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第三楽章 4小節目 黄金色のアンサンブル

 練習場の高い天井に、ブラームスの重厚な和音が鳴り響く。  暁輝は、自分を取り囲む膨大な音のうねりの中で、もがいていた。 「ストップ。……八神くん、まただ」  コンマスの早川が、鋭く、けれど静かな声を上げる。 「君の音は、あまりに『正解』すぎるんだ。  一音一音が完璧で、美しすぎて、まるで真っ白なキャンバスに金色の絵の具をぶちまけたように浮いてる」  早川は楽器を構え直し、暁輝の目の前で同じフレーズを弾いてみせた。  「いいかい、ブラームスの弦楽器は、一人で歌うものじゃない。  隣の奏者の呼吸を吸い込み、後ろの席の振動を背中で受け止めるんだ。  君は今、自分の音を『遠くに飛ばそう』としているけれど、今は隣の楽器の中に『染み込ませる』ことを考えて」  誇りにしてきた「輝き」が、この場所では異物として扱われる。  かつての暁輝なら、その傲慢とも言える音で周囲をねじ伏せていたかもしれない。  けれど今の彼は、奥歯を噛み締め、必死にその「濁り」や「重み」を掴もうと食らいついていた。  練習が再開される。  暁輝は、自分の輪郭を消すイメージで弓を動かした。  弦を強く弾くのではなく、深く、粘り強く押し当てる。  一人で完成させる音ではなく、隣の老練な団員が奏でる渋い音に、自分の音をそっと預ける。  その時だった。  ふわりと、懐かしい感覚が暁輝を包み込んだ。 (……なお)  脳裏に浮かんだのは、七音のあのチェロの音だ。  自分の音を主張せず、ただそこにあるだけで周囲の空気を優しく変えてしまう、あの無私な響き。  暁輝は無意識に、七音の懐に飛び込むような気持ちで、身体の余計な力を抜いた。  自分が音を出すのではない。  オーケストラという巨大な生き物の、一つの細胞として呼吸する。  その瞬間、暁輝のヴァイオリンからトゲが消え、周囲の音と見事に噛み合った。 「……よし、そこだ。八神くん、今の感覚だよ」  早川が、演奏を止めることなく、暁輝に向かって短く頷いた。 「前よりずっと良くなっている。君の華やかさを殺さずに、全体の『影』の一部になれている。いい音だよ」  早川に初めて真っ当に認められ、暁輝の頬がわずかに上気する。  それは、コンクールで優勝した時よりも、ずっと泥臭くて、温かな達成感だった。  演奏の最中だというのに、暁輝の身体には、まるで七音が背後から包み込んでくれているような錯覚さえあった。    自分の音を「溶かす」ことは、自分を失うことではない。    七音が教えてくれたその答えを、暁輝はブラームスの重厚な調べの中に、確かに見つけようとしていた。

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