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第20話 微かな波紋

 目が覚めると身体が妙にぽかぽかとあたたかかった。二人揃って何も身に付けていない。いつの間に上まで脱がされたんだろう、と考えて、下は確かに脱がされた記憶があることを思い出した。  今まで全然想像もしたこともなかったようなことをしてしまった。今も肌と肌が触れ合っていて、同じ温度が溶け合う。  眠れないアイリが眠れればいいと願っただけのはずが、あんなことまで。  眠るというよりも少しの間気を失ってしまっていたようで、カーテンの隙間からはまだ光が入ってきている。スマホを見てみると、十五時半。もう夕方だ。  アイリの腕の中にすっぽり収まっていて、アイリと俺は温度を移し合って同じ体温で、つまりアイリからは生の気配があって、それでも不思議と気持ち悪くなかった。  すやすやと寝息を立てているアイリの睫毛は透明で長く、触れたら崩れてしまう硝子細工か、永遠に動きを止めた水晶のようにも見えた。眠れているなら、それでいいのかもしれない。  人形としか思えない。死に似た匂いがふわり、立ち上る。睫毛にそっと触れると、普通の人間の睫毛のようにやわらかい。  深く刻み込まれた眉間の皺が消えていて、ほっとする。  なんでこいつがここにいるのかさっぱりわからない。どうも寝床がないヒモってわけでもないらしい。それなのになんで俺なんかと。 「変なの……」  一人でいることが多いせいで心の声が漏れた。 「顔色、よくなったね」 「っ、な……」  掛け布団から出していた手をそっと掴まれ、そのまま手の甲にちゅ、と音を立ててキスされる。あっという間に目が覚め、慣れない距離感に身体を離そうとして背中が壁にぶつかった。  身体は確かにもうすっかり軽い。こんなに丁寧に看病してもらったのは初めてだった。触れられて、食事を用意されて、身体を拭かれて、なにからなにまで手伝ってもらった。 「ごめん、嫌だった?」  ぱっと手を離され、行き場を失った手をアイリの頬に置いた。皮膚もその下のやわらかさも、死体にはないものだ。 「いや、別に……」  驚いただけで拒否したわけじゃないと、謝ろうと思ったのに失敗した。アイリは一呼吸分間を置いてから水無月の手に手を重ねた。 「こんなの、初めてだから」 「キスのこと?」 「それも、だけど……こうやって誰かと寝るの。母さんにだって、父さんにだって、そんなことされたことなくて」  父さんも母さんももういない。 「そっか、俺で良ければ、いつでもこうしてるけど」 「誰にでもそういうこと言ってんだろ、変態」 「そんなことないよ」  綺麗な顔は綺麗すぎるせいで胡散臭く見える。だが、へらりと邪気のない笑顔の向こうに、さっき見た泣きそうな顔が透けた。  誰かを殺したアイリ。  俺と同じ、だろうか。  自分と似たような誰かがいるのだと思ったら、身体からふっと何かが抜けて、軽くなった気がした。  身体が重いなんて思ってなかったのに、背負っていたのだということに今になって気付いた。子供の頃からずっと、いつの間にか当たり前に持っていた荷物が軽くなって、そのせいか、ぐぅ、と腹の音が鳴った。 「……お腹空いた?」  緊張が解ければ、仕事もしていないのに身体は素直に空腹を訴えた。現金だ。腹の音をしっかりアイリに聞かれたのが気恥ずかしくて目を逸らす。 「確かバナナなら……」  のそのそ起き上がって毛布で身体を隠して冷蔵庫に向かう。少し黒くなりかけていたが、食べても問題ないくらいだ。冷凍庫には食パンも入っているはずだ。そのあたりを食べれば腹は膨らむ。 「俺がいる間くらい、もっとちゃんとしたもの食べて?」  ちゃんとしたもの、って言ったって、冷蔵庫の中身はろくにない。アイリが少し買ってきてくれているものもあるから、それで作れば……といってもそもそも料理スキルがない。 「一緒に買い物行こ」  綺麗な顔のウインク一つで簡単に懐柔されて、半強制的に着替えさせられて、自分の家なのに追い出されるように外に出た。      