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第2話 契約の形

 リュシアン・モローという名前は、本名ではなかった。  レオ・ハルトマンもそのことを知っていた。だが、尋問後にそれを追及することはしなかった。出生地を洗い、親の名を掘り、幼少期まで遡るのが普通の諜報機関のやり方である。それによって相手の弱みを掴めるからだ。  しかしレオは違った。 「その名前でいい」  組織に正式な登録をする際、彼は書類を眺めながらそう言った。 「本名は」  事務官が問うと、レオは視線も上げずに返した。 「どうでもいい」  それきりだった。  リュシアンはその態度を、最初は楽だと思った。  過去を掘られないのは助かる。本名や出自は諜報員にとって弱点だ。戸籍や親族や古い知人は、鎖にも餌にもなる。知られないならそれに越したことはない。  だが後になるほど、その無関心は別種の異様さを帯びた。  レオにとって重要なのは、過去の誰かではなく、自分の前に立っている「この男」だけなのだ。  だから彼にとってリュシアン・モローとは偽名ではない。  目の前の個体の名前だった。  正式に軍の諜報部門へ組み込まれてからの生活は、思った以上に穏当だった。  もちろん自由はない。監視も脅しも報酬もある。命令には従わなければならないし、裏切れば相応の報いを受けるだろう。だがそれは祖国にいた頃から同じだ。国家だろうが組織だろうが、汚れ仕事の仕組みに大差はない。  違ったのは、雇い主の質だった。  レオは有能で、冷静で、計算が早い。感情で命令を変えず、失敗を怒鳴り散らして処理することもなく、かといって甘くもない。必要なら切る。必要ないなら切らない。その線引きが妙に正確だった。  リュシアンは最初、それを堅物だと思った。  次に、思ったほど悪い男ではないと考えた。  そして最後には、最も面倒な種類の人間だと理解した。  居心地を良くしてしまう支配者。  無能な暴君なら離れる理由はいくらでも見つかる。だが有能な支配者は、鎖の長さを絶妙に調整し、噛みつく余地と従う利益を同時に差し出してくる。  だから厄介だ。  いつものように報告書を片手に出向いたある夜、リュシアンは執務室の椅子にだらしなく腰を下ろしながら言った。 「相変わらずの遠慮ない呼び出しだな……たまには上質なベッドへの誘いでも聞きたいものだけど」  書類から目を上げることなく、レオは返す。 「残念だな。期待には応えられない」 「それは全く、実に残念だ。長官殿がそういう趣味なら、今後いろいろ都合が良さそうだったんだが」 「例えそうだとしても、お前を誘う予定は無い」 「それはそれで微妙に傷つく」 「傷ついたか、では本題に入れ。標的は」 「依頼を受けて、二時間後に処理済み」  リュシアンは脚を組み、肩越しに窓の外を見た。 「事故死に見えるよう整えてある。今頃、地方局が退屈なニュース原稿の作成中かもな」 「指定した期限は十二時間以内だと設定していたはずだが」 「納期は守る、社会人の鑑だろ」 「二時間で済ませ、残りの十時間は何をしていた?」 「九時間寝ていた。三十分でシャワー、十五分で出勤、十分コーヒーブレイク。残りはここまで歩く時間だ」  レオはそこでやっと顔を上げた。  呆れているのか、それとも呆れる価値もないと思っているのか分からない顔だった。 「ずいぶん余裕だな」 「仕事が早いのが取り柄でね」  リュシアンは口角を上げる。 「良い部下だと思わないか?」 「自分で言うな」 「自己評価は適切にしているよ」  少し沈黙が落ちる。  それからリュシアンは、何気ないふうを装って続けた。 「あんたの下で働くのは、悪くないからね。多少はやる気を出すさ」 「……そうか」 「はじめはもっと堅物かと思っていたんだが」 実際、レオは思ったよりも柔軟で、リュシアンの(半分癖のようなもので、なかなかやめられない)軽口にも程々に付き合ってくれる余裕すら持ち合わせている。 「扱い易い観念的な男ではなくて、失望したか?」 「まさか。悪い奴じゃなさそうで安心した」 「それは評価として喜んでいいのか微妙だな」 「少なくとも、気分ひとつで首を落とされることは無さそうだ、ってな」  リュシアンは軽く笑った。 「信頼なんて曖昧なものより、行動原理の方がよほど信用できるだろ」  レオはその言葉を、珍しくすぐには返さなかった。  彼はいつもそうだった。冗談の形で投げられた石から、核だけを拾い上げる。 「なら俺は、お前にとって有用か」 「今のところは」 「信頼は」 「してないね」 「正直だな」 「契約の基本だろう?」  そこでレオはごくわずかに息をついた。  笑いではない。だが拒絶でもなかった。  その頃のリュシアンは、彼の視線の意味をまだ取り違えていた。  任務の精度を確かめる目、裏切りの兆候を計る目、道具としての性能を見る目。  それは確かに含まれていた。  だが、それだけではなかった。

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