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第三楽章 7小節目 夏草とポリフォニー
盛夏の陽光が、東條邸の分厚いカーテンの隙間から、ナイフのように鋭い光を投げ入れていた。
七音は、鍵盤の上で指を舞わせながら、東條の冷徹な視線に真っ向から食らいついていた。
「そこ、左手の和音の重みが足りないわ」
東條の鋭い指摘が飛ぶ。
「バス(低音)は建物の土台よ。
土台が揺らいでいては、右手の旋律がどれほど美しくても砂上の楼閣。
もっと地面の底から響かせて」
「はい」
七音は即座に応じ、重心を低く保って和音を打ち込む。
かつてのように感情だけで弾くのではない。光理から教わった「設計図」を頭の中に広げ、一音一音の役割を論理的に整理していく。
一通りの演奏が終わると、東條は手元の楽譜を閉じ、小さく、けれど確かな息を吐いた。
「……ようやく、言葉が通じるようになってきたわね」
それは、七音が初めて耳にした、師からの賛辞だった。
数日後、七音の自宅の防音室は、外の熱気に負けないほどの熱を帯びていた。
東條から出された特別課題――「ヴァイオリンとピアノのための二重協奏曲」。
二人の対話をそのまま音にするようなこの難題に、七音は暁輝と顔を突き合わせて挑んでいた。
「ここはさ。ヴァイオリンが風みたいに駆け抜けるイメージで、ピアノはもっと引いていいんじゃない?」
暁輝が譜面を指差す。
高校時代、ただ憧れて背中を追っていた頃なら、七音は「はい」と頷いていただろう。
けれど今の七音は、自分の中に育った「音楽」を譲ることができなかった。
「いや、この部分はピアノが地面を支えて、ヴァイオリンを『拒絶』することで生まれる緊張感が必要なんです。先輩の案だと、ただの綺麗なBGMになってしまいます」
「でもこうするとさ、」
「先輩の案には根拠が見えません」
七音の言葉は、鋭く暁輝に切り掛かった。
「そう」
暁輝の声から温度が消えた。
彼はヴァイオリンを置くと、それきり黙り込んだ。
譜面を睨みつけたまま、七音の方をチラリとも見ない。
気まずい沈黙が、防音室の狭い空間に満ちていく。
(……言い過ぎた)
後悔が波のように押し寄せ、七音は逃げるように部屋を出た。
庭に出ると、茹だるような熱気が身体を包み込んだ。
頭上から降り注ぐ太陽は、まるで命を削る「死の光線」のように容赦がない。
七音はウッドデッキの庇の下に座り込み、額に滲む汗を拭いもせず、青々と茂る草木をぼんやりと眺めた。
――俺、何やってるんだろう。自分だって未熟なくせに。
自分の強情さが嫌になり、頭を抱えていた時だった。
背後で窓が開く音がして、馴染んだ気配が寄り添う。
「なお」
「……先輩」
「そんなとこにいたら、熱中症になるよ」
ぶっきらぼうだが、そこには先ほどの刺々しさはない。
「構わないでください。俺は今、愚かで未熟な自分を恥じているんです」
七音がむっつりと答えると、暁輝は声を上げて笑い、隣に腰を下ろした。
「さっきの話だけどさ。……考えてみたんだよ、なおの言う『拒絶』」
暁輝は地面の蟻を目で追いながら、静かに続けた。
「ピアノがわざとリズムをずらして、ヴァイオリンを邪魔する。
でも、ヴァイオリンはその不自由さを逆手にとって、さらに高く跳躍する……。
それなら、どちらの主張も死なない。不協和音のまま、一つの音楽になれる」
目から鱗が落ちるような、鮮やかな解答。
七音は驚いて、隣の先輩を見つめた。
「音楽ってさ、何ひとつ諦めなくてもいいのかも」
はにかむように笑う暁輝の横顔が、あまりに眩しくて。
「先輩は……いつも俺に、知らない世界を見せてくれるんですね」
七音がポツリと漏らすと、暁輝は七音の頭を優しく引き寄せ、自分の肩に乗せた。
「逆だよ。なおが、音の世界で独りだった俺を、外へ導いてくれてるんだよ」
その後、涼しい部屋に戻った二人は、冷凍庫にあったアイスバーをパキリと半分に分け合った。
冷たい甘さが喉を通り、火照った身体を静めていく。
「よし。今のアイデア、形にしよう」
暁輝がヴァイオリンを奏で、七音が鍵盤で音を確かめる。
ぶつかり合い、削り合い、それでも共に在ることを選んだ二人の音が、五線譜の上に新しい命を宿していく。
真夏の庭では、小さなひまわりが太陽を向いて、真っ直ぐに背筋を伸ばしていた。
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