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野良猫│雨の夜の取引
グランドセイコーの腕時計を見て、黒川嵐は思わず舌打ちをした。
こうなったのも、部下のオメガ社員がミスをしたせいだ。
「効率が悪い」
「主任ってば厳し~。もう少し優しくしてやってもいいんじゃないスか?」
そう、後輩の三浦に言われた言葉を思い出した途端、嵐はコンビニの前で愛車にもたれかかったまま、握っていた缶コーヒーを持つ手に力を込めた。
愛想がないのは昔からだ。だが改めようとも思わなかったし、困ることもなかった。
どうにか部下のミスを始末した残業帰り、通勤ルートの途中にあるコンビニの前で、カップ麺と弁当が入った袋を片手に、愛車にもたれかかった嵐は缶コーヒーを開け、飲みながら手を温めていた。木枯らしに頬を打たれ、嵐はコートの襟を立てる。
早く帰って、シャワーを浴びて寝よう。
そう思って、コーヒーを飲み終えた嵐が車に乗ろうとした時だった。
ふと、物陰が動いた。暗闇からふらりと誰かが現れる。見ていると、それはゆっくりした足取りでこちらへと近付いてきた。やがてそれが、コンビニの店内の光に照らされて輪郭を持つ。
近付いてきたのは、若い男だった。毛玉のついた長袖のセーターに、細身の黒いパンツ、スニーカー。ぼさぼさの黒髪の隙間からは澄んだ目が覗く。痩せて今にも倒れそうなくせに、その黒い瞳だけは、コンビニの光を映して濡れた石みたいに光っている。一瞬見つめ返しそうになって、嵐は誤魔化すように目を逸らした。既に空になっている缶をつい口元へ運ぶ。
嵐より頭ひとつほど背は低い。けれど子供と言い切れるほどの年齢ではなさそうだった。
白く細い首には、黒い首輪が収まっている。発情期にアルファにうなじを噛まれて番にされないよう、オメガの尊厳を守るためのそれは安物で、何年も使っているのが目に見える。
なにか用なのかと思い、嵐の眉間につい皺が寄る、そのオメガはふらふらと嵐の前に立つと、「あの」とか細い声が話しかけてきた。
「すみません。一晩だけでいいので……おれを買ってくれませんか」
「は?」
嵐は理解できなかった。オメガは慣れた様子で続ける。
「安くていいです。寝る場所と、ご飯だけあれば……」
小さくて、風で今にも掻き消えそうな声だった。少しして、俯きながら言葉を足す。
「えっと……お金は、一晩で、三千円です。長くても同じで」
少年はなにも言わない嵐を一瞬見て、気まずそうに目を逸らす。
「ご飯だけでも、大丈夫です」
「……それで、なにを」
そう、言葉が自然と零れていた。
「サービス、します」
少年は表情を変えずに、淡々とそう言った。そして自分の胸に手を当てる。
人間が自分を商品みたいに差し出してきたことに、嵐は目を疑った。一拍遅れて、みぞおちがかっと熱くなるような感情が沸き起こる。
「そういうことなら断る。他を当たれ」
嵐が反射的にそう返すと、少年はもごもごと口を動かす。
「……そう、ですよね。すみません」
少年は納得したようにそう頷いた。さらりとしたその態度を気味が悪いと思いつつ、駐車場に停めていた車に乗り込む。
シートベルトをしようとした時、ふと車の外からなにかを揺らす音が聞こえてきた。ふと見ると、コンビニ脇のダストボックスの前に、さっきの少年がいた。鍵の掛かった扉を何度か引く。だが開かないと分かると、少年はすぐに手を離した。開かないとわかったらしい彼はしばらく立ち尽くし、やがてふらふらとその場から去る。一瞬、よろめいた彼は壁に手をついて少しのあいだ蹲る。けれどすぐに立ち上がり、またふらふらと歩き出す。
「……なにやってるんだ、あいつ」
暗闇の中に滲んでは消えていく背中を、車の中から見つめる。少年は振り返らない。……もしゴミ箱の鍵が開いていた時、なにをするつもりだった。少し気になりながらも車のエンジンを掛けようとして、嵐はふと助手席の弁当を一瞥する。
その時だった。
ふと、フロントガラスに丸く歪んだ粒が落ちてきた。やがてそれは次々と落ちてきては、重なって最初の粒をわからなくさせる。
やがてルーフを叩き始めた静かな音に、嵐は思わず少年が消えた方向を見つめた。
放っておけばいい。そう思うのに、頭の中にあの顔が残る。傘を持っている様子はない。
もう一度腕時計を見る。終電はもう行ったあとだ。嵐は舌打ちをして、車から出て歩き出した。土煙のにおいがした。傘を差しながら彼の消えた方へ進むうちに、闇に溶けそうになっていた彼の背中を見つける。そのまま、見失わないように彼を追いかけた。
一瞬、あいつが他の男に声を掛ける光景が、脳裏に浮かぶ。それから三千円でできる彼の「サービス」を想像しかけて頭を振った。なにを考えている。相手はただの、オメガの娼夫だ。だが足は止まらなかった。
やがて少年はふらりと道を曲がった。影は住宅街へと入っていく。そこで嵐は一瞬ほっとした。家を目指して歩いているのかとわかって、嵐は足を止める。
