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1.野良猫①

 残業で疲れた仕事終わり、近所のスーパーが閉まっていることをグランドセイコーの腕時計で確認した嵐は、コンビニで夕食を買って帰ることにした。  本来ならもっと早く帰るはずだったが、社内のオメガの新人がミスをして、そのせいで夜遅くまで残って作業をしていたのだ。本人には厳しく言ってはみたが、仕事は遊びではない。 「効率が悪い」 「主任ってば厳し~。もう少し優しくしてやってもいいんじゃないスか?」  ……そう、後輩の三浦に言われた言葉が引っかかる。  自分に愛想がないのは自覚している。だが改める必要性も、理由もなかった。  通勤ルートの途中にあるコンビニの前で、カップ麺と弁当が入った袋を片手に缶コーヒーを飲みながら冷えた手を温める。吹きすさぶ木枯らしが頬を撫で、冬の兆しがところどころ見える。嵐はコートの襟を立てながら、ぬるくなった缶コーヒーを飲み干す。  その時、物陰が動いた。暗闇からぬっと誰かが現れる。思わず缶コーヒーに口を付けたままじっと見ていると、それはふらふらした足取りでこちらへと近付いてきた。  それは人の形をしていた。長袖のセーターに、細身の黒いパンツ、スニーカー。ぼさぼさの黒い髪の間から覗く猫のような目は、まるで黒曜石のような深い色をしていた。嵐より頭ひとつほど背は低いが、子供と言い切れるほどの年齢ではなさそうだ。細い首にはボロボロの首輪が収まっている。  オシャレではなく実用的なそれは、発情期にアルファにうなじを噛まれて番にされないようにするためのものだった。  オメガだ。  尊厳を守るはずのその象徴は安物で、何年も使っているのが目に見える。  嵐は眉間に皺を寄せた。  なにか用なのかと思ってじっと見ていると、そのオメガは嵐を見て、話しかけてきた。 「あの……すみません。一晩だけでいいので……おれを買ってくれませんか」  嵐は理解できなかった。 「は?」  オメガは慣れた様子で続ける。 「安くていいです。寝る場所と、ご飯だけあれば……」  小さくて、風で今にも掻き消えそうな声だった。  なんだ、こいつは。  人間が自分を商品みたいに差し出してきたことに、嵐は面食らった。一泊遅れて、みぞおちがかっと熱くなるような感情が沸き起こる。 「警察に行け」  ふいと顔を逸らし、嵐は考える間もなく一蹴する。 「……そう、ですよね。すみません」  そんな声がしたかと思うと、彼の気配がふっと消える。振り向いて目をやると、彼はあっさりした態度で引き返していた。俯き気味の猫背が遠ざかる。嵐の周りは急に静かになる。  そこで初めて、嵐の中に強烈な違和感が芽生えた。  食い下がられると思っていた。けれど、彼は嵐に期待していなかった。想像していたよりも淡々としたその態度が、嵐の中で引っかかった。まるでビジネスの交渉が不成立になっただけのような、さらりとしたその態度を薄気味悪いと思いつつ、嵐はその場から離れようとコンビニを後にし、路上に停めていた車へと向かうことにする。  少し離れた時、背後からガタガタという音が聞こえてきた。振り返ると、あのオメガがいた。彼は嵐がさっきまでいたガードの背後、コンビニのダストボックスを開けようとしていた。居なくなったと思っていたら、嵐が離れるまで見計らっていたらしい。  しかしダストボックスは鍵がついていたのか、容易には開かない。黙って遠巻きに見ていると、やがて彼は諦めたようにその場から去る。 「……なんだ、あいつ」  とぼとぼと暗闇の中に消えていく背中を見つめる。少年は振り返らない。  だが本当に食えていないなら、もっと必死になるべきではないのか。  そんな苛立ちにも似た感情を抱いた矢先、ぽつりと嵐の鼻を冷たいなにかが濡らした。立て続けに、冷たい雫が嵐の頬を掠める。  車で聞いたラジオの中で、今夜は雨とパーソナリティが言っていたのを嵐は思い出した。早く家に帰って、風呂に入って眠りたい。そんなことを考えていたのに、なぜか嵐は動けなかった。  繁華街から少し離れたこの通りは人通りはほとんどなく、車道を見ても車はほとんど通らない。雨が降りそうだったが、あの様子では傘もコートもないだろう。  もしこのまま、放っておけばどうなる。  誰かが、では間に合わない。 「……くそっ」  そう吐き捨て、車の置いてあるのとは反対の方向に歩き出す。闇に溶けそうな彼の背中を見つけた嵐は、見失わないように距離を置きながらも彼を追いかけた。できれば誰か別の男に声を掛けて、いっそどこかに消えてくれさえすればいいのに。そんなことを考えたのもつかのま、先程の少年がふらりと道を曲がった。  気付かれないように追いかけると、彼は公園の中、ドーム状の遊具の中に静かに入っていった。しばらく様子を見ていたが、出てくる様子はない。嵐は思わず目を細め、それからずんずんと近付いて行った。 「おい」 「ひゃっ」  そう声を掛けながら、中を覗き込む。