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第三楽章 3小節目 孤独な王

 七音の生活は、一変してモノクロームの譜面で埋め尽くされていた。  学校の授業を終えると、すぐさま東條の厳しい指導が待っている。  別の日は音楽塾にも行き、日付が変わる頃に帰宅してから、ピアノの前で複雑な和音を重ね続ける日々。  かつてのように、放課後の旧校舎で誰かの音を待つ余裕など、今の七音には微塵もなかった。  暁輝とは、もう一ヶ月近くも会えていない。  そんなある日の夕方、予期せぬ来客があった。  玄関を開けると、そこに立っていたのは、晩春の風を纏った暁輝だった。 「……先輩。どうしたんですか、突然」  驚きで声を震わせる七音に対し、暁輝はいつもの不敵な笑みを浮かべようとして、けれどわずかに口角をこわばらせた。 「大学、どうですか」 「うーん。ちょっと、いや……結構、苦戦してるのかも」  暁輝が弱音を吐くのを、七音は初めて聞いた。  居間に通された暁輝は、積もる話もそこそこに、促されるようにヴァイオリンを取り出した。  そして、何かに取り憑かれたように同じフレーズを何度も、何度も繰り返す。  かつての暁輝なら、一度で完璧に弾きこなしていたはずの旋律。  力になりたい。  けれど、自分はいままでこの人に与えられてばかりだった。  七音は自分の未熟さと、彼の手助けすらできない無力さを痛いほどに噛み締めていた。  数日後の休日。久しぶりに都合を合わせた二人は、賑わう繁華街へと繰り出した。  とりとめもない話をしながら歩くが、結局のところ、話題はいつの間にか音楽のことばかりになっている。  案の定、暁輝の指先が所在なげに動き始めた。 「今日はうち、ピアノの調律が入ってるんですよね」 「じゃあ、俺んち行こう」  その一言で、七音は初めて暁輝の自宅を訪れることになった。  住宅街にある、大きな窓が特徴的な一戸建て。  そこで出迎えてくれたのは、暁輝の姉、光理(ひかり)だった。  女性にしては背が高く、モデルのような体躯にさらさらとした黒髪。  華やかな顔立ちは暁輝とよく似ていた。 「君が七音くんね。暁輝くんからよく聞いてる」  光理は気さくに笑い、七音をリビングへ招き入れる。  壁には幼少期の暁輝が、小さなヴァイオリンを掲げて誇らしげに笑う写真や、数々のコンクールの賞状が飾られていた。  「茶菓子を買ってくる」と暁輝が席を外したとき、光理が静かに口を開いた。 「暁輝くんがお友だちを家に連れてくるの、珍しいんだよ」  驚く七音に、彼女は天才と呼ばれた弟の、知られざる過去を語り始めた。  幼い頃からヴァイオリンで頂点を極めてきた暁輝は、常に「独り」だった。  誰かと音を合わせる必要のないほどの才能が、彼を孤高の場所に留めていたのだ。  「あの子の音は、あまりに完璧すぎて孤独だった。  だから私、高校では弦楽部に入るように勧めたの。  誰かと一緒にやる経験をしなさいって」    光理は優しく目を細めた。  「目論見は当たったね。あの子、高校で君に出会って、誰かと弾く歓びを覚えた。だからこそ、今また新しい壁にぶつかっているのね」  夕方、光理が出かけたあと、二人は静かなリビングで楽器を構えた。  ピアノの伴奏に乗せて、暁輝のヴァイオリンが空気を震わせる。  七音は鍵盤を叩きながら、横顔で一点を見つめる暁輝に言葉を投げた。    「俺は、先輩と出会って、誰かと作る音楽の楽しさを知ったんですよ」    暁輝の弓が、一瞬だけ止まりかける。  「先輩だって、知ってるでしょう?あの日、初めて二人で合わせた時の……あの感じ」  七音の声は、かつての暁輝がそうしてくれたように、迷う背中を優しく押し包んだ。  暁輝は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、憑き物が落ちたように小さく笑った。 「……そうだな。なおの言う通りだ」  再び走り出した旋律には、先ほどまでの刺々しいささくれは消えていた。  二人の音が絡み合い、溶け合っていく。それは、どんな言葉よりも確かな「答え」のように、部屋の隅々まで満ちていった。

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