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変わりゆくもの、変わらないもの (1/2)【番外編】それでも続く、彼らのお話

 手が足りない。とはまさにこのことだ。  私は、寝不足の回らない頭でぼんやりと思う。  私の背には背負い紐で固定された赤子が眠っている。まだ幼い子なので、なるべく早急にベッドに下ろし、呼吸の確認を行うべきだ。  しかし私の腕には、もう少しで寝付きそうな赤子が目を閉じている。  浅い眠りから深い眠りに移行しようとしている今、この機を逃すべきではない。  けれど、目の前に五つ並んだベビーベッドの右端では、今まさに目が覚めて泣き出さんとしている赤子が蠢いていた。  せめてもうあと二本、手が……いや、腕が必要だ。何なら背中ももう一つ欲しい。  じたばたじたばた。と人の温もりを求めるようにもがいた赤子は、それに手が届かないと知ってか「ふぇ……」と声を漏らし顔を顰めた。  最悪の事態だ。  今泣き出さんとしているこの子は、一番年上で体格も良く声が大きい。  このままでは腕に抱いた子だけでなく、背中の子まで目を覚ましてしまうかも知れない。  やむをえまい。  腕の子は一度おろして、まずはその子を――。 「俺が抱くよ」  突如頭上から温かな声がして、私は顔を上げた。  先程まで窓際の揺り椅子で赤子を抱いたまま眠っていたはずの主人が、いつの間に目を覚ましたのか、ベッドの反対側から赤子を抱き上げる。 「アルくんもう起きちゃったのかい? まだ眠っていていいんだよ?」  赤子にうまく声かけができない私と違って、主人は腕の中に包んだ子を見つめて、優しく語りかける。  その隙に私は素早く主人の抱く赤子のおしめに異変がないことを確認し、主人に視線を送る。  この子はミルクもつい先ほど飲んだばかりだし、ゲップも盛大に、それこそ中身まで出した。  着替えの際におしめもかえたばかりで、何も問題はないはずだ。 「一人で寝てるのが寂しかったのかな? 大丈夫だよ、俺達がそばにいるからね。お母さんが起きてくるまで、もう少し眠っておこうか。寝る子は育つって、カースも言ってたからね」  主人の、男性にしては高めの聞き取りやすい声が、ゆったりとしたペースで優しく赤子を包み込む。  主人に抱かれた赤子は、しばらくじっと主人の蜂蜜のような金色の瞳が瞬く様を見つめていたが、とろりとまぶたを落とすと、そのまま眠りの国へと戻った。 「起こしてしまい、申し訳ありません」  私は、ごく小さな声で謝罪しつつ、ようやく寝ついた腕の中の赤子をベッドに慎重に下ろす。  無事着地できたと判断し、布で手早く包む。  このように多少両手足が抑えられている方が幼い子は落ち着くのだと教えてくださったのは、あの方だ。  私の脳裏に青い空と深い森の色が過ぎると、締め切られたはずの室内で、柔らかい風が頬を撫でた。 「そうじゃなくてさ。もっと早く俺を起こしてくれればいいのにって話。一人では手が足りないに決まってるよ。赤ちゃんこんなにいるんだから」  主人は片頬を膨らませて不満を訴えている。  その幼い仕草に威厳はまるで無いものの、これは主人の命であるようだ。 「かしこまりました」  私が頭を下げると、主人は私の後ろに回り、私が背に負っていた子を支える。下ろせという事らしい。  背の子を下ろすと、ようやく五つのベッドには眠る赤子が五人並んだ。  私達の旧孤児院には、先月から里帰り出産と称して戻ってきた孤児院出身の二人の母親とその子達が泊まっていた。  そこへ昨日、生まれたばかりの三つ子とその母親が加わり、現在は五人もの赤子と疲弊した三人の母親が昼夜を問わず食事と睡眠を必要としていた。 「なんだかさ、作戦行動中に近い感覚があるよ」  主人はそう言って、窓際の揺り椅子に戻ると目を閉じた。  確かに。この状況にどこか懐かしさを感じるのは、そのせいなのかも知れない。  主人に従い勇者隊として魔物討伐を行っていた頃は、いつ魔物が出るとも知れない森や村の端で、神経を張り詰めて、代わる代わる寝起きする事もよくあった。  一つ判断を誤れば、取り返しのつかない怪我や死につながる。  その点においても、生まれたての子というのはあまりに脆く、生まれてすぐからミルクをのどに詰まらせて死ぬ子もあると聞いては、気が休まらない。 「ほら、ロッソも眠れるうちに少しでも休んで」  目を閉じたままの主人の言葉に、私は「はい」と答えて布団へ向かいかけてから「主人様こそベッドでお休みになってください」と返す。 「んー……、俺はこっちの方が楽だから。