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1.野良猫②
都心から少し離れた、閑静な住宅街。そこにある分譲マンションの五階、2LDKの部屋が嵐の家だった。
駐車場に黒のレクサスを停め、宅配ボックスの並んだエントランスを抜けてエレベーターに乗り込む。玄関を開け、少年に中に入るよう促す。家の電気を付けて照明の下で彼を見ると、外にいた時にはあまりわからなかった、ところどころ土のついた服が見えた。それから鼻につく匂いに、無意識に眉間に皺が寄る。自分がこんなオメガを買うような男に見えたのかと思うと、少し腹が立った。
靴を脱いで家に上がった凪に、まずは風呂だと思った嵐はぶっきらぼうに言い放つ。
「風呂に入れ。右だ」
「はい。あの、お金は……」
「いらない」
凪の動きが止まる。
「えっと、意味が……」
「いいから、入れ」
「……はい」
何度も振り向きながら風呂場に向かうのを、嵐は視線だけで見送る。
リビングの明かりを付け、エアコンのスイッチを入れる。ファミリータイプの冷蔵庫の中にほとんどなにもないことを確認して、嵐はコンビニの袋から買ったものをテーブルに並べた。ひとまず弁当はレンジに入れ、それから電気ケトルで湯を沸かす。
沸かしているあいだ、スーツのジャケットを脱ぐ。着替え用の自分の服を脱衣所に持って行くと、バスルームがだいぶ静かなことに気が付いた。曇りガラスの向こうに人影が見えるが、静かに音を立てないようにしているのか音が聞こえてこない。やけに大人しい彼を不気味だと思っていると、嵐は脱いだあとの凪の服を見つける。
「臭いな。洗濯に出すか」
そう何気なく呟いて、彼の服のポケットに手を入れる。ぐしゃぐしゃのレシートと小銭、薬のPTPシートが出てくる。レシートに書いてあるのは、自社ブランドの半額のおにきりやパンばかりだった。
……本当に、ギリギリで生きてきたのか。
「服……持ってるわけないよな」
凪の服を洗濯機に入れたあとで、嵐はそんなことに気が付く。
もう着ていない古い服を箪笥の奥から取り出し脱衣所に戻ると、タオルで体を拭いている凪と鉢合わせた。ふと目に入った、やせ細った裸の横腹や腕、太ももになにか模様が刻まれていることに気付く。線状だったり丸かったり、一瞬刺青みたいに見えたそれが傷だと理解するのに、数秒かかった。
「……服は明日洗う。これは着替えだ」
恥じらうでもなく隠すでもなく、当たり前のような顔をして嵐を見ている凪にそれだけを言い、ほぼ投げるように服を置いた嵐は脱衣所を後にする。
なんだ、あれは。
理解できない。というより、理解したくなかった。考えようとした思考を、嵐は途中で止めた。
「えっと……どこでしますか?」
脱衣所を出てしばらく固まっている嵐の元に、出てきた凪が声を掛ける。
「リビングに決まってるだろ。……なんだその格好は」
「え?」
振り向くと、凪は腰にタオルを巻いたままだった。急いで背を向け、嵐はまた雑に言い放つ。
「……飯にする。さっさと服を着ろ」
「あ……わかりました」
焦った様子で脱衣所に戻っていく足音と気配を、嵐は背中で感じ取っていた。
「あの、着替え、ありがとうございます」
やっと服を着た凪が出てくる。かなり昔に着ていたパーカーとスウェットに身を包んだ凪は、決して背が低いわけでもないが嵐よりも体格差がある故か、少し袖や裾が余っていた。一秒、視線が止まる。しかし嵐はふっと視線を逸らし、「構わん」と返した。
「えっと、他のご家族は……」
凪がきょろきょろと部屋を見渡し、なにかを気にするように嵐にそう尋ねる。
「いない。ここは俺の一人暮らしだ。……おい、どっちにする」
凪の前にカップ麺と唐揚げ弁当を並べる。凪はぱちりと瞬きをして、目の前に並んだ食事と嵐の顔を交互に見る。
「……残った方でいいです」
「は? 一人でこの量を食べれるか」
思っても見なかった回答にそう返すと、凪は「すみません」と零す。ため息をついた嵐がカップ麺のアラームを止めた時、ふと喉の鳴る音が小さく聞こえた。見ると凪が唐揚げ弁当の方をじっと見つめていることに気が付く。
「……」
嵐は無言で弁当の方をずいと凪の方にやった。
箸を割って、カップ麺をすすり始める。凪はそんな嵐の様子をうかがいながらそっと蓋を開け、ゆっくりと食べ始めた。しかしその手は震えている。箸の持ち方も不自然だった。嵐がちらと視線をやると、凪はびくと肩を竦める。箸が滑って唐揚げが転がりそうになる。凪は慌てて拾い、そして何事もなかったかのように視線を下に落とす。
食べる時も、凪は物音一つ立てなかった。
「……もう、いいです」
凪がそう言って箸を置いた。弁当を見ると、凪は半分ほどしか食べていない。腹は減っていなかったのか。嵐は不思議に思ったが、本人がいいと言うならいいのだろう。
「なら明日食べろ」
食べ残した凪の弁当を取り上げ、蓋をした嵐は「入れておくぞ」と言って冷蔵庫にしまった。
それから嵐は風呂に入る。凪が入った形跡は見えなかったが、バスマットはしっかり濡れていた。
風呂上がり、髪を乾かすのもそこそこに冷蔵庫を開ける。未開封のペットボトルを見つけて手を伸ばしかけて、そこに食べかけの弁当が目に入る。結局嵐はなにも取り出さずに、冷蔵庫のドアを閉めた。
書斎に入り、家に届いていたはがきや不在票をチェックする。仕事用のスマホを開いて部下の日報を確認したり、メールのチェックをしたりする。
「あ、あの、黒川……さん」
外から声が聞こえてくる。
「うるさい、仕事の邪魔だ」
振り返りもせずにそう言う。
「……はい。すみません」
諦めたのか、彼の気配がどこかに消える。それからはいつも通り、静かになる。
それからどれぐらいしただろう。一通り仕事を片付けた嵐が寝室に向かおうとすると、ドアを出て直ぐのところに凪が蹲っていた。存在を忘れかけていた嵐はびくっと身を固くする。
「お前……置物にでもなったつもりか?」
「すみません」
居心地悪そうに居住まいを正して、凪が嵐の顔を見上げる。
「あの、どこでしますか?」
「なにをだ」
凪が目を瞬かせる。
「俺はもう寝るぞ」
「はい」
嵐はそう言って寝室に向かう。凪がついてくる。凪の足が半歩、部屋に入ってくる。それに気が付いた嵐は振り返る。葡萄のような瞳と視線がかち合って、凪が瞬きする。
「お前はリビングだ」
ドアを閉めてベッドに入る。カスミガラスの向こうで、凪の影が揺れる。やがて影が消える。それを見届けて、嵐は目を閉じた。
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