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第16話 吸血鬼
「本当に吸血鬼、なんだな」
「吸血鬼みたいなもの、ね。血を飲まなくても、まぁ、一応平気なんだけど、もらった方が元気にはなるかな」
ばさり、ばさりと二度だけ羽ばたかせてから翼を消した。ちゅ、と自分の人差し指を吸ってから水無月に背を向ける。蛇口をひねる音がして、それからまた、グラスに半分ほどの水が運ばれてきた。
「水道水でごめん」
「いや、うちミネラルウォーターとか置いてないし……ありがと」
アイリが水無月の隣に座るとみしりとベッドが軋んだ。グラスを受け取ろうと右手を伸ばすが、逃げるように遠ざけられてしまう。
「飲ませてあげるよ」
「もう自分で飲めるって」
起き上がって今度こそグラスを奪おうとしてもまた避けられてしまい、代わりに右の手首を左手で掴まれた。アイリの手はひんやりと冷たくて、やや火照ってきた身体に心地好い。
「だって、皐が指舐めてる顔見てたら、したくなっちゃったんだもん」
「なっ」
したい、の意味がわからないほど世間知らずじゃない。ぐい、と顔を近付けられ、目の前に来た綺麗すぎる顔に怯んだ。
「ねぇ、だめ?」
だめって言ったら、きっとアイリは何もしないという確信があった。だめと言えばいいのに言えない。唇と唇が触れ合う距離にまで詰められ、全てを惑わす瞳に見つめられ、目を瞑った。
「……可愛すぎるなぁ、もう」
湿った吐息が掛かり、唇が鼻先に微かに触れて、それだけで離れていった。拍子抜けして、緊張に強張っていた身体から力が抜ける。
「食べちゃおうと思ったのに、可愛すぎてキスもできない」
アイリは水無月から顔を背けて正面を向くと、はぁ、と苦笑混じりのため息を吐いて首を横に振り、グラスの水を半分くらい一気に飲み干した。紺色のパジャマを渡され、ワイシャツを脱いで着込む。
下も着替えようとしてアイリの視線が気になり躊躇っていると、さりげなく水無月から視線を外してくれた。
外行きの服から寝間着に着替え終えてしまうと力が抜けてベッドに倒れようと思ったのに、自分でも思いがけず、何故かアイリに寄りかかった。キスを、されそうになった。それでも俺は、逃げなかった。
「なんで今、あったかいの」
さっき掠めた唇らしきものは、棺の中にいたときと違い、死体と間違えない程度には体温があった。頬に触れてみると肌に張りがあり、生きている人間と何も変わらない。
「血を飲むの、あんまり好きじゃないから省エネモードでいたいんだけど、起きてる時はそうもいかないから。体温を上げるにもエネルギーがいるし、あの時は死んだふりしてたしね」
「吸血鬼って血が嫌いなのか?」
水無月の問いかけに、アイリは悪戯を思いついた子供みたいに笑った。
「人間って、みんな生きているものが嫌いなの?」
「吸血鬼で括るなって話?」
「吸血鬼にも個体差があるって話。たとえば得意不得意があって、俺は動物に化けるのが得意だったりね。血はおいしいけどなんとなく苦手。牛肉が嫌いとか、そういうのと同じだよ」
グラスに手を伸ばすと、今度は素直に渡してくれた。アイリの唇の跡がグラスに残っている。間接キスにはしゃぐような歳でもない。
甘い水を思い出してグラスを傾ける。ごくごくと音を立てて飲み干す。喉の渇きを癒してはくれたが、思ったよりも甘くなかった。
「吸血鬼、ゾンビ、鬼、悪魔、淫魔、リビングデッド、食人鬼、グール、夢魔、妖怪、物の怪」
ゲームや漫画、小説。フィクションの中で聴き慣れた単語をアイリが並べる。
「前に言ったかな、想像し得るものは全て存在し得る。それらは全部人間の祈りの産物で、だから結局、全部同じものなんだよ」
「わかるようなわかんないような」
空になったグラスを取り上げ、もっと飲む? と聞いてくる。頷けば甲斐甲斐しく水を汲みに行って戻ってきた。少し何か食べた方がいいよ、と、いつの間にか用意された見慣れないクッキーまで一緒に。