案の定そこには少年がいて、座り込んだ膝のあいだで手を温めていた。彼の周りにはパンの空き袋や水の入ったペットボトルが置いてあり、開いた数枚の新聞紙が彼のコートの代わりになっていた。それを見た嵐は一瞬言葉に詰まりそうになりながら、彼に向かって言う。 「さっき、なにしてた」  コートや毛布の一枚もない彼にそう問うと、少年は怯んだように身を竦める。 「さっきって」 「ゴミ箱、漁ってたろ」 「あ、え、えっと……ごはん……探してて」 「……食べ物、ないのか」 「あ……はい。一昨日から、なにも……」  彼の目が、嵐の持っているコンビニの袋に注がれている。お腹の鳴る音が聞こえた。思わず後ろ手に隠すと、彼は慌てて目を逸らす。嵐ははぁと息をついて、その場にしゃがむ。 「そんなに帰りたくないのか」 「……家、ないです」  少年は嵐の目を見ないで言った。  一瞬、言葉の意味がわからなかった。  ホームレスという言葉はもちろん知っているが、少なくとも嵐の周りの世界の話では存在しなかった。帰る場所という概念そのものが、この少年にはないのだと気付いた時、嵐は初めて言いようのない不快感を覚えた。  理解できない。  それが、気持ち悪い。 「あ、あの、おれを買うなら場所を変えた方が……そろそろ雨、降りそうですし……」  少年は力なく答える。このままでは飢え死にするか凍え死ぬか、どちらが早いかわからない。いっそここに家出少年がいると本当に警察に連絡するか。しかしそうしたところで、こいつはどうなる。  警察に行け、と先程冷たく言い放った。それが正論だと、頭ではわかっていた。  だがそれをもう一度口にする気は、湧いてこなかった。  しばらく迷っていた嵐は、やがて心の中で舌打ちをして、彼に向かって手を差し出していた。 「来い」  それが救いの言葉でないことを、嵐は理解していた。けれどなぜ手を差し出したかは、嵐自身にもわからなかった。そうすれば、腹の奥から湧き出た不快感も多少は収まると思ったのだ。  少年は大きな目をぱちぱちしてしばらくのあいだ呆然と嵐を見つめていたが、やがてよろよろと立ち上がった。そして静かに嵐の手を取る。枝のように痩せ細った指は冷たくて、枯葉のようにかさかさしていた。  遊具の中から出て、少年は嵐に手を引かれて大人しく着いてくる。車に乗り込ませ、エンジンを掛ける。 「シートベルトをしろ」 「はい」  少年はベルトに手を伸ばす。引く力が弱く、途中で止まる。金具がカチャ、と鳴るだけで、差し込み口に届かない。  もう一度やろうとして、指が滑る。 「……すみません」  小さく謝る声。指先がわずかに震えている。  嵐は一度だけ息を吐き、ドアを開けて運転席から降りた。後部座席に回り込み、ベルトを引き出して差し込む。  カチ、と音がした。 「……ありがとうございます」  少年は背もたれに触れないまま、浅く座り直す。しばらく沈黙が続く。  その時、ぐ、と低い音が車内に落ちた。  少年がはっとして腹を押さえる。背を丸め、唇を引き結んでいる。だが、間を置いてもう一度鳴った。 「……すみません」  視線を落としたまま、少年が言う。  嵐は何も言わない。聞こえていないかのように前を見たまま、アクセルをわずかに踏み込む。  本当に、食ってないのか。最初に話しかけてきた時のあっさりした態度と、昨日からなにも食べてなくて、という発言を思い出す。交渉なんかしている場合じゃないだろうと、妙に苛立った。  交差点を曲がると、前方に警察署が見えた。赤色灯が、静かに点っている。  嵐はアクセルを緩めた。  バックミラー越しに彼を見る。少年が顔を上げ、窓の外に視線をやる。短く息を吸う音が聞こえた。少年は背を丸め、膝の上で両手をぎゅっと握っている。  一瞬、嵐と目が合う。彼はすぐに俯いて、口を閉ざしたままじっとしていた。  ここに預ければ、手続きは終わる。けれど具体的にどうなるのか、嵐には想像が付かなかった。飯は食えるのか。安全な場所で眠れるのか。風呂には入れてもらえるのか。  ……誰が。  入口に視線を向ける。中にいた警官がこちらを見て、すぐに視線を戻した。  ウインカーも出さず、そのまま通り過ぎる。 「……知らない男の車だぞ」  ぽつりと言う。 「はい」  少年はそれだけ答えた。わかっているような響きだった。  しばらくしてから、嵐はふと思い出したように口を開く。 「……お前、名前は」  車に乗り込んでから、後部座席に座った彼へと振り返らずにそう尋ねると、少年は「え?」と拍子抜けたような顔をした。 「あるだろう、名前ぐらい」 「あ、えっと……おれは凪といいます」 「苗字は?」  凪と言った少年が、視線を落とす。 「シロセ。白瀬凪です。貴方は、えっと」 「黒川嵐だ」 「黒川、さん……」  少年は神妙な顔で、嵐の名前を小さくそう呟く。  バックミラーから視線を外した嵐はふんと鼻を鳴らし、それから静かに車を走らせた。

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