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第18話 初めての欲

「っ、あれ……」  目を覚ますと身体は大分軽くなっていた。アイリの気配が近くになくて、思わず辺りを見渡して探してしまう。安物のカーテンの隙間から朝の光が差している。 「起きれる? 食欲ある?」  ぐぅ、と腹が鳴って勝手に返事をした。床に座ってベッドに凭れていたアイリがくすりと笑った。 「良かった。もしかしておかゆじゃなくてよかったかな」  ベッドからもそもそと起き上がる間にテーブルに食事が用意されていく。茶碗には湯気を立てる白粥がよそわれている。レトルトのものよりも、米の香りがした。 「こっち来れる?」  差し伸べられた手を取れず、無視して一人でベッドから降り、座った。 「はい、あーん」  スプーンに掬った粥にふぅふぅと息を吹きかけてから目の前に差し出された。 「自分で食える」  スプーンを奪い取って口に運んだ。程良い塩味と、やわらかすぎない米が口の中でほどけた。食べ始めてみると案外腹が減っていて、何度もスプーンを往復させた。 「もっと食べる?」 「ちょっとだけ」 「ん」  自分で立ち上がろうとすると肩を押して座らせられ、代わりに粥をよそってくれた。 「お前は食べないのか? ……おいしいのに」 「俺はお腹いっぱいだから」  アイリは水無月の隣に座ってテーブルに頬杖をついた。食べる水無月をじっと見つめてくる。食べにくい。 「なんか食べたのか?」 「熱が出てる皐は色っぽくて、見てたら胸がいっぱいになっちゃった」 「ッ、はぁ? なんだよそれ」  恥ずかしすぎることをさらりと言いやがって、これだから顔が良い奴は。水無月は口を金魚みたいにぱくぱくさせるばかりで、それ以上何も言えなかった。  時計を見ればもう九時を回っていた。随分寝てしまった。仕事を休んで良いとは言われたが、いつまでかは言われていない。無理して仕事に行ってもまた熱が上がりそうな気がした。  スマホを取り出して高槻のメールアドレスを呼び出す。 「誰に連絡するの?」  アイリは食べ終えた茶碗を片付けながら首を傾げた。 「誰でもいいだろ。仕事」  昨日ありがとうございました。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。重ねて申し訳ないのですが体調を崩してしまい、本日は年休いただきます。明日には出勤できるかと思います。  それだけを書いてメールを送った。三連休なんて滅多にない。申し訳なさと自己嫌悪を重ねながら、酷く重い指で送信ボタンをタップした。 「っ」  秒で電話が掛かってきた。画面に映った名前は勿論、高槻秀則。突然すぎて、話すことを考える前に受電のボタンを押してしまった。 「あ、ええと……」 「声、掠れてるな。まさか本当に風邪ひいたのか?」  開口一番、慌てた口調だ。けほ、と漏れてしまった咳を隠せなかった。 「大したことないので……」 「疲れてる時に苦手なことに誘って悪かったな」  悪い、と高槻は繰り返した。 「大丈夫です」 「本当だろうな?」  はい、と外面を作って良い子の返事をする。心配されるのは面倒だ。まだ微熱はありそうだが節々の痛みは大分消えてるし、頭痛ももう殆どない。それならよかった、と高槻さんの安堵の声が聞こえた。 「治ったら、一緒に本社行くからな。社長が会いたがってた」 「社長が? なんで……」  事情聴取されるとか、自主退職を促されるとかだろうか。 「メンタルとか体調とか気にしてるんだと思うぜ。あれで結構、社員思いだからさ。あ、俺も勿論、お前のことは心配してるからな。大事な後輩で部下だから」  高槻は自分のことを茶化すように言うが、嘘ではないのだという真摯さを感じる。 「後で何か差し入れに行くか? なんなら俺が料理の腕を振るってやってもいいぜ」 「でも……」 「ん、一人でいる方が気楽だもんな」  断るまでもなく、高槻から引いた。  皐、とキッチンにいるアイリが水無月を呼ぶ声が聞こえた。 「ありがとうございます」 「……じゃ、おやすみ」  アイリの声が聞こえただろうに、高槻は何も言わずに電話を切った。 「何の用だよ」  アイリはキッチンで食器を片付けている。 「なんでもないからシャワー浴びてきて。熱もひいたし、一回すっきりしてから寝たほうがいいよ」 「……だったら呼ぶなよ」  確かに汗をかきすぎてて臭いかもしれない。自分の分の食器をキッチンに運んでからシャワーを浴びた。汗とシャワーと一緒に良くないものが流れて行ってくれた気もした。  現金なもので、胃に食べ物を入れるとまた眠くなってきてしまう。誰かと一緒にいて緊張の糸が切れている自分が信じがたいが、そういうことらしい。  髪を乾かすのが面倒でそのままベッドに入ろうとして、アイリに強引に髪を乾かされた。なんだか当たり前みたいに、アイリに頼ってしまう。 「おやすみ」  うとうとしながらベッドに潜り込むと、ちゅ、と額に口付けを落とされた。 「ん……」  反応するだけの体力もないがさすがにすぐには眠れず、キッチンから聞こえてくる水音に耳を澄ました。  