アイリは黒のニットに同じく黒のコートを羽織り、マフラーを巻いている。髪の上からマフラーを巻いているせいで弛んだ銀髪がもふっと溢れていた。  水無月はトレーナーにジーンズ、濃灰色のダッフルコートだ。コンビニに行くレベルの部屋着に仕事に着ていくコートを羽織っただけ。  陽が出ていても二月は寒く、コートの襟元から風が入り込んでくる。  水無月が思わず肩を竦めるのを見逃さず、アイリは自分が巻いていたマフラーを解き、くるくると手際よく水無月に巻いてくれた。ふわり、死に似た薔薇の交じったような香りが鼻腔を擽った。  アイリ自身は寒さのせいか、白い頬をうっすら赤く染めている。 「……痩せ我慢してないか」 「そんなことないよ。行こ」  肌が白いせいで赤さが目立ち、ふわりと綺麗に笑うから、吐き出された白い吐息と相俟って映画のワンシーンみたいだった。  一般庶民のための一般的なスーパーなら駅前にある。モデル然としたアイリとはいかにもミスマッチだが、高級スーパーも輸入食品店もこの辺りにはない。  中途半端な時間だからか人通りは多くないが、自転車に乗った主婦らしき人など、ごく普通に生活している人たちと時々すれ違う。  アイリと並んで歩くと異様に目立ち、腰の曲がった高齢の女性までが「あらあらまぁまぁ」としゃんと背筋を伸ばし、アイリに熱い視線と感嘆の声を送っていた。  駅に近付けば人も増え、通り過ぎる人の追いかけてくる視線がますます気になった。アイリは慣れているのか普通に堂々と歩いているが、水無月としては自分の爪先を見て歩くしかなかった。 「滅茶苦茶お綺麗ですね! モデルとか興味ありませんか。というかもうモデルかなにかですか? どこかに所属してます?」  アイリは目立ちに目立って、都心の駅でもないというのに大手芸能プロダクションの名刺まで差し出され、軽くあしらっていた。慣れた様子だ。ついでになのか、水無月まで名刺を押し付けられ、アイリが追い払った。  いつもと同じにも関わらずいつもと違うように感じられる駅前の道を、いつもよりも顔を隠して歩いた。前髪で目元を覆って、俯いて。 「やっぱり調子悪い?」  歩きながら顔を覗き込まれ、額に手のひらをあてられた。目を細めて憂いを帯びた表情も様になっている。きゃあ、とどこかから黄色い悲鳴が聞こえた。 「むしろよく普通に歩けるよな……」  手のひらを軽く払い、俯いたまま早足で歩く。 「どうしたの?」  アイリは周りの店を眺めながらゆっくりと追ってくる。また誰かに話しかけられていた。水無月はさらに歩く速度を上げ、スーパーに向かってずいずいと突き進んだ。アイリが大分後ろの方にいる。 「おっと、失礼」 「っ、すみません」  後ろにいるアイリに気を取られて歩いていたせいで、前から歩いてきた誰かにぶつかってしまった。  肩がぶつかった瞬間、ボーリングの球のような妙に重たいものにぶつかられた感覚があって、ぞわりとした。慌てて顔を上げれば、相手に見覚えがあった。  棗学人。水無月の家に突然やってきた記者だ。 「お連れの方、随分と綺麗な方ですね? 人形染みているというか……人間離れしているというか」  目が合うとにやりと口の端を持ち上げ、雑踏に紛れる小さな声で、水無月の耳元で囁いた。水無月からすれば想定外の相手だったが、棗が驚いている様子はない。偶然ではなく、水無月がやってくるのを待っていたのかもしれない。 「あの方は人間、なんですか?」  さらに潜められた声は、敬語にも関わらず冷たく水無月を刺した。  吸血鬼は吸血鬼に襲われることもあるとアイリが言っていた。この男は何かを知っていてアイリを狙っているのではないかという考えが過る。だが、棗からは死の匂いはしない。普通の人間だ。 「何が目的だ。今更俺の過去を掘り返したって何もないだろ」 「別にそんな意図じゃないですよ。愛やら嫉妬やら後悔やらで盲目になった奴ってのは見てて面白いって話で……ただの散歩です」  棗は肩を竦め、モッズコートをはためかせながら駅とは反対方向に歩いていく。猫背気味の後ろ姿は、駆け寄ってくるアイリとすれ違い、立ち去って行った。 