116 / 121

未来

「ホワイトソースを作るときは、粉とバターは同量。牛乳はそれの十倍だ」  カースの声に、ロッソはハッと顔をあげる。 「失敗しないように作るには、火はずっと弱火で、時間をかけて作る」 「はい」  肝心な部分を聞き逃さないよう、ロッソは浮ついた気持ちを抑え込む。 「まずバターを鍋で溶かして、少し溶けてきたところで、粉を入れる」  ロッソは真剣に作業に取り組んだ。 「ああ、そのくらいでいい」 「はい」  カースの声に応えるように、溶けかけたバターの上にロッソが粉を投入する。  木べらで混ぜてゆくと、バターと粉が一体となった。 「このくらいで十分馴染んだように見えるが、まだこれは粉っぽい。ここからたっぷり三百数える程度は弱火で混ぜ続けろ」  一瞬、心を読まれたのかと思う程のタイミングで声をかけられて、ロッソがびくりと小さく肩を揺らす。 「はい」  努めて冷静に答えながら、ロッソは動悸を隠した。  大丈夫だ。今のは失敗ではない。  それに、たとえ失敗をしたとしても、この男が私を打つ事はない。  ロッソは自分に言い聞かせる。  自分が何に怯えたのか、ロッソには分かっていた。  ロッソに従者としての教育を施したのは父だった。  父は厳しく、失敗を決して許さない人だった。  調理も、仕事の一部として父から教わった。  こぼしたり焦がしたりすれば、その都度、鞭が飛んできた。  けれど、今は違う。 「そしたら火を止めて、一度冷ます」  カースが言いながら火を止める。 「ホワイトソースは、これと混ぜ合わせる牛乳に温度差が必要なんだ」  カースは布巾を濡らして、片手で軽く絞ってから、片方を顎と右腕の先で挟むと左手で器用に絞る。  右腕を失って、もう二十年以上も一人で家事をしてきたのだから、何でもできて当然と言えば当然なのだが、ロッソやリンデルには、そんな彼の仕草はどこか不思議に映った。 「寒い時期なら、牛乳を外に出しておけば、熱々の鍋に注いでもいいが、再沸騰までに時間がかかる分、量が多い時には焦げやすい」  言いながら、カースは布巾を台の上に敷く。 「こっちを鍋ごと濡らした布巾でしっかり冷やして、牛乳を温めてから混ぜるほうが失敗は少ないな」  視線で促され、ロッソは布巾の上に鍋を下ろす。  ジュッと音がして、湯気が上がった。 「牛乳も弱火で、膜が張らない程度に温めたら、こっちに少しずつ加えて混ぜろ」  差し出された瓶を受け取って、ロッソはカースに量を確認しつつ別の鍋で火にかける。  何度か布巾を変えながら鍋肌を触っていたカースが「そろそろいいだろう」と言うので、ロッソは言われた通りに少しずつ、数回に分けて牛乳を加えつつ混ぜ合わせる。 「ある程度のびてきたら、またこっちも弱火だな」  ホワイトソースになりつつある方の鍋をまた火にかけると、カースが火を整える。 「焦げねぇように、休まず混ぜろよ」 「はい」  返事をして、命懸けかという程の危機感を持って鍋の中身を混ぜるロッソの姿に、カースは言い方を誤ったかと言葉を足す。 「いやまあ、お前の場合はもう少し適当でいい」  言われて、手は止めないままにロッソは男を見上げた。  表情自体はあまり変わらないが、その黒い瞳は、まるで何か信じられない事でも言われたかのように不安げに揺れている。  見上げられたカースは苦笑を浮かべると、ロッソの頭をそっと撫でた。 「ちょっとくらい焦げたって、大したこたぁねぇよ」  焦げないようにと言われた直後に、焦げてもいいと言われて、ロッソが困惑する。  それでも、小柄な手は休まず木べらを動かしていた。  カースは困ったように目を細めて、もう一度告げる。 「そんなに思い詰めんな。ただの夕飯だ。もっと楽に作っていい」  カースの指が、優しく宥めるようにロッソの頬を一度だけ撫でて去る。 「は、はい……」  ロッソは、熱くなりそうな顔を隠すように、鍋に向き直った。 「すくったソースをたらした時に、跡がつくくらいになったか?」  言われて、ロッソが試す。 「ん。なったな。そしたら火を止める」  ロッソが火を止めるのを確認しながら、カースはロッソの横に瓶を二つと、乾燥した実のようなものをコロンと置いた。 「塩と白胡椒、あればナツメグで仕上げだな」 「ナツメグ……」  ロッソは、耳にした事はあれど使った事のないその名を小さく繰り返す。 「ほら、これだ」  カースはコロンとした茶色いものを手の平に乗せてロッソの前に出す。 「少し甘い香りがしますね」 「味には多少苦味があるが、牛乳の臭みを抑える。