14 / 16

第14話 待ち人

 高槻の話を聞いていたつもりなのに、こくん、と頭が落ちてしまって、慌てて重い頭を持ち上げた。身体全てが所在なく、まっすぐに座れているのかどうかもわからない。 「っ、すみません。おいしい、んですけど」  ビールよりも日本酒の方が好きだってことを発見した。焼酎は少し苦手みたいだ。匂いが強い。自分ひとりだったら新しいものを試そうとは思わないから、高槻さんのおかげ、という気もした。 「酒、飲ませすぎたな、悪い」  高槻は水無月の隣まで来て、倒れそうになっている身体を支えてくれた。乱れた前髪を指先でゆるりと掬われる。高槻が息を呑む音が聞こえた。近付いた生が、気持ち悪い。 「あぁ……思ってたより、ずっと綺麗な暗い目だ。隠さなければいいのに」  高槻は水無月の前髪を掻き分けた。  高槻の熱い指先が水無月の額に僅かに触れる。前髪という壁がなくなって、瞳と瞳が直接向き合った。どろりと淀んで熱い視線が絡まり、それは次第に収束して縫い針のように鋭くなり、水無月の中に沈んだ。 「っ、やめ……」  話すのと食べるのは気合いでどうにかした。でも触られるのは、やっぱり無理だ。  咄嗟に手を払おうとしたが、酔った身体はうまく言うことを聞かず、少し腕を持ち上げただけで空振りに終わった。  覗き込まれる。苦しく息が出来ない。いつまで続くのかと途方もなく思えた沈黙の時間は、実際には一瞬だったんだろう。 「悪い。やっぱ髪で目立たないようにしといたほうがいいかもな」  高槻が手を離すと前髪が落ちてきて、水無月の動揺を隠した。前髪を下ろしていてもお互いが見えないわけではないし、目も合う。それでも、この微かな障壁は水無月にとっては肝心だった。  止まりそうになっていた心臓は、酔いだけの早鐘に落ち着いた、と思いたかった。立ち上がると足元がふらついた。 「送る」 「ひとりでかえれます」  酒と生の匂いのせいで真っ直ぐ歩けるかどうかあやしかったが、高槻さんに迷惑をかけたくはない。  何より早く一人になりたい。断った声は自分の声ではないかのように舌足らずに聞こえた。舌が残念なことになっているのか、耳が遠くなっているのか、頭が悪くなっているのか、わからない。  やっぱり慣れないものを外で飲むんじゃなかった。高槻さんのせいじゃなくて、俺がうまく断れなかったんだけど。 「どう見たって無理だろ、それ」  千鳥足とはこれなのか、と、小説で読んだ描写に納得する。真っ直ぐ歩いてるつもりなのに蛇行してしまい、手のひらをテーブルについた。壁に掛けてあるコートを手に取ろうとして、また壁に手をつく。 「うわっ」  コートを着ようとして、段差に躓いてよろめいた。両手が塞がっていて、しかも反応が鈍くなっているせいで何にも掴めず床が目の前に近付いてくる。 「っと、大丈夫か」  激突する前に、見た目よりも逞しい高槻の腕が腰に回されて床との衝突を免れた。 「ぁ、大丈夫、です……」  きちんと立たせてくれて、肩をぽん、と軽く叩かれた。ぞわりと悪寒がした。 「俺が飲ませたんだから、俺が責任とる。気にすんな」 「だ、いじょうぶ、です、から……」 「……もっと顔色悪くなってないか? ほら、荷物寄こせ」  荷物とコートをやや強引に奪われ、腕を勝手に掴まれる。薄い布だけを隔てた場所に、他人の体温がある。剥き出しの首や手の甲に他人の皮膚が触れる。ぞわぞわとした悪寒がそこから一気に広がった。 「っ、う……」  気持ち悪い。胃の中のものがじりじりとせり上がってくる感覚がある。胃液特有の酸味のようなものが込み上げてくる。 「トイレ寄るか? 吐いた方が楽に……」  高槻の気遣いに、声を出す余裕はなく首を横に振った。そのせいで高槻の髪が耳に触れて、一層吐きそうになる。  高槻からは僅かな死の移り香もするが生の気配が勝っており、安堵を上回る不快感が襲ってくる。生が死を塗り潰してしまう。  吐き気はアルコールのせいじゃない。胃の中身が空っぽになれば吐くものはなくなるかもしれないが、多分、吐き気は治まらない。触れられている限り、近くに高槻さんが──他人がいる限り、吐くものがなくなっても吐き続ける。 「ひとり、で……」  アイリだったら、なんて、会えもしない顔が思い浮かんだ。なんで、こんなときに。  そう思うのに、アイリの顔は頭の中から消えてくれない。死に似て死よりも好ましい匂い。 