「アメリカ人、日本人。男と女。子供と大人。吸血鬼とゾンビ。それぞれみんな少しずつ違ってみんな同じ。俺は想像上の生き物だと吸血鬼に近いから、便宜上、吸血鬼って名乗ってるんだよ」
外国製の菓子だろうか、緑と赤を基調にした小さな袋を開けると、直方体のクッキーらしきものが出てきた。齧るとバターの香りがする。
「こんなの、この近くに売ってたっけ」
「イギリスかぶれの友達から貰ってきたんだ。ショートブレッド、おいしい?」
友達。吸血鬼とか吸血鬼じゃないとかは割とどうでもよくなってきてて、不審者だってことも忘れがちで、こんな得体の知れない奇妙な生き物にも友達がいるらしいことに驚いた。
「友達がいるならあんな棺桶で寝たり俺の家に来たりする必要、ないだろ」
我ながら子供っぽい言い草になってしまって、
「嫉妬した?」
と言われたのも仕方ないと思う。
「俺は友達だと思ってるんだけどね……向こうがどう思ってるかはわからないけど」
「嫌われそうだもんな、お前。なんか綺麗すぎて」
「そんなことないよ、ラブコールもらってるし」
着信を示すライトが点滅しているスマホを掲げて見せた。ショートブレッドは美味しいけど口の中の水分を吸い取る食べ物だ。でも最後に水を飲み干すとバターの風味が流れてしまって勿体ない気もした。
「付いてる」
「っ、な……」
前触れもなく唇に指で触れられ、何かを摘まれた。クッキーの滓だ。アイリはそれを自分の口元に運んで食べてしまった。
「俺の友達のこと気になるなら、明日会いに行こうか? そしたら美味しい紅茶も飲めるよ。皐ならきっと、あいつらに気に入られると思うから」
紅茶ももらってくればよかったなぁ、っていうか、約束すっぽかしたから怒られるかなぁ、と、ちっとも反省してない態度で言う。
こいつはなんなんだ、と眺めていると、不意に肩を掴まれ、そのままベッドに転がされた。セミダブルのベッドの上、一人では広いけど大柄の男と寝るには狭いベッドで、身体がくっつく。
「具合、よくなった? 眠れそう?」
こつん、と額と額がくっつく。蜂蜜みたいに甘い金の瞳が、ふっと翳った。
「なんか熱っぽくない?」
「そうか? 酒飲んだからかも」
いつもよりも身体が怠く、火照ってるのに寒気もする。アルコールに強くないせいか、酒を飲むと寒くなることがある。
「それならいいんだけど……」
額をくっつけたまま、何度も温度を確かめられた。
「心配性だな」
「慣れないことがあると疲れるでしょ? ほら、俺みたいなのが転がり込んでくるとか」
「……だったら出てけよ」
自嘲気味に言うから、言い返してやる。
親を早くに亡くして、遠い親戚に育てられた。うっすら血がつながっているだけの親戚との間には距離と壁があった。彼らは俺を邪険にはしなかったし感謝もしているが、腫れ物に触れるようにそっと、というよりも、ほぼ触れられずに過ごした。
決して悪い人たちではなかったが、「家族」を隔てるものは家を出るまで消えなかった。高校を卒業して親戚の家を出てからは碌に連絡を取っていないし、ずっと一人だ。家に誰かがいるのは慣れてない。
アイリのポニーテールがさらさらと前に零れてきて、髪の先で首筋を擽られた。肌に触れる髪はひんやりと感じられて心地好い。うなじを撫でられ、髪をくしゃりと軽く乱された。
「友達の家で寝ろよ」
言葉では突き放しながら、髪に頬を寄せた。言動の一致しない水無月のことをアイリは笑わず、耳をそっと撫でてくれる。
「吸血鬼仲間だからさー、ちょっと怖いんだ」
怖いと言いながら細める目は俺を見つめてきて、酷くやさしい。耳に触れる指も頭を撫でる手のひらもあまりに甘くて、蝶を誘うふわふわの花びらの中に包まれているみたいだ。囚われるようで、こわくて、落ち着く。
「お前にも怖いものなんかあるんだな」
惑わせる感覚を振り切りたくて、会話に逃げた。吸血鬼といえば不老で、しかもアイリは動物の姿になることまで出来て、人間なんかよりも余裕があるんだと思ってた。
「吸血鬼は吸血鬼を襲うからね」