椅子取っちゃって……ごめんな……」  とろりと微睡の淵から返ってきた眠そうな声に、これはそのまま寝かせておく方が良いと判断し、「いいえ」とだけ答えて私は布団に横になった。  ***  懐かしい音が聞こえていた。  微かに、けれども確かに、一定のリズムで繰り返される音。  この音が、私は昔、好きではなかった。  声を殺して耐える夜に、どうしても耳につく音だったから。  それなのに……。  この音に嫌悪感を感じなくなったのはいつからだったのか。  いつの間にか、この音は私と主人を優しく包む穏やかなあの部屋の一部となっていた。  ……ああそうか。  これは王都の城で勇者様が代々使っていた部屋……。  あの部屋に置かれた柱時計の、時を刻む音だ。  ふと気付けば、私は机に向かって書類仕事をしていた。  時刻はすっかり夜中で、室内のカーテンはすべて閉じられていた。  私は、書き終わった書類を整えると、椅子がわりに腰掛けていたベッドを振り返る。  そこには二十代ほどの金髪の青年が、背を丸めて眠っていた。  まだ若い主人の姿に、どうやら私は昔の夢を見ているようだと頭の隅が気付く。  若い主人の手には、私の長い黒髪の端が握られていた。  ああ、これはまだ主人があの方の記憶を封じられていた頃だ。  あの方を思い出す事も忘れきる事もできず、もがき苦しむ主人の心の内に気付かぬまま。当時の私は、この方をどうすればより勇者らしく、立派な姿を周囲に見せられるだろうかと、そればかりに苦心していた。  この頃の主人はこの国でただ一人の『勇者』と呼ばれる存在だった。  その身を守り、教え導き、勇者として立派な人物に育てる事が、私の使命だ。  私はそのためだけにこの世に生を受け、そのためだけに厳しい訓練を重ねてきたのだから。  それを成せない私に、生きる価値はなかった。  けれど、そのための勉強に全ての時間を費やしてきた私には、友と呼べる存在も無ければ、人と心を交わした経験も無く、こんな風に心を痛めた主人を前に、何をどうしたらいいのかまるで分らないまま、途方に暮れていた。  主人の金色のまつ毛にはまだ乾き切らない涙が残り、普段は優しい弧を描く眉も、どこか苦しげに寄せられている。  私は慎重に主人の涙を拭うと、彼の指の間から自身の髪を抜き取って、布団をかけた。  この方が、このように私の髪に縋りつく姿を見るのは、もうこれで何度目だろうか……。  勇者様が二十歳の頃に前隊長が現場を退き、もう五年になる。  一番最初は、その年の夏の初めだった。  おそらくあの時あの村へは、誰が駆け付けても同じだっただろう。  それでも、人々は大切な者の死を前に、それを防げなかった勇者達を責めた。  そうして、素直で責任感の強い主人はその言葉を全て受け止め、心に深く傷を負った。  その年の冬にも、不運な出来事が重なり、隊員が大怪我をして除隊を免れなくなった。それを、主人は自分の指示のせいだと悔いた。  彼のせいではないと隊の皆が言ったところで、主人は自分を許せなかったらしい。  そうして、年に二、三度程ではあったが、主人はどうしても一人で寝られない程の心の傷を抱える夜に、私の髪を抱き込んで眠るようになった。  私があの時主人を止めていれば。  もっと上手く敵を誘導できるよう教えていれば。  主人の選択肢をもっと増やすことができていたら。  私がもっと、主人を支えられたなら、彼がこんな思いをすることもなかったのに。  彼の寝顔を見ていると、そんな歯痒い思いばかりが胸に溢れて息が詰まる。  思えば前の主人は、何かうまくいかないことがあっても「自分に非などない。悪いのは全てお前だ」と私をなじることに終始する方で、気が済むまで私を責めた翌日にはいつも通り『勇者』の顔で皆の前に姿を見せていた。  私には、そういった形で主人の不満や鬱憤を晴らすため潰される役割がある。だというのに、今の主人は一人で抱え込むばかりで、私には愚痴をこぼすことすら稀だった。  せめて私に当たってくれれば。私のせいだと言ってくれれば……。  そう請い願いながらも、そうしたところで彼の心は晴れないだろうことを、私はもうわかっていた。  主人は私を『自分の物』だと思っていない。自分と同じ人として見てしまう。  私はこれまでずっと、国のための道具として扱われ、道具であれと、心を持つなと教えられてきた。  ……それでよかったのに。  そうでなければ、私に主人の心を癒す事などできないのに。  こんな夜には、私までもが、自身の至らなさに打ちのめされてしまう。  どうか……。どうかこの方が、明日にはもう少しだけでも、心穏やかに過ごすことができますように……。

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