「そんな顔してふらふらな奴、置いてけるわけないだろ」  置いていってほしい。道端に転がしてくれてもいい。生の匂いと気配が気持ち悪い。こんな気持ち悪い匂いは、自分ひとり分だけでたくさんだ。  そんなことを言えるわけもないし、他のオブラートに包んだ言葉に言い換えて断る余裕もない。口を開くだけで吐きそうだ。  高槻さんから離れるには、早く家に辿り着くしかない。高槻さんの腕を振り払うのを諦めた。触れあえば触れあう程ふにゃりと力が抜けそうになる足を心の中で叱咤する。  覚束ない足をどうにか動かし、手すりに寄りかかるようにしながら狭い階段を下りていく。雪崩れるように下りた時には、もう店の前にタクシーが来ていた。いつの間に呼んだんだろう。 「あ、その……お代……」 「今日はおごりだって言っただろ」  ありがとうございます、と言いかけて口を噤んだ。胃の中身が逆流してきそうだった。タクシーじゃなくて歩いて帰れます、とすら言えない。 「また来てよ」  店員の女性と高槻の視線が合い、高槻は陽気に笑った。 「大丈夫……じゃねぇか」  ドアが開けられていたタクシーの後部座席に、高槻に押し込められるようにして乗り込んだ。酔いと吐き気で姿勢を保っていられず、倒れるようにドアに寄りかかる。  高槻もすぐに後部座席に乗ってきて、丁寧にシートベルトまで付けさせてくれる。そんな親切心さえ、肌と肌が僅かでも触れれば、吐息の流れを感じれば、嫌悪感が塗り潰してしまい、唇を強く結んだ。 「お前の家、こっちであってるよな?」  高槻が方面を伝えるとタクシーは滑らかに走り出した。家の場所を話したこともあったのかもしれないが、朦朧としていて思い出せない。  高槻が伝えた住所の先をどうにか口にしてから目を瞑った。車の振動がもたらすのは眠気ではなく吐き気だけ。一度意識してしまうと吐き気の自己主張は強い。 「汗、かいてる」  ハンカチを貸してくれた。いつもきちんとアイロンがかけられてぴしっとしているハンカチだ。生の香りの移ったハンカチは使わない方がマシで、返すわけにもいかず、指先で摘んでいた。  洗って返さなければと、ぼんやり浮かんだ考えは胸の奥の不快感に押されてすぐに消えていく。 「吐きそうになったら早めに言えよ、停めてもらうから」  ドアに頭を凭れさせていると、高槻に顔を覗き込まれた。  まただ。汗の匂い、脈打つ血管の気配、額に掛かる吐息。嗚咽が漏れた。  狭い車内で逃げようがなく、息を詰めて両手の指を強く握り込んだ。仕事柄短く切りそろえた爪が手のひらに食い込む。関節が真っ白になる。 「悪いことしたな……もう少しで着くぜ」  沈んだ声で言われて、水無月は力なく首を横に振った。気の利いたことを言いたいのに、そもそもそんなこと言えないし、今は特に無理だ。  どうしようもない嫌悪感に唇をますます強く噛んだ。ちり、と小さな痛みが走り、生臭い血の味が口の中に滲んだ。 「着きましたよ」  男の運転手の声が女神の声に聞こえた。衝撃や振動もなく緩やかに止まってくれた運転技術に心の中で感謝した。メーターを見る余裕がないまま鞄の中を漁っていると、高槻がさらっと支払いを終えてくれた。 「こ、んど払います、から……」 「良いから。それより、今にも吐きそうな顔だ」  先に降りた高槻に腕を掴まれ、また支えられて歩き出す。マンションの開けっ放しになっているガラス戸を潜り、階段に向かった。 「エレベーターないのか」  こくこくと頷くと、肩を貸してくれた。歩きやすくなるが、吐き気は増す。感謝があってもどうにもならない。  半外階段を上る間、風は気持ちいいのに、風で揺れる高槻の髪の先で首筋を擽られ、悪寒がして鳥肌が立った。覚束ない歩行でどたどたと煩い足音を立て、高槻のスマートな足音を掻き消した。  三階に辿り着くまでに、二十階くらい登ったような気持ちになった。  胸はどくどくと嫌な動悸がするし、冷や汗ですっかり濡れてしまったワイシャツは肌に張りつくし、冬の冷たい風がそれを冷やしていくから、震えるしかない。寒いのか寒気なのかわからない。 「ここ?」  三階で階段を上るのを止め、二軒しかないフロアの、廊下の突き当たり、奥の方の部屋へ向かって扉の前で止まった。力が入らない手を鞄に突っ込み、今度こそ財布を探り当てたところで、扉が中から開いた。  ……中から?

ともだちにシェアしよう!