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第1話 灰色の部屋

 地下の尋問室には、時間の流れがなかった。  窓がないせいだけではない。石壁に跳ね返る声は乾き、蛍光灯の白さは朝とも夜ともつかず、そこに座らされた者から季節感も人間らしさも奪っていく。普通の人間なら、それだけで神経をすり減らしただろう。  だが、椅子に拘束された青年は、どうにも拍子抜けした顔をしていた。  頬に薄い切り傷があり、口の端には乾いた血が残っている。灰が混じったような金髪は乱れ、細身の外套は脱がされ、白いシャツの袖口も泥と血で汚れていた。それでも背筋は妙にきれいに伸びていて、まるで縛られているのではなく、退屈な面談に参加しているだけのように見えた。  彼は数刻前まで、敵国の工作員として帝都の一角を走り回っていた男である。名は偽り、経歴は偽り、所属も忠誠も定かでない。ただ、腕がいい。それだけは追ってきた側も知っていた。  扉の外で靴音が止まった。  まず二人、次に一人。  最後に入ってきた男が、この部屋の空気を変えた。  軍服は隙がなかった。襟も袖も靴も、磨かれたというより最初から乱れを知らないような整い方をしている。年齢は青年より少し上に見える程度だったが、室内に満ちた緊張が彼をはるかに年長の存在に見せていた。  男は机の向こうに立ち、椅子に縛られた青年を観察した。  それは捕虜を見る目ではなかった。獣を品定めする目にも、道具の耐久性を測る目にも似ている。ただし、どちらよりも静かで、どちらよりも執拗だった。 「名を」  脇にいた士官の一人が命じた。  青年は片眉を上げる。 「もう三度は聞いたろう。尋問というのはもう少し合理的なものだと思っていたが」 「答えろ」 「答えたところで本物かは分からない。そういう商売をしていてね」  苛立った士官が一歩踏み出しかけた。  その前に、机の向こうの男が片手を上げた。制止はそれだけで足りた。 「お前は何を望む」  初めて、その男が口を開いた。  低く、平坦な声だった。怒気も嘲りもない。ただ問いだけがある。  青年は少し目を細めた。 「話が早いな、いい趣味だ」 「望みを言え」 「白状はしない」  青年はさらりと言った。 「だが、契約ならする」  室内の空気が、見えない刃で一枚薄く削がれたように張り詰める。  部下たちの表情には明らかな険しさが浮かんだ。敵国の工作員が、捕虜の立場でありながら交渉の席に座るつもりでいる。それは侮辱に近い。  だが、机の向こうの男だけは眉一つ動かさない。 「条件は」 「まず、俺を捕虜としてではなく協力者として扱うこと」 「ほう」 「次に、与える情報の対価を明確にすること。金でも身分でも偽装でもいい。要するに、俺が死ぬより従う方が得だと判断できる条件だ」 「最後は」  青年の口元に、皮肉とも微笑ともつかぬ線が浮かんだ。 「俺の心を折ろうとしないこと」  今度こそ部下の一人が舌打ちした。  だが男は構わなかった。 「折れないつもりか」 「従順なだけの犬がお好みなら、ペットショップに行くんだな」  青年は両手を繋ぐ鎖を鳴らす。 「噛む犬の方が役に立つ場面もあるだろう?特に、そちらさんみたいな組織では」  しばし沈黙が続いた。  やがて男は短く命じた。 「外せ」 「しかし、長官」 「聞こえなかったか」  一言で足りた。  拘束具が外される。痺れた手首を軽く回しながら、青年は立ち上がった。ふらつきも見せず、むしろ礼儀正しく小さく頭を下げる。 「判断が早い。好きだよ、そういう上司は」 「まだお前の上司ではない」 「では何と呼べばいい? 買い手? 雇い主候補? それとも恩人?」 「好きにしろ」  青年は少しだけ考えるふりをしてから言った。 「なら長官殿、とでも」  芝居がかった呼び方だった。敬意と軽口が半々に混ざった、相手を試すような呼称だった。  男は訂正しなかった。 「名前は」 「さっきも言った気がするが、それが本物とは……」 「契約相手が名無しでは、不便だ。真偽は問わない、固定の呼び名を定義しろ」  青年は一瞬だけ視線を伏せた。名は仮面であり、仮面は商売道具だ。どれを差し出すかは本来、慎重に選ぶべきものだった。  だが彼は迷わず、ひとつの名を選んだ。 「リュシアン」  それだけ言ってから、少し間を置いて肩をすくめる。 「苗字もいるならモロー。実にその辺にいそうな、つまらない名前だろう?見ての通り、平凡な男なもので」  自分で続けた冗談に、誰も笑わなかった。  男はただ、その音を確かめるように復唱する。 「リュシアン・モロー」  妙に丁寧な発音だった。  それから、そのアイスブルーの瞳で一瞥して。 「……レオ・ハルトマンだ。」  青年――リュシアンは、その名を頭の中で転がした。  硬い姓だ、とまず思う。軍人に似合う。冷たくて重い。だが名の方は、意外と柔らかい。  レオ。  そのわずかな違和感を、彼はなぜか覚えていた。

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