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第17話 現実の夢
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寒い。どうしようもなく寒い。
寒気ではなく、最早悪寒だ。高槻さんの言う通りで、風邪をひいたみたいだ。
「皐。さつき! ねぇ、お父さん。この子すごく熱があるの。病院に……」
女の声。アイリじゃない。母さんの声だ。慌てていて、狼狽えている。ぱんぱんと、頬を軽く叩かれた。でも動けなくて、声も出ない。
「そんなことで家から出す必要なんかないだろう。放っておくか、せいぜい風邪薬でも飲ませておけばいい」
今度は不機嫌な男の声。父さんの声。
「でも、昨日の夜から全然下がらないんです」
くらくらする。視界はぼんやりと霞んでいるが、霞の向こうに父さんが見えた。紺のスーツを着てネクタイを締めている。額に触れたものが冷たい。母さんの手。
「俺の言うことを聞けないのか」
「っ」
ばちん、と大きな音がした。父さんの手のひらが母さんの頬を打った。打たれた勢いで母さんは俯いた。頬が赤い。肩のあたりには青い痣も見える。
母さんはタオルを持って何も言わずに立ち上がり、どこかへ行ってしまった。すぐに戻ってきて、布団に寝転がる俺の隣に座った。濡れたタオルで額や頬を拭ってくれる。
「あとで氷も持ってくるから……アイスなら食べられる?」
母さんの声が聞こえる。何も答えられない。
これは夢だ。夢を見ている。俺は過去に触れない。この後に何が起こるのか、覚えている。
「そいつに触るな」
「っ、やめ……っ」
母さんが蹴飛ばされて、どさり、床に転がった。母さんは自分の身体のことを気にもしないで俺の方に戻ってこようとする。でも、それよりも早く腹を蹴飛ばされた。
「っぐ、ぅぇ……」
布団から落ちて、冷たいフローリングの上を転がった。手も足も出せず何も話せないのに、身体の痛みだけは伝わってくる。頭ががんがんして、寒くて、床は固くて、腹は鈍く痛い。
「っ、もう触らない、触らないから、この子を蹴らないで」
母さんは懇願して、父さんはそんな母さんを見ず、壁に掛かっている時計を見た。
「何度言えばわかる。そいつに触るな」
玄関でしゃがんで革靴を履く父さんの姿が、霞んで歪んで見えない。
「いってらっしゃい」
母さんは晴れやかすぎる声を父さんに向けた。
「俺が家から出ていくのがそんなにうれしいのか」
父さんは母さんの返事を聞かずに家を出て行った。ドアの閉まる音がして、母さんが俺の近くに戻ってくる。
「ごめん、ごめんね、皐。皐に触ると、お父さんが怒るから、皐が怒られちゃうから……」
俺はふらふらしながら布団に戻って、がくがく震えながら自分の身体に自分で毛布を巻き付けた。それでも寒くて、震えは止まらない。
母さんはおそるおそる、俺の額にタオルを放ってくれた。俺に触らないように投げられたタオルはぐちゃぐちゃで、自分で置き直した。
寒い熱が通り過ぎてくれるのを、荒い息を繰り返しながら一人でじっと待つ。
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『あの人は、俺が殺したんだ』
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「皐」
そっと控えめに囁く声。不安に揺れる声。低い声。母さんじゃない声。
「あ、れ……?」
熱でぼんやりしながら目を開けると見慣れた天井があった。昔の夢を見た。棗とかいう記者に昔のことを思い出させられたせいかもしれない。
「ごめん、起こしちゃった。魘されてたから……」
仰向けになっている水無月の視界の中に入ってきたのはアイリだった。額に重みがある。水で濡らしたタオルが丁寧に乗せられている。
「悪い夢でも見た?」
頬を汗が流れ、耳へ伝い落ちて気持ち悪い。その汗の筋を、アイリはタオルで拭ってくれた。顔だけじゃない。汗で全身ぐっしょり濡れている。
「……そう、かも」
夢の内容は全部覚えていた。夢じゃない。過去だ。思い出したくもなく、思い出そうとしてこなかった、押し込めていた過去。
身体をしっかり覆う毛布の上には布団が重ねられていて、さらにアイリの黒いコートが掛けられていた。
「震えてて寒そうだったから、勝手に出しちゃった」
子どもの頃、熱を出して寝込むことはよくあったが、気に掛けてもらった記憶はほとんどない。
薬と水、食べ物を渡されるだけで、あとは自分でどうにかしていた。母さんや父さんが同じ部屋にいても、一人だった。寒くて苦しくて、どうにか時間が経つのをじっと待っていた。そういうものだと思ってた。
「今は寒い? 暑い?」
「……あつい」
寒いって言ったって、暑いって言ったって、何も変わらない。熱が下がるのを待つだけだ。
