1 / 1
1.野良猫-1
この作品はフィクションであり、実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
本作品には、暴力・虐待・搾取・未成年の妊娠・精神的トラウマに関する描写が含まれます。
また、登場人物の置かれた環境や関係性には、倫理的に困難な要素が含まれています。
これらの表現は物語上の設定および人物描写のためのものであり、特定の行為を肯定・推奨する意図はありません。
【登場人物】
黒川嵐(26)
家具・食器を扱う輸入商社勤務のアルファ。合理的でストイック。ある日、ひとりのオメガを保護する。
白瀬凪(18)
身寄りのないオメガの少年。人の顔色を伺う癖がある。
橘明日香(26)
ホテル経営のアルファの令嬢。嵐の婚約者。聡明で現実主義。
三浦良男(24)
嵐の後輩のベータ。軽口を叩くが、内に複雑な感情を抱えている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1.野良猫
残業で疲れた仕事終わり、嵐はスーパーも閉まっていたので夕食を買って帰ることにした。
本来ならもっと早く帰るはずだったが、社内のオメガの新人がミスをして、そのせいで夜遅くまで残って作業をしていたのだ。本人には厳しく言ってはみたが、仕事は遊びではない。
「これだからオメガは……」
「主任ってば厳し~。もう少し優しくしてやってもいいんじゃないスか?」
……そう、後輩の三浦に言われた言葉が引っかかる。自分に愛想はないのは自覚している。だが改める必要性も、理由もなかった。
通勤ルートの途中にあるコンビニの前で、カップ麺と弁当が入った袋を片手に缶コーヒーを飲みながら冷えた手を温める。吹きすさぶ木枯らしが頬を撫で、冬の兆しがところどころ見える。嵐はコートの襟を立てながら、ぬるくなった缶コーヒーを飲み干す。
その時、物陰が動いた。暗闇からぬっと誰かが現れる。見ていると、それはふらふらした足取りでこちらへ近付いてくる。長袖のセーターに、細身の黒いパンツ、スニーカー。ぼさぼさの黒い髪の間から覗く猫のような目は、まるで黒曜石のような深い色をしていた。嵐より頭ひとつほど背は低いが、子供と言い切れるほどの年齢ではなさそうだ。細い首にはボロボロの首輪が収まっている。
オメガだ。
発情期にアルファにうなじを噛まれて番にされないようにするためのものだ。オメガを守るためでもあるが、オメガとしての象徴でもあるそれは安物で、何年も使っているのが目に見える。
嵐は眉間に皺を寄せる。まさかなにか用なのかと思って見ていると、そのオメガは話しかけてきた。
「あの……すみません。一晩だけでいいので……おれを買ってくれませんか」
嵐は理解できなかった。
「は?」
オメガは慣れた様子で続ける。
「安くていいです。寝る場所と、ご飯だけあれば……」
小さくて、風で今にも掻き消えそうな声だった。
なんだ、こいつは。
人間が自分を商品みたいに差し出してきたことに、嵐は面食らった。一泊遅れて、みぞおちがかっと熱くなるような感情が沸き起こる。
「警察に行け」
ふいと顔を逸らし、嵐は考える間もなく一蹴する。
「……そうですよね、すみません」
そんな声がしたかと思うと、彼の気配がふっと消える。振り向いて目をやると、彼はあっさりした態度で引き返した。俯き気味の猫背が遠ざかる。嵐の周りは急に静かになる。
そこで初めて、嵐の中に違和感が芽生えた。
食い下がられると思っていた。けれど彼は嵐に期待していなかった。想像していたよりも淡々としたその態度が、なぜか嵐には引っかかった。まるでビジネスの交渉が不成立になっただけのような、さらりとしたその態度を薄気味悪いと思いながら、嵐はその場から離れようとコンビニを後にする。
少し離れた時、背後からガタガタという音が聞こえてきた。振り返ると、あのオメガがいた。彼は嵐がさっきまでいたガードの背後、ダストボックスを開けようとしていた。居なくなったと思っていたら、嵐が離れるまで見計らっていたのか。
しかしダストボックスは鍵がついていたらしく、容易には開かない。黙って見ていると、やがて彼は諦めたようにその場から去る。
本気で食えていないのか。