野菜の甘味も引き出すから、あいつは使ってる方が好きみたいだな」 「……分かるものですか?」  ぽつりと尋ねてしまったロッソの言葉に、カースは「まあな」とだけ答えながら、ナイフでその実を薄く削り、粉状にしてパラパラと入れた。 「量はこのくらいでいい」 「はい……」  見た目ではわからないが、どこかしょんぼりとしてしまったロッソを、カースは励ますように声をかけた。 「ほら、そっち煮立ってるぞ。しっかりアク取れよ」 「は、はいっ」  カースがロッソの付けた味を見ている間に、ロッソはアクを取り終えて、具の火の通りを確認する。 「柔らかくなったようです」 「ああ。じゃあ、ホワイトソースを入れろ。最初はソースの方に鍋の汁をこう入れて、伸ばしてからの方が混ぜやすいぞ」 「はい」  カースのアドバイス通りにロッソが取りかかると、向こうで扉の音がした。 「あー、いい匂いがするー」という声と共に、ひょいとリンデルが台所に顔を出す。 「できた?」 「まだです」  チラと主人の顔を見て、小柄な従者は鍋へと視線を戻した。 「もう少しだな」  カースはロッソの説明不足を補いつつ、口端をほんの少し持ち上げると、金色の髪を撫でた。 「腹減ったか?」  金色の青年は嬉しそうに目を細めると、その手に頬を擦り寄せる。 「ん。俺、外で素振りしとくから、できたら呼んでくれる?」  部屋中に漂う良い香りに耐えられそうにないのか、リンデルは苦笑を残して立ち去った。  カースは、若々しいその背を見送りながら、すっかり薄暗くなっていたキッチンに明かりを灯す。  不意に現れた太陽のような青年の姿に、ここがもう暗くなっていたことに二人はようやく気付いた。  カースは左手に残った青年の肌の感触を確かめるように、そっと手を握りながら、鍋を覗き込んだ。 「ああ、綺麗に混ざったな」 「はい」と答えるロッソの声も、どこか満足そうだ。 「じゃあ、最後にあいつの好きなバターをちょっとだけ入れてやったら、ひと煮立ちで完成だ」 「はいっ」  カースの差し出すバター付きのナイフを受け取って、ロッソはいつもよりほんの少し弾んだ声で答えた。  *** 「美味しいっ!!」  シチューをひとくち口に運んで、青年は破顔した。 「これ、本当にロッソが作ったの? カースのシチューと同じ味だね!」  嬉しそうに微笑む青年の姿に、黒髪の二人は今日のレシピでこの青年が同じように笑ってくれる未来を願った。  互いの同じ想いに気付いてか、二人は顔を見合わせる。  ほんの少し寂しげに、黒い瞳と森色の瞳は苦笑し合った。 「え? 何々? どうしたの?」  リンデルが、疎外感を感じて二人を交互に見る。 「いや、何でもない」とカースは口元だけで笑む。 「ええ、何でもありません」とロッソは静かに目を閉じた。 「えええ?」  戸惑うリンデルの声を愛しく聞きながら、二人は同じく祈る。  自分達がこの青年を残して逝く日が来たとしても、せめて、彼の愛した味だけは彼の傍に在れますように。と。  ***  ーーそれから、どれほどの月日が経っただろうか。  少しずつ、人々を取り巻く環境は変わっていった。  三人の建てた孤児院も、今はその役目を終え、図書館を備えた公民館のような使われ方をしている。  あの真面目な従者が安全性を特に考慮して建てただけあって、そこは今もなお、地域の避難場所として指定されるほどの強度を保っていた。 「ああ、あった。これこれ」  幼い少女の手を引いた女性が、見つけた一冊の本を、どこか嬉しそうにカウンターへと差し出す。 「それが、美味しいシチューの本?」  少女に問われて、母親らしい女性が頷きを返した。 「そう。今夜はカースのシチューよ」 「……なんでそんな名前なの?」  首を傾げる娘に、母は素直に答える。 「母さんも分からないわ。おばあちゃんの得意料理だったの」 「ふーん」  そう呟いた少女は、一冊の本の表紙に描かれた魔物の絵を見て問う。 「おばあちゃんって、魔物を見たことがあるんだよね? やっぱり、怖かったのかなぁ」 「そうね……。シチューができたら、おばあちゃんにも届けに行きましょうか。その時に聞いてみたらいいわ」 「うんっ」  魔物を見た事のない母の言葉に、魔物を知らず育った少女は、無邪気に微笑んだ。  何気ない。本当に何気ない日常の中の。  その光景は、確かに。  あの頃、金色の青年が、願い求め続けた理想で。  黒髪の二人が、支え守った景色だった。

ともだちにシェアしよう!