3 / 6
1.野良猫③
ふと、夜中に目が覚めた嵐はトイレに立った。リビングを通り抜けて寝室に戻ろうとした時、部屋の隅――ソファの影になにかが落ちていることに気が付いた。明かりをつけると、そこには凪が床に転がっていた。寝ていた、というよりはただ横になっているだけだった。その存在にぎょっとしながら、嵐は凪に近づく。薄く目を開けて息を殺していた凪は、嵐に気付いて目を閉じる。
「なんでソファで寝ない。体を冷やすぞ」
「ごめんなさい」
なぜ謝る。弱々しい声でそう言う凪に視線をやりながら、嵐は言葉を返す。
「……。ソファを倒せばベッドにできる。お前はそこで寝ろ」
「わかりました」
起き上がった凪はもたもたとソファを倒そうとしている。そういえば毛布がないことに気付いて、嵐は壁面収納から客用の毛布を取り出した。そしてソファの倒し方がわからないらしい凪に毛布を押し付けて、代わりにソファを倒して平らにしてやる。凪は嵐の方を見て、それからおずおずとソファに横になった。毛布の先から顔を出した凪が、まだ嵐を見つめている。
「寝ろ」
それだけを言いつけて、嵐は寝室に足を向ける。凪が「はい」と返事をする声が背中越しに聞こえた。
寝室のドアを閉める直前、ふと凪の方を振り返る。目を閉じてはいるが、睫毛が震えている。寝息すら聞こえてこない