118 / 121

それぞれの覚悟 (2/3)*

 ***  昼間の出来事は、少しは主人の心に届いたのだろうか。  若草色をした春用の寝間着を主人に着せ、ベッドに入れて布団をかければ、主人は柔らかく目を細めた。 「ロッソ……」  囁くように名を呼ばれれば、それだけで私の息は詰まってしまう。 「はい、ここに」  私は主人に顔を寄せて、静かに答えた。  孤児院の子ども達も全員巣立ってしまった今、この方が、亡くなったあの方を追わない事が、私にはどこか不思議なほどだった。  あの方が、後を追わぬよう主人に言い聞かせていたのだろうか。  あの方ならそのくらいの先回りは容易いだろうとは思う。  主人は悲しみに潰されながらも、自棄になる事なく食事をとり睡眠をとるように努めていた。  主人が立ち直ろうとしてくださっている。  それはとても嬉しい事だった。  正直、自分一人が残されてしまう事も密かに覚悟はしていた。  その時は、主人の葬儀を厳粛に行って、それから、彼らの残したこの孤児院の新たな姿を見届けるつもりだった。  それまでは、一人でも、生き続けようと決めていた。  けれど、私はまだ主人と共に生きる事を許していただけるらしい。  その事実がただただ嬉しい。  主人を連れてゆくことも容易くできたのに、ここへ残してくださったあの方に、私は深く感謝を捧げた。  隠しきれない喜びを滲ませて主人を見つめれば、私よりも十歳以上若い主人は腕を伸ばして私の頭を撫で、肩に流れていた黒髪を引き寄せた。  昔、足元まで伸ばしていた髪は、子ども達の世話をするようになってから腰あたりまでの長さに切っていた。  それもまた、今はもう少しだけ伸びている。  主人は私の髪を一束、口元まで引き寄せると、そっと口付けた。  その仕草には、覚えがあった。  主人がまだ少年と青年の境だった頃、厳しい現実に押し潰されて、主人は私の髪に慰めを求めた。  私の黒髪を通して、主人はあの方を見ていた。  あの頃は主人を慰められない自身を不甲斐なく感じていたけれど、今は私ごときの髪で、少しでもあの方の代わりになるのなら、光栄な事だとすら思えた。 「主人様……」  思わず零れた声に、主人がほんの少し微笑む。  寂しげな笑顔は、あの方と再会を果たすまでの彼が度々見せていた顔だった。  あの方との再会を果たしてからも、共にいられる時間は年にほんの数日で、寂しげな様子を見せることは多かった。  寂しげな色をした主人の瞳に、私が映っている。  金色の瞳に優しく誘われて、私は主人へ唇を重ねた。 「ロッソ……。慰めてくれるの?」  主人の言葉に胸が高鳴る。  そのようなことが、私に許されるのだろうか。 「私で、よろしいのでしたら……」  こんな私で主人の慰めになるのなら、何もかも捧げたいと願う。  想いを込めて懸命に伝えれば、主人はふわりと笑った。 「ありがとう、ロッソ……」  主人の両腕が、私をその胸元にぎゅうっと抱き寄せる。  温かい……。  耳元で、規則正しい彼の心音が聞こえる。  この音が、どうか、ずっとずっと続きますように……。  久々に包まれた主人の腕の中で、私が束の間の幸せに微睡んでいると、主人が私の耳元へと囁いた。 「ロッソ……、カースのこと、忘れさせて……?」  思わず目を見開く。  そんな事、出来るはずがない。  困惑を浮かべて主人を見れば、彼は全てを分かった顔で、寂しげに微笑んでいた。 「……はい」  私は、主人の求めに精一杯で応えた。  あの方とも、もう週に一度あるかないかという頻度だったが、私とはもっと少なかった。  その上、主人はもう十日以上ろくに運動もしていなかったし、行為はそこまで長引く事もないだろうと思っていた。  だから、主人が三度達した後に眠ってしまったのは私からすれば十分に長かったし、その身体を清めて綺麗なシーツに寝かせた時は、ホッとした。  主人の寝顔は、まだ青年になりかけだった頃と変わらない、純真で、どこか寂しげな表情をしていた。  あの頃に戻ったのだと思った。  あの方の居なかった、あの頃に。  私と出会った頃の、抱え切れないほどの喪失感を胸の奥底へ隠していたあの頃に、主人の心は引き戻されてしまったのだと、そう思った。  それから主人は、毎夜私に慰めを求めるようになった。  事の始めには私を見つめて私の名を呼んでくださる主人は、熱に浮かされる程に、私の髪を搔き抱いてあの方の名をうわ言のように呼んだ。  主人は決して、私を手荒に扱うことはなかった。  優しく丁寧に、執拗なまでに繰り返される毎晩の愛撫は、私を夜毎追い詰めた。  私の身体は、肌を重ねるほどに主人をより敏感に感じるようになってゆく。  その晩も、何度目の絶頂なのかもう分からないほどに、私の身体は主人の手によってぐずぐずに蕩かされていた。  私の口から漏れるのは、止まない嬌声と主人に縋る声だけで、息を吸うこともままならない。  手足は既に感覚を失っていた。  意識が遠のき、どこか現実感を失いつつある中で、それでも快感だけが鋭さを増してゆく。  何となく、本能が察している。  死の気配が近付いている。  私は、このまま死んでしまうのだろうか……。 「ロッソ……」  主人が、熱を孕んだ声で私の名を囁く。  ああ……、このまま……。  敬愛するこの方に愛され尽くして死ねるのなら、それは、なんて……幸せな事なんだろう……。  快楽に沈み切った頭が、間違った判断を下す。  それを正すことができないまま、私の身体が命の終わりを告げようとした時。  その声は聞こえた。

ともだちにシェアしよう!