けれどその時、彼は公園の中、ドーム状の遊具の中に静かに入っていった。思わず目を疑う。彼はそこから一向に出てこない。まさかと思ったのもつかの間、嵐の足は公園の砂利を踏んでいた。
「おい」
「ひゃっ」
遊具の前にたどり着いた嵐は、そう声を掛けて中を覗き込む。案の定そこには少年がいた。座り込んだ膝のあいだで手を温めていて、開いた数枚の新聞紙が彼のコートの代わりになっていた。嵐は一瞬言葉に詰まりそうになりながら、彼に向かって言う。
「さっき、なにしてた」
コートや毛布の一枚もない彼にそう問うと、少年は怯んだように身を竦める。
「さっきって」
「ゴミ箱、漁ってたろ」
「あ、え、えっと……ごはん……探してて」
「いつから食べてない」
「……一昨日から、なにも……」
彼の目が、嵐の持っているコンビニの袋に注がれている。お腹の鳴る音が聞こえた。思わず後ろ手に隠すと、彼は慌てて目を逸らす。嵐ははぁと息をついて、その場にしゃがむ。
「家まで送る」
「……家、ないです」
少年は嵐の目を見ないで言った。
一瞬、言葉の意味がわからなかった。けれどその意味に気付いた時、嵐は初めて言いようのない不快感を覚えた。
「なら、警察に行け」
ふいと顔を逸らし、嵐は考える間もなく一蹴する。
「それは……無理です。警察だけは……」
少年はそう言う。ほんの一瞬だけ、その視線が揺れた。
「あ、あの、もしおれを買うなら、場所、変えた方が……雨、降ってますし……」
嵐は眉を寄せる。まだそんなことを気にしているのか。
警察に行け、と先程冷たく言い放った。それが正論だと、頭ではわかっていた。
だがそれをもう一度口にする気は、湧いてこなかった。
あの雨の、次の日。
明日でいいと、誰かが拾うだろうと、思っていた。ダンボールは雨を吸ってふやけていた。 小さな黒い塊は濡れたまま動かず、触れた指先だけが冷たかった。
少年に視線を向ける。
嵐は拳を握り直すと、彼に向かって手を差し出していた。
「来い」
それが救いの言葉でないことは、わかっていた。けれど伸ばした手を、引っ込める気にはならなかった。
なぜそうしたのか、うまく説明はできない。
ただ、このまま帰れば後味が悪い。その不快感を消すためだと、嵐はあとからそう考えることにした。
少年は大きな目をぱちぱちして呆然と嵐を見つめていたが、やがてよろよろと立ち上がった。そして静かに嵐の手を取る。枝のように痩せ細った指は冷たくて、枯葉のようにかさかさしていた。
遊具の中から出て、傘の下に入った少年は半歩ほど後ろを歩く。気付けばその距離はすぐに開き、そのたびに嵐は足を緩めた。
コンビニの駐車場まで戻り、後部座席に座らせる。運転席に乗り込み、嵐はエンジンを掛ける。普段つけない暖房を入れて、それから嵐バックミラー越しに彼を見た。
「シートベルトをしろ」
「はい」
少年はベルトに手を伸ばす。引く力が弱く、途中で止まる。金属がぶつかるわずかな音がするだけで、差し込み口に届かない。
もう一度やろうとして、指が滑る。
「……すみません」
小さく謝る声がした。指先がわずかに震えている。……こんな状態で買われようとしていたのか。
嵐は一度だけ息を吐き、運転席から降りた。後部座席に回り込み、座席からベルトを引き出して差し込む。
カチ、と音がした。
「……ありがとうございます」
少年は背もたれに触れないまま、浅く座り直す。その時、ぐ、と低い音が聞こえた。少年がはっとして腹を押さえる。背を丸め、唇を引き結ぶ。だが、間を置いてもう一度鳴った。
嵐はなにも言わず、聞こえていないかのように前を見たまま、運転席へ戻った。そしてアクセルをわずかに踏み込んだ。
しばらく走っていると、前方に警察署が見えた。赤色灯が、静かに点っている。
嵐はアクセルを緩めながら、少し考える。
バックミラー越しに彼を見る。少年が顔を上げ、窓の外に視線をやる。警察署を見ると、彼は慌てて俯いた。短く息を吸う音が聞こえた。それきり、彼は口を閉ざしたままじっとしていた。
入口に視線を向けると、中にいた警官がこちらを見る。目が合いそうになって、嵐はすぐに視線を前に戻した。
ウインカーも出さず、そのまま通り過ぎる。
車をしばらく走らせてから、嵐は口を開いた。
「知らない男の車だぞ」
「はい」
ㅤ少年は頷く。ちゃんとわかっているような響きだった。
「……お前、名前は」
後部座席の彼へと振り返らずにそう尋ねると、少年は「え?」と拍子抜けたような顔をした。さっきの質問との落差に、嵐はため息をつきそうになる。
「あるだろう、名前ぐらい」
「あ、えっと……おれは凪です」
「苗字は?」
凪と言った少年が、視線を落とす。
「シロセ。白瀬凪 です。貴方は、えっと」
「黒川嵐 だ」
「黒川、さん……」
少年は神妙な顔で、嵐の名前を舌先でなぞるように小さく声にする。
バックミラーの彼へ視線を向けた嵐はふんと鼻を鳴らし、それから静かに車を走らせた。
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