アイリはこんなワンルームの安いマンションには似合わないのに、家事をしている姿が様になってるから不思議だ。本当にヒモ生活をしているのかもしれない。  水音が止まった。  ひたひたと静かな足音がして、ベッドが揺れた。アイリが隣に入り込んでくる。控えめに腕を回された。同じくらいの体温が触れ合う。  嫌な夢を見ずに寝られる気がした。      微かな声が聞こえて目が覚めた。  何時だろう。眠りすぎて時間の感覚がない。カーテンは閉めたままだが、まだ明るい。さすがに一日寝続けたってこともないだろうから、昼くらいだろう。  隣を見て、ぎょっとした。アイリがいる。誰かが近くにいることに慣れていない。  しかも、何度見ても見飽きない芸術品の彫刻みたいで驚かされる。作り物めいた寝姿は死体にも似ているが、口元が微かに動いていた。胸元は浅く速く上下している。  小さな声で聴きとりにくいが、苦しそうな声だ。寝苦しいのかと身体を離そうとすると、声は大きくなった。 「いかない、で……」  多分、そう言っている。起こしてしまったのかと思って顔を覗き込んだが、相変わらず瞼は閉じていて、眉間には寝る前にはなかった皺が刻み込まれていた。泣きそうな顔にも見えるのに、瞼はますます固く閉ざされるばかりで涙は溢れてこない。  俺の嫌な夢をアイリが引き取ってくれたみたいだ。飄々として全てを受け流すような表情はどこにもない。 「ずっと、いっしょに……」  それを言っている相手が自分ではないことくらいはわかる。夢の中でもアイリを囚えて離さず、悲しませて、愛おしまれる相手は誰なんだろう。震えるか細い声が鼓膜にこびりついていく。 「なんで、いなくなったの」  消え入る幽かな声は、しかし悲鳴だった。嘆きだった。  理性で抗うのを諦めようと思った。こいつが不審者で騙されてるとしても、これから裏切られるとしても、もう、こいつを拒もうとは思えなかった。  水無月はアイリの悲痛な声を止める術を持たなかった。誰にもされたことがないからだ。親にもされたことがない。だから、頭を撫でて良いのか、抱き締めて良いのか、何一つわからず、子守歌も持たず、アイリとの距離を詰めて、布団の中にもぐり直した。  さっき、アイリが隣に入ってきた時にほっとして、ゆっくり眠れる気がしたからだ。  吸血鬼は──アイリは、なんなんだろう。どうしてこんな、悲しい顔をするのか。美しく不老で、人間にはないものを持ちながら、なんで。 「でも、俺が……殺したんだ」  ──俺と同じ。  ざわざわとしたものが広がった。眠れるわけがない。  だが、二人分の心臓の音が聞こえて、子守歌のような穏やかさに包まれた。吸血鬼にも心臓があるんだとわかった。この音がアイリにも伝わって、悪夢を忘れてゆっくり眠れればいいと願う。  躊躇いながら、アイリの頭を胸のあたりにそっと抱き込んだ。アイリの身体は冷たく、固く強張っていた。自分の迷いごと抱き締める。 「ん……」  呻き声ではない声が腕の中からした、気がした。浅かった呼吸がゆったりとしたものに変わっていく。冬の空気でひんやりとした髪を撫でる。  アイリの寝息が少し穏やかになったように思えて、詰めていた息を解いた。  カーテンの隙間からゆるやかな光が差し込む薄闇の中、改めて見るアイリは人形染みた印象が薄れていた。寝顔はやや幼くも見える。  アイリに出会った時の柩の中で目を瞑っていた姿に少し似ていて、違う。死んでいないことがわかる。確かに生きているとわかる。死んでいなくて生きているのだとしても、綺麗だと思った。  起こしてしまわないように、そっと頬に触れる。あの時と違ってあたたかく、やわらかい。頤に触れて、ゆっくりと上下する喉仏に触れた。死体とは全然違う。肌の下に確かに血が通っているのが指先から伝わってくる。  シャツから見えている鎖骨におそるおそる触れ、視線はそのまま胸元に誘われた。 「ぁ……」  桜の花弁のような唇がうっすら開いて、吐息が溢れた。  とくん、と心臓が跳ねた。頬よりもさらにやわらかそうな唇に惹かれ、思わず口付けそうになって、慌てて顔を離した。  悪夢にうなされていたアイリも、穏やかに眠るアイリも、邪魔するべきじゃないし触れるべきじゃない。わかっているのに、柩の中のアイリにキスしたみたいに、衝動が先立ってしまった。 「っ、な、んで……」  身体が熱く、腹の下のあたりがぞわりとして、自分の身体の状態に気付いた。下肢の、ジャージの足の間が隆起を描いていて驚いた。  性欲は薄いほうなんだろうと思っていた。ネット記事の端っこで扇情的に煽ってくる漫画の広告を見ても何も思わなかったし、試しに見てみたAVは途中で寝てしまった。死体にだって、もちろん劣情を抱いたことはない。  とにかくおさめなければと思えば思うほどアイリを見てしまい、意識してしまい、ぞわぞわと慣れない違和感が強くなる。 「──っ」  このままではだめだとベッドから出ようとして、手首を掴まれた。

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