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第三楽章 6小節目 アンダンテの街角
暁輝は大学とオケ、それにアルバイト。
七音は受験勉強に、日々のレッスンや塾。
会えない時間は、互いを想う募る気持ちを、そのまま目の前の音楽へとぶつけるエネルギーに変えるしかなかった。
季節はいつの間にか、肌を焼くような盛夏を迎えていた。
「楽器、持ってこなかったよな?」
駅の改札を出るなり、暁輝にそう釘を刺された。
「はい、言われた通り、身一つです」
七音は苦笑いしながら、空っぽの背中を叩いて見せた。
互いに命を削るような日々の合間、なんとか都合をつけた、少し久々のデートだった。
今日の待ち合わせは、暁輝が通う大学にほど近い、賑やかなターミナル駅。
人混みの中で再会した暁輝は、夏だからか少しだけ髪を短くし、清潔感のあるオフホワイトのTシャツをさらりと着こなしていた。
高校生の頃の「制服姿の先輩」ではない。街の景色に溶け込んだ、どこか大学生らしい落ち着きが、今の彼には宿っている。
暁輝は、すでに完璧なプランを組んでいるようだった。
「行こ。連れていきたいところ、決まってるんだ」
自然な動作で七音の手を取り、歩き出す。
繋いだその手は、夏の暑さのせいか、あるいは緊張のせいか、少しだけ汗ばんでいた。
連れていかれたのは、大通りの喧騒から一本裏に入ったところにある、レトロなミニシアターだった。
「たまには、音楽が主役じゃない世界に浸るのもいいかと思って。ここ、最近の俺のお気に入りなんだ」
少し得意げに言いながら、暁輝は慣れた様子で中へ入っていく。
七音はその広い背中を追い、薄暗い場内へと足を踏み入れた。
二人が観たのは、古いフランスのモノクロ映画だった。
台詞は極端に少なく、スクリーンの中では雨の音や靴音、風のざわめきだけが贅沢に流れている。
隣に座る暁輝の体温が、肘掛け越しに伝わってくる。
二人はいつしかお互いの存在さえ一時忘れ、静謐な映画の世界に深く浸っていた。
上映が終わり、外に出ると、街は夕暮れ時の薄い琥珀色の光に包まれていた。
「……綺麗でしたね。音が、風景の一部みたいで」
「だろ?」
暁輝が満足そうに笑う。
「最近、オケで『溶ける音』ばかり考えてたからさ。映画の中の雨音を聞いてたら、七音のチェロを思い出したよ」
そう言って、暁輝は愛おしそうに七音の髪を優しく撫でた。
その後、暁輝に連れられて、路地裏の小洒落たトラットリアで夕食をとることになった。
「ここのランチがおいしかったんだけど、夜も評判いいらしいよ」
大人びた雰囲気の空間でも、目の前の人はどこか余裕があるように見える。
だがその実、彼は七音を楽しませようと気合を入れまくっていた。
小食な七音が「おいしい、おいしい」と料理を頬張る様子を見て、暁輝は心の中で小さくガッツポーズを決める。
「……なんだか今日は、今までのお出かけと違いますね」
「そりゃあ、久しぶりのデートだし。……なおが東條先生に絞られてるって聞くから、癒してあげたくてさ」
暁輝はテーブルの下で、七音の膝を軽く叩いた。
「でも、正直に言うと焦ってるよ。なお、どんどん音が鋭くなっていくから。……置いていかれるのは、俺の方かもって」
次々と運ばれてくる料理を楽しみながら、二人はお互いの「成長痛」を報告し合った。
言葉の端々に、以前よりも深い音楽的洞察が混じる。
けれどそれは、鼻につく知識のひけらかしではなく、音楽と向き合い続ける中での、切実な生きた実感だった。
店を出ると、街はすっかり夜の帳に包まれていた。
駅へ向かう二人の足取りは、いつになく重い。
「次はいつ会えるだろうな」
「うーん……。先輩だって、これから忙しいだろうし」
「そうなんだよなあ……」
会話が途切れ、ゆっくりと足を動かす時間。
しばしの沈黙の後、不意に暁輝が七音の腕を掴んだ。
街灯の届かないコインパーキングの隅、車の陰になる場所へ連れ込むと、彼は七音を壊れそうなほどぎゅっと抱きしめた。
「あーー、もう、帰したくない……」
七音の首筋に顔を埋め、ぎゅうぎゅうとしがみつきながら、もごもごと溢す暁輝。
七音も、全く同じことを思っていた。
(帰りたくないな。このまま時間が止まらないだろうか)
二人は、目の前の欲に目が眩んで大事なことを見失うような子供ではない。
でも、今この瞬間だけは、音楽も未来も忘れて、目の前の恋人のことだけを考えていたかった。
重なる鼓動が、互いの体に直接伝わる。
いつもよりも高い体温が、じわりとシャツ越しに染み込んでくる。
しっとりとした頬をすり合わせ、鼻先を触れ合わせ――そして、どちらからともなく唇が合わさった。
わずかな隙間も許しがたく、深く、深く、お互いを確かめ合うような口付け。
街の喧騒が遠のき、互いの心臓の音だけがうるさく鳴り響く。
次第に二人の呼吸が荒くなり、七音は足元が崩れそうになって、先輩のシャツをぎゅっと掴んだ。
「先輩、せんぱい……」
「……なお、大好きだよ。俺、なおのいないオケなんて、やっぱり考えられないからさ」
だから、頑張って。
耳元で囁かれたその言葉は、どんな甘い愛の言葉よりも、七音の指先にまで鮮烈な熱を運んだ。
今はまだ、二人を隔てる壁は高い。
でもきっと来年は、同じ土俵で。
二人は、夜の雑踏の隅で、静かに、けれど強く再会を誓い合った。
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