「……人間じゃなくて?」
そういえば、葬儀場にいたアイリは何かを警戒していて、隠れるために棺に入ったって言ってたっけ。
「もちろん人間の血はもらってるよ。そうしないと使っちゃった《血の力》が戻らないからね。同類の血を吸っても《血の力》は回復しないんだけど、吸いきって殺したら相手の《血の力》を奪えるんだって。だから吸血鬼の吸血鬼狩りもいるんだよ。面白いよね」
怖いと言ったのは冗談なんだろうか。他人事みたいに話す。
「それは面白い、でいいのか……?」
「良くないからこうやって逃げてるんだよ。戦ったり、殺したり殺されたりするのは怖いからね」
殺す、という言葉は現代日本では現実味はなく、冗談めいて使われるだけだ。アイリが誰かを殺すところは見たくないし、まして、誰かに殺されるところも見たくない。
「《血の力》って、そんなに欲しいものなのか」
犬になったり、したいんだろうか。
「どうなんだろうね、俺もよくわからないや。自分の望みだってよくわからないし、他の人の望みなんかもっとわからないし。でも、強い想いがあるのってちょっとうらやましいね」
すり、と頬ずりされるのは嫌でもなくて、眠気にも流されるままに聞いていた。アイリの解いた髪がシーツに広がり、銀の波を作る。
「血とは命であり、血とは存在そのものであり、血を吸うことはその存在になること。さて、ここで問題です。吸血鬼が人間の血を吸うと、吸われた人間はどうなるでしょう?」
「んー、吸血鬼になる……?」
大きな手のひらを目元に乗せられて瞼を閉じるように促されると、やわらかな暗闇と温度に包まれて急激な眠気に襲われた。働くことを拒み始めた頭のせいで、馬鹿なことしか言えない。
頭が痛いし寒い。酒を飲みすぎただろうか。
ぶるりと震えると、毛布でしっかり包み込まれぎゅっと抱き締められた。
「物語では大抵そういうことになってるね、ちょっとだけ当たり」
今まで生きてきた世界とかけ離れた世界の知識は物語でしかない。寝物語だ。今日はやけにあたたかなアイリの腕に囲われる。冷えた身体にアイリの温度が移ってきて、指の先まで血が通っていく。テディベアは寒がってるだろうか。
「詳しくはないけど、人間が吸血鬼になる方法は二つあるんだって。古い友人が……言ってた」
アイリが最初から吸血鬼だったわけではない、というのは不思議な感覚だ。人間だったアイリは、どういうアイリだったんだろう。生の匂いがしたんだろうか。
「一つ目は詳しく教えてくれなかったから今も調べてるんだけど『呪い』か『契約』で吸血鬼になるんだって」
「知らないってことは、お前はそうじゃないってことか?」
うん、とアイリは頷いた。
「もう一つは、皐が言った方法に近いよ。吸血鬼と人間が、お互いに血を吸って吸われて、吸血鬼になる」
「吸血鬼が吸うだけでなるんじゃないのか?」
吸血鬼から人間に感染する、みたいなのをうっすら想像していた。
「どっちかっていうと逆かな。人間が吸血鬼の血を体内に取り込めば良いんだけど、吸血鬼の血は人間にとっては劇薬だから、大体の場合は適合できなくて死んじゃう。だからその前に、吸血鬼が相手の人間の血を吸って中和しとく、みたいな感じ」
「アイリも……?」
誰を吸って、吸われて、吸血鬼になったんだろう。
「俺も……まぁ、似たようなものかな。吸血鬼になりたかったわけじゃないけどね。人間が吸う時に吸血鬼の心臓が傷ついたら吸血鬼側が死んじゃうこともあるから、結構大事 なんだよ」
アイリの言葉が、どこか遠い。なんで、そんな寂しそうに言うんだ。
「皐は、吸血鬼になりたい? 不老不死の、人間よりも強くて弱い生き物に」
吸血鬼の弱さも強さも何も知らない。アイリの弱さも強さも知らない。
「長生きしたいとか、思ったことないし……」
「そっかぁ」
今、どんな顔してる? 見えないけど、お前が泣いてるんじゃないかって、思ったんだ。
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