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第三楽章 5小節目 光の設計図
初夏の柔らかな夕暮れが、大きな窓から差し込んでいた。
東條のレッスン室は、外の暖かさが嘘のように、ひっそりと冷え切っている。
七音の前に置かれているのは、自身の手で書き進めた譜面と、まだ真っ白な五線譜。
ピアノの蓋は重々しく閉じられ、部屋の隅にあるメトロノームだけが沈黙を守っていた。
「……この和音の連結、どう説明するつもり?」
東條の細く白い指先が、音符の並びを鋭く指した。
七音は喉の奥を湿らせ、小さな声で答える。
「そこは、響きが綺麗だと思って……。少し影が差すような、切ない色が出るんです」
「色、ね」
東條の声には、感情の温度がなかった。
「そんな、画家の真似事のような言葉を聞きたいのではないわ」
彼女はおもむろに立ち上がると、ピアノの鍵盤を乱暴なほど正確に叩いた。
七音が「綺麗だ」と信じていた音が、部屋の隅々にまで冷たく響き渡る。
「耳当たりはいいでしょうね。でも、これはただの『甘え』よ」
東條は鍵盤から手を離すと、冷徹な瞳で七音を射抜いた。
「和音の規則を無視し、次に続くべき流れを断ち切っている。
……七音、あなたは今まで、自分の『耳』という狭い檻の中だけで、音楽を飼い慣らしてきたのね」
「耳」という檻。
その言葉が、七音の胸を深く抉った。
「理論は、先人たちが築き上げた知の地図よ。
あなたは地図も持たずに、暗闇で見つけた光を『感性』だと過信している。
それは誠実さではなく、ただの怠慢です」
東條は黒曜石のような瞳で、七音をじっと見つめる。
「もう一度言いなさい。この音をここに置いた、音楽的な『理由』を。
感覚や色、そんな逃げの言葉を使わずに」
「…………」
七音は、震える唇を噛みしめた。
美しいと信じていた砂の城が、理屈という風にさらわれて、音もなく崩れていく。
暁輝のあの圧倒的な音色は、自由な感性だけでなく、こうした血の滲むような理知に支えられていたのだと、今さらながらに思い知らされた。
「……分かりません。説明、できません」
絞り出した答えに、東條は短く鼻を鳴らした。
「なら、そのペンを置きなさい。
今日はひたすら、基礎の課題を解かせます。
あなたの感性が、強固な骨組みを得るまでは。曲を書くことは、許しません」
高い天井の部屋に、シャープペンの芯が紙を削る音だけが、空虚に響き始めた。
七音は瞳が濡れていくのを感じながら、ただ無心に、真っ白な五線譜を埋めていった。
レッスン室を出たあとの空気は、なぜか冬のように冷たく感じられた。
駅前の小さな公園。七音は街灯の下、ベンチに深く腰掛け、突き返された譜面を見つめていた。
消しゴムの跡や書き込みだらけの五線譜が、今の自分を嘲笑っているように見える。
「あれ、お疲れさま。ずいぶんと……思い詰めた顔だね」
頭上から降ってきたのは、鈴の鳴るような、けれど凛とした声だった。
顔を上げると、そこには暁輝の姉、光理が立っていた。
薄手のトレンチコートを颯爽と着こなし、モデルのような立ち姿で七音を見下ろしている。
「……光理さん。どうしてここに」
「この近くのホールでリハーサルがあったの。それより、その顔」
光理は少し屈んで、七音の顔を覗き込んだ。
「最近の暁輝くんの顔とそっくり。……何かあった?」
初対面の時から感じていた、拒絶できない親しみやすさ。
七音は促されるまま、東條に指摘された「地図を持たない怠慢」について、堰を切ったように話し出した。
光理は静かに耳を傾け、七音が差し出した譜面を街灯の光にかざした。
「なるほどね。噂には聞いていたけど。東條先生、厳しいんだね」
光理は少しだけ表情を和らげると、七音の隣に腰を下ろした。
「……でも、七音くん。先生が言いたいのは、感性を捨てることじゃないよ」
光理は長い指先で、譜面の和音をそっとなぞる。
「私はね、曲を弾くとき、まず『設計図』を書くの。
ここはなぜこの音なのか、なぜこの転調が必要なのか。
音の一粒一粒に住所を与えるみたいに、解剖していくのね。
そうすると、不思議なことに、自分のエゴが消えて、作曲家の『意図』が見えてくる」
光理の瞳に、知的な光が宿る。
「七音くんのこの和音、確かに規則からは外れてる。
でも、これを『切ないから』ではなく、『あえて不安定な響きを持続させるため』に選んだのだとしたら?」
彼女は七音を真っ直ぐに見た。
「それはもう『甘え』じゃなくて、あなたの『論理』になるんだよ」
設計図、と七音は小さく呟いた。
今までバラバラな「点」でしかなかった音が、彼女の言葉によって一本の「線」として結びついていく感覚があった。
「理論は檻じゃない。君の感性を、世界に正しく伝えるための『翻訳機』なの。
構造がわかれば、迷わなくなる。迷いが消えれば、あなたの音はもっと自由になれるはずだよ」
光理は立ち上がり、七音の肩をポンと叩いた。
「暁輝くんもね、今オケで同じことに気づこうとしてる。
あの子、才能があるくせに意外と不器用だから。
……二人で一緒に、新しい地図を作っていきなよ」
気障な言葉をさらりと言うところまで、暁輝に似ている。
去っていく光理の背中を見送りながら、七音は再び譜面を見つめた。
街灯に照らされた五線譜には、もう、さっきまでのような冷たさはなかった。
(設計図……。俺が、この音を選んだ理由……)
七音はカバンからペンを取り出した。
突き返されたあの和音の隣に、今度は自分なりの「理由」を書き込み始める。
まだ片言かもしれないけれど、自分の音楽を、自分の言葉で語るために。
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