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第15話 滴る
「おかえりー皐。って、あれ? それ誰? あ、朝の電話の人?」
疑問を挟む隙もなく中から現れたのは、冗談みたいな存在だった。不審者だ。
「え……?」
「は?」
Tシャツにジャージという一目で部屋着とわかる姿で、そのくせそれでも神々しい姿で、水無月家の玄関にそれが立っていた。高い位置で無造作に一つにまとめたポニーテールさえ様になっている。
水無月が当然一人暮らしだと思っていた高槻の驚きの声と、予想外の存在の出現に理解が追い付かない水無月の間の抜けた声が重なった。
水無月の心臓は、胸から飛び出るんじゃないかというくらい激しく打った。驚いただけじゃない。これはなんだろう。なんでこんなに心臓が五月蠅いんだ。
白々しい程明るく呑気な声で高槻を「それ」と言い放ったアイリは、ぐったりとしている水無月を見るなり眉を寄せた。長い腕が伸びてきて手首を掴まれ、思いきり引っ張られた。呆然としている高槻から引き剥がされる。
「具合悪いなら、俺のこと呼んでよ。すぐ飛んでいくのに」
勢いのまま腕の中にすっぽりと抱き竦められた。呼んでって言われたって連絡先も知らない。いや、そうじゃない。なんでこの、夢みたいな存在は俺の家にいるんだ。反応できないまま、力の入らない身体をアイリに預けるしかなかった。
身体を預けるのが嫌じゃなかった。高槻さんには近付くだけで苦しかったのに。
「皐はあんまりお酒強くないんだから、飲まさないでくれるかな」
開きっぱなしのドアの前に所在なく立っていた高槻に向かって、アイリが保護者みたいなことを言い始める。
「っ、高槻さんのせいじゃ、な……」
「皐は話さなくていいよ」
後頭部に手のひらを回してそっと抱き寄せられ、頬がアイリの胸に埋まる。高槻よりもアイリの方が間違いなく不審者であるにもかかわらず、水無月はアイリを拒めなかった。
「……一人暮らしなんじゃ」
出迎えをする者がいたという状況を飲み込んだ高槻は、アイリを無視して水無月に話しかけてきた。
「皐の上司なのかな。いつもお世話になってます」
高槻さんには確かに世話になっているから言い繕いたいのに、僕も一人暮らしだと思っていたし、実際に一人暮らしのはずで、このわけのわからない生き物は不法侵入なんです、とフォローするだけの気力はない。
「送ってくれてありがとう、とは一応言っておくね?」
アイリは水無月を片腕で抱いたまま、反対の手をひらひらさせて高槻を追い出しにかかった。
「っ、そ、んな言い方……高槻、さん、すみません……ありがとう、ございました」
あまりの言い方に、水無月はアイリの胸を押して引き剥がそうとしながらどうにか口を開いた。高槻から離れてから少しずつ気分が良くなり、口を開けば今にもおえおえと吐きそう、という状態は改善していた。
「……いいって。じゃ、気を付けろよ。またな」
高槻はにこりと人の良い笑みを浮かべてドアから離れた。まだ高槻の姿も見えているというのに、アイリはドアノブを掴んでさっさと扉を閉めてしまった。鍵をかけて、おまけにチェーンロックまで。
高槻の姿が見えなくなった途端に緊張が解けて、脱力した。
「っと、大丈夫? 辛かったでしょ」
冷や汗で額に張りついた髪をそっと梳かれ、そのまま肩と膝の裏に腕を回されてひょいっと持ち上げられた。高槻から借りたハンカチを床に取り落とした。
「べ、つに酔ってな、いし、酒も弱くな……」
「気持ち悪かったんでしょ、触られるのが。俺は……平気?」
なんとなく口にした反論はすぐに封殺された。酒以上に生の匂いで酷く酔っていた。
高槻さんに、生きている人間に触れられて、生に呑まれて、吐きそうになっただけだ。
こいつはなんで、出会ったばっかりの俺のいろんなことに気付くんだろう。
「……平気」
平気どころの話ではなかった。ざわめきが落ち着いていくのは馴染んだ家の匂いのおかげじゃない。
薬になったのはアイリの匂いだ。死の匂いに似ながら甘さの混じった香りを吸い込むと、乱れていた呼吸が整っていく。べたべたした冷や汗が引いていく。
麻酔にも似た急速さで、水無月の全ての波風を凪にしていく。無意識にアイリの胸に鼻を擦り寄せ、その香りで身体をいっぱいに満たした。
気を緩めるべきじゃない。アイリを家から追い出すべきだ。それなのに。
「そっか」
ベッドに連れて行かれ、横になるように促された。
「な、んで、ここにいるん、だよ……昨日はいなかったくせに」
言い方が恨み節っぽくなってしまって、目を伏せた。
「ごめんね、昨日は本当に仕事が忙しくて。もっと早く来れればよかったんだけど」
横たわって動けずにくたりとしていると、ネクタイに手を伸ばされた。確かに緩めた方が楽だと思い当たり、アイリの手を除けて自分でネクタイを解き、ベルトを緩めた。