「知り合い?」  不穏な雰囲気を感じ取ったのか追いついてきたアイリが首を傾げた。 「……道を聞かれただけ」  苦しい言い訳だったが、アイリを心配させたくなかった。  最初に会った時のアイリは飄々とした印象だったが、今は大分違う。ふわふわとした得体の知れない部分は残っているものの、それだけではない。  俺を気にかけて見つめてくるときの瞳は真綿よりもやわらかく、嘘がないように思えた。だからこそ、世慣れた雰囲気の裏側にある、怯える小動物のような何かを見つけた。  そんなアイリに気を遣わせたくないし、面倒で重い奴だとも思われたくない。 「……ほんとに?」 「……前にもこの辺でぶつかったことがあって、偶然ですね、って話をしただけだって」  なんで俺はこんな下手な嘘を吐いてるんだろう。誰かに嫌われるのだって、誰かが離れていくのだって、一人でいるのだって、全部平気なはずなのに。もしアイリが俺のことを面倒だと思って離れて行ったって、数日前の普通の日々に戻るだけなのに。 「前にも会ったんだ」 「それがどうしたんだよ」 「偶然なら良いんだけど」  ぽつりとアイリが零す。何かを心配しているが、何を心配しているのかは言ってくれない。  誰が何を考えてて俺のことをどう思ってるかなんて、ろくに気にしたことがなかった。でも今はそれが気になった。誰とだってうまくやれそうなアイリが、なんで俺なんかと一緒にいるんだろう。 「何が心配、なんだよ」  なんで俺と一緒にいるのかなんて聞けるわけなくて、もう一つの疑問を口にする。 「……皐まで巻き込まれたらどうしよう、って、思って」 「お前が吸血鬼に狙われてるって話? 俺は吸血鬼じゃないから関係ないだろ」 「確かに吸血鬼じゃないけど、人間と吸血鬼を見分けられるから、バレたら狙われると思う」  吸血鬼だのなんだのという生き物の存在はそんなに身近に感じられないし、人間なのか吸血鬼なのか死んでいるのかを匂いで判別できたところで有益だとは全く思えない。でも。 「俺が匂いで相手を区別できるから、こうやって色々してくれるのか?」  アイリが吸血鬼かどうかはどうでもいいが、アイリと一緒にいるのは案外心地好い。だからこそ、理由がわからないのが不安だった。いつ俺への興味がなくなって、いなくなってしまうかわからない。  アイリがいなくなったときにアイリのことを忘れられる自信が、ない。だからなにか、理解できる理由がほしかった。 「っ! そうじゃ、ない」  目を丸くして眉尻を下げたアイリの返答は、水無月の想像の百倍くらい切羽詰まっていた。どこか飄々としているアイリに似合わない、焦りが見えた。  否定してから、首を緩く横に振った。銀髪がさらさら揺れて、陽に煌めいた。 「違う、ね。最初、俺が吸血鬼だってことに気付いたから興味を持ったのは確かだよ。でも、今は……上手く言えないな」  どういうわけか転がり込んできたアイリと俺の関係性はなんだろう。本来の家主と喧嘩をしてるとかで、本当にしばらく寝る場所が欲しいだけなのかもしれない。アイリが答えをあえて濁しているのか本当に言葉にならないのかまで、水無月には分からなかった。  出会ったばかりの俺のことを気にして、介抱して、料理を作って、一緒にいる理由。  ヘンゼルとグレーテルみたいに、太らせてから餌にするとか?  そうだとして、元々日々を楽しく愉快に生きてきたわけじゃない。だったら、もしそうだとしてもこの一瞬が今までよりもマシならそれでもいいんじゃないかと思った。 「……さっさと買い物して帰るぞ」  それ以上聞き出そうとして空気が気まずくなるのには耐えられず、重くなってしまった空気を放り投げてしまいたくて歩き始めた。 「……そうだね、買い物して、はやくあったかい家に帰って、一緒にごはんにしよ。何食べたい?」 「別に、なんでも……っ」  やけに明るく言ったアイリを置いていこうとしたのに、小指を絡められた。同じ速度で歩きながら、小指に灯った小さな鼓動を感じた。

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