「すごい熱だったけど、少し下がってきたみたいで良かった」
アイリは夢の内容には触れず、寝間着に手を掛けた。
「な、にを……」
咄嗟にアイリの手を払ってしまう。
「なにもしないよ」
アイリは苦笑して、水無月の手の甲を指先で撫でた。
「熱が引いてきたから、一回着替えた方がいい。びしょびしょだからね」
「そんなの、自分で」
「俺にやらせて?」
やさしいのに有無を言わせぬ口調で、疑問形のくせに断言した。シャツの前を捲り上げられ、汗が外気に触れてひやりとした。
べたつく汗はあたたかく湿らせたタオルで拭い取られていく。熱すぎないタオルの温度が心地好い。
「そっち向いて」
指示に従って寝返りを打つとシャツを脱がされた。布一枚なくなるだけで心もとなくなって、肩と背中を丸めた。節々が痛む。アイリは静かに手際よく背中を拭いてくれた。
乾いた部屋着を着せられて、今度はズボンの腰に手を掛けられた。
「っ、だ、から、自分で……」
「嫌? まだつらそうだから、させてほしいな」
「……ずるい」
そんな言い方はずるい。甘えるみたいな、寂しそうな声で言われたら逆らいにくい。
「ごめんね」
悪びれずに謝りながら、アイリは水無月のズボンを下ろした。
「──っ」
下着を履いておらず、すぐに素肌があらわになってしまう。居たたまれなくて枕に顔を埋めて隠した。
タオルは尾てい骨の窪みに溜まった汗を拭きとり、膝の裏を撫で、足と足の間にするりと入ってくるものだから、思わず足に力が入った。
「力抜いてて。ほら」
太腿の外側を宥めるように繰り返し繰り返し撫でられる。その手つきに含んだものがないことがわかっても気恥ずかしい。
「甘えるのは病人の特権だから」
「っ、ぅ……」
初めてで、何をしていいのかわからない。アイリは水無月の背中側だけを見て身体を一通り拭いてくれた。
「おしまい。足上げて?」
清潔なズボンを履かせられて、くるんと毛布で包まれる。元通りだ。子供みたいで情けなくて、嫌なのに嫌じゃない。
「水もたくさん飲んで」
コップに注がれたのはスポーツドリンクだった。
「っ」
起き上がろうとしたら、ずきんと頭が痛んだ。水分が足りないせいなのか頭痛が激しい。
「冷蔵庫は空っぽなのに、こういうのはいっぱい置いてあるんだね」
「当たり前だろ」
自分の声が熱で掠れている。
風邪だってインフルエンザだって、一人暮らしだから一人でどうにかするのは当たり前だ。普段は腹が減れば何かを適当に買いに行けばいいが、こういうときはそうもいかない。市販薬とスポーツドリンク、レトルトの粥だけは買い置いてある。
「今日くらいは俺に全部任せてよ」
「なんで、そんなこと」
出会ったばっかりなのに。
出会ったばっかりなのに、二人でいることや触れられること自体には抵抗がない。理性ではこいつと距離を取るべきだとわかっているが、諦め始めてもいた。
「なんだろう、罪滅ぼしかな」
「……なに、それ」
物騒なことを言ってる気がするが、思考がうつろで言葉の意味を咀嚼できない。
「冗談だよ。早く水と薬飲んで寝ないとだめ」
ぽんぽん、と毛布の上から身体を撫でられた。
「……起きれない」
自分一人で起き上がれるに決まってる。それなのにこんなことを言ってもいいんだろうか。おそるおそる、布団から腕だけを出して手を伸ばす。
「まかせて?」
アイリは何故か嬉しそうに笑って水無月の腕を掴み、反対の手を水無月の背に添えて起き上がらせてくれた。
受け取ったグラスは冷たい。キッチンの隅に常温で置いておいたはずのスポーツドリンクは冷えていた。アイリが冷蔵庫に入れてくれたのかもしれない。
普段ならば甘ったるく感じるスポーツドリンクが丁度良く、錠剤と一緒に喉の奥へすとんと落ち、あっという間に身体に沁み込んでいく。身体に残る熱まで取れていくみたいだ。
あっという間に飲み干してしまった。足りない。
「もっと飲む?」
飲みたい、けど。
気付けばアイリの服の裾を掴んでいた。その手を、きゅっと軽く握られた。
「いなくなったりしないよ」
誰もしてくれなかったことを、アイリがしてくれる。
「……もっと飲む」
なけなしの気力を振り絞って口にすれば、握った手をそっと撫でてくれた。
「良い子だね」
甘やかす声で言ったアイリはすぐに戻ってきた。渡されたグラスを無言で飲み干す。子供みたいに扱われるのが急に恥ずかしくなってきて、グラスをアイリに押し付けた。布団の中に頭の天辺まで潜り込む。
「早く治してね」
毛布越しに囁かれる。治ったら、アイリはいなくなるんだろうか。
水分を摂ったおかげか頭痛は少しマシになっていて、うつらうつらと眠りに引き込まれていく。
「──ねぇ、皐は誰を殺したの」
アイリの声を遠くに聞きながら、強く強く耳を塞いだ。
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