とぼとぼと暗闇の中に消えていく背中を見詰める。少年は振り返らない。だが本当に食えていないなら、もっと必死になるべきではないのか。そんな苛立ちにも似た感情を抱いた矢先、ぽつりと嵐の鼻を冷たいなにかが濡らした。立て続けに、冷たい雫が嵐の頬を掠める。車で聞いたラジオの中で、今夜は雨とパーソナリティが言っていたのを嵐は思い出した。早く車に入って、風呂に入って眠りたい。そんなことを考えていたのに、なぜか嵐は動けなかった。
「……くそっ」
そう吐き捨て、車の置いてある道とは反対方向に歩き出す。闇に溶けそうな彼の背中を見つけた嵐は、見失わないように距離を置きながらも彼を追いかけた。できれば誰か別の男に声を掛けて、いっそどこかに消えてくれさえすればいいのに。そんなことを考えたのもつかのま、先程の少年がふらりと道を曲がった。
気付かれないように追いかけると、彼は公園の中、ドーム状の遊具の中に静かに入っていった。しばらく様子を見ていたが、出てくる様子はない。嵐は思わず目を細め、それからずんずんと近付いて行った。
「おい」
「ひゃっ」
そう声を掛けながら、中を覗き込む。案の定そこには少年がいて、座り込んだ膝のあいだで手を温めていた。彼の周りにはパンの空き袋や水の入ったペットボトルが置いてあり、開いた数枚の新聞紙が彼のコートの代わりになっていた。それを見た嵐は一瞬言葉に詰まりそうになりながら、彼に向かって言う。
「さっき、なにしてた」
コートや毛布の一枚もない彼にそう問うと、少年は怯んだように身を竦める。
「さっきって」
「ゴミ箱、漁ってたろ」
「あ、え、えっと……ごはん……探してて」
「……食べ物、ないのか」
「あ……はい。一昨日から、なにも……コンビニで廃棄のお弁当やパンをもらってたんですけど、苦情が入ったらしくて……」
彼の目が、嵐の持っているコンビニの袋に注がれている。お腹の鳴る音が聞こえた。思わず後ろ手に隠すと、彼は目を逸らす。嵐ははぁと息をついて、その場にしゃがむ。
「そんなに帰りたくないのか」
「……家、ないです」
少年は嵐の目を見ないで言った。
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
ホームレスという言葉はもちろん知っているが、少なくとも嵐の周りの世界の話では存在しなかった。帰る場所という概念そのものが、この少年にはないのだと気付いた時、嵐は初めて言いようのない不快感を覚えた。理解できない。理解できないことが、気持ち悪い。
なんなんだ、こいつは。
「あ、あの、おれを買うなら場所を変えた方が……そろそろ雨、降りそうですし……」
少年は力なく答える。このままでは飢え死にするか凍え死ぬか、どちらが早いかわからない。いっそここに家出少年がいると本当に警察に連絡するか。しかしそうしたところで、こいつはどうなる。
警察に行け、と先程冷たく言い放った。それが正論だと、頭ではわかっていた。
だがそれを口にするのは、彼を「処理」することに近い気がした。
しばらく迷っていたが、警察に連れて行ったとて帰るのが遅くなるだけだと思い直す。心の中で舌打ちをして、嵐は彼に向かって手を差し出していた。
「来い」
それが救いの言葉でないことを、嵐は理解していた。けれどなぜ手を差し出したかは、嵐自身にもわからなかった。そうすれば、腹の奥から湧き出た不快感も多少は収まると思ったのだ。
少年は大きな目をぱちぱちしてしばらくのあいだ呆然と嵐を見つめていたが、やがてよろよろと立ち上がった。そして静かに嵐の手を取る。枝のように痩せ細った指は冷たくて、枯葉のようにかさかさしていた。
ドームから出て、少年は嵐に手を引かれて大人しく着いてくる。
「……お前、名前は」
車に乗り込んでから、後部座席に座った彼へと振り向いてそう尋ねると、少年は「え?」と拍子抜けたような顔をした。
「あるだろう、名前ぐらい」
「あ、えっと……おれは凪といいます」
「苗字は?」
凪と言った少年が、視線を落とす。
「シロセ。白瀬凪です。貴方は、えっと」
「黒川嵐だ」
「黒川、さん……」
少年は自分に覚え込ませるように、神妙な顔で嵐の名前を小さくそう呟く。見ていた嵐は小さく鼻を鳴らし、それから静かに車を走らせた。
ともだちにシェアしよう!

