は流れる川のように、あるいはすべてを包み込む新緑のように、天井の高い部屋へと広がっていく。
演奏が終わると、東條は小さく息を吐いた。
「これは、誰かに捧げられた曲のようね」
やはり、この人には隠し事はできない。七音は素直に頷いた。
東條の口角が、わずかに、皮肉めいた角度で引き上げられる。
「しばらくここに来ない間に、素晴らしい演奏家に出会ったのね」
七音の脳裏に、暁輝の音が鳴り響く。
華やかで、堂々として、どこまでも遠くへ飛んでいく、光のような音色。
「わかりました。もう一度あなたを見ましょう」
東條の顔から慈悲が消え、厳しい教師の顔に戻る。
「音大受験は生半可な気持ちではできません。あなたより感覚も理論も優れた受験生は山ほどいます。それでも、やり遂げる覚悟があるのね?」
七音は迷わなかった。
俺は人生を捧げると決めた。
音楽と、あの気高く美しいヴァイオリニストに。
一方の暁輝は、大学オケの練習場で一人の女子学生に声をかけられていた。
「暁輝くん、久しぶり」
振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。
中学時代、コンクールで何度か競い合った相手だ。
「久しぶりだね」
暁輝はいつもの、そつのない笑みを浮かべる。
けれど、女子は彼の顔を検分するように見つめると、唐突に切り出した。
「暁輝くん、音が変わったね。前はもっと……孤高だった」
孤高。
かつて自分が、誇りにしてきた言葉。
「暁輝くんがオケに入るなんて思ってなかった。本当に変わったんだね」
彼女はさらに攻めるような口調で、言葉を重ねる。
「でも、暁輝くんは絶対ソロ向きだよ。……私は、前の音の方が好きだったな」
それだけを言い残し、彼女は去っていった。
暁輝の心に、鋭いささくれが残った。
今の自分を否定されたような、ざらついた感覚。
無意識に、ヴァイオリンを抱く手に力がこもる。
暁輝の脳裏に浮かんだのは、自分を全肯定し、柔らかく包み込んでくれた七音の音だった。
周囲と溶け合おうとする今の自分は、牙を抜かれただけなのだろうか。
春の宵、暁輝は一人、答えの出ない問いを抱えたまま、弦に指を置いた。
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