「……任せてくれていいのに」
アイリはぽつりと言いつつも、水無月が放り投げたネクタイを捕まえてハンガーに掛けた。シャツのボタンも全部外し、スラックスの腰のボタンも外してしまうと窮屈さが薄れて息がしやすくなる。見られている恥ずかしさよりも吐き気が勝っていた。
「水、飲める?」
緊張していたせいか、身体は底冷えして固くなっていた。寒気がする。すっかり口の中が乾いていて、舌が口腔に張りつくような感覚が不快だ。
離れていくアイリを見ていると、胸の奥がきゅっと縮こまったような感じがした。アイリはすぐに戻ってきて、息苦しさがすっと消える。
グラスに注がれた水に喉が鳴る。身体を起こそうとするが、まだ頭ががんがんして、少し持ち上げたところで顔を顰めた。
「いいよ、そのままで」
視線の先にいるアイリまで、何故か眉を寄せていた。その表情は一瞬で、すぐにあいまいな笑みを刷いた。笑ってるけど、その奥でなにを考えてるのかわからない。
「唇も渇いてるね、冷たいし」
ひんやりとした人差し指で唇の縁をゆっくりと一周なぞられた。身体が冷えているせいか、前に触られたときよりもあたたかく感じる。待ち望んだ春風に撫でられているみたいな心地良さだ。
唇の左端だけ持ち上げて、にやり、アイリが笑う。
「……口移しで飲ませた方がいい?」
「は?」
頭が固まって、表情が固まった。アイリはふっ、と軽く息を吐き出しながら笑った。
「冗談だよ。そんなことしたら、皐まで吸血鬼になっちゃうかもしれないし」
「……は?」
どこまでが冗談なんだろう。
「冗談八割、かな。物語の吸血鬼ってさ、血を吸って相手を吸血鬼にしたりするでしょ? そんな感じ」
まぁ、俺は厳密には吸血鬼ではないけど、と付け足す。心を読まれたみたいだ。
「ゆっくり飲んで。いきなり飲むとまた気持ち悪くなるよ」
唇を解すように撫でていた手が止まる。そっと丹念に触られた唇は自然と綻んだ。アイリはグラスを傾け、水無月の唇に触れている自分の手に水を掛けた。
アイリの手の甲に落ちた水は浮き出た手の筋の谷間を通り、ゆっくり流れ、指に沿い、艶やかな爪に螺鈿の輝きを灯し、水無月の唇へ辿り着いた。
「あ……」
乾いた唇が水を吸い取ってから口の中に流れ込んでくるまでが、酷く長く感じられた。アイリの肌に触れてぬるくなった水は、舌先を濡らし、口の中を湿らせた。せせらぎよりも細やかだ。
水が甘い。喉に届くまでが遠い。もっと欲しい。早く欲しい。くす、とアイリの笑い声。
「物欲しそうな顔してるね」
毒沼に浸っている自覚はある。きっともう、たっぷり肩まで浸かってる。この怪しすぎる人物から離れるべきだとわかってる。
「わかってるなら早く寄越せよ」
むっとして言い返す。
「元気になってきたみたいでよかった」
コップの傾きが増して、指を伝う水が増えた。人差し指と中指から滴る水に舌を這わす。
ゆっくりと咥内を濡らしていく甘い水は全く足らず、水が流れてくるのを待っていられず、指先を吸った。爪の間に入り込む水まで奪ってしまいたい。爪の隙間に舌先をあてて細かく動かした。
「ん……ぅ……」
水が時折指以外の場所から滴り、顎や首筋に逃げていってしまうのが勿体ない。
「そんな顔されると、ちょっと……」
困ったようなアイリの表情の変化にも気付かず、もっともっとと自然と開けた口の中に指が深く潜り込んでくる。口蓋をすりすり擦られるとぞくりと奇妙な感覚があるが、指から口を離すのが惜しい。親指で下唇を撫でられた。
「っ」
吐き気に耐えようと強く噛みすぎたせいで傷ついてしまった粘膜を撫でられ、ちりっとした小さな痛みが走った。肩が跳ねてしまう。塞がっていた小さな傷が開いて微かな鉄の香りが広がる。
「ここ、切れてる? 我慢したでしょ」
そっと何度か撫でてから指が外に出て行ってしまう。思わず舌を伸ばして追いかけても待ってくれなかった。すっかり濡れそぼっている手を、アイリは自分の口元に運んで舐めた。刹那、その表情が緩く蕩ける。
「思った以上においしいなぁ……こんな少しなのに、元気になってきちゃった」
「おいしい? 何が?」
「皐の血」
本当に童貞だし処女なんだねぇとしみじみ言われ、動くようになってきた身体を持ち上げ、アイリの膝を軽く蹴ってやった。
「褒めてるのに」
言いながら、アイリは自分の人差し指と中指に丹念に舌を這わせている。長い舌が、これもまた長い指にねっとりと絡みつく。舌の赤さに釘付けになっていると、鋭い犬歯が唇から覗いてきらりと光った。
視線が合うと、アイリが片目を瞑り、その背中から、ばさりと黒いものが生えた。蝙蝠のような翼だ。二枚広げた横幅はアイリの身長よりも長く、ワンルームのマンションには窮屈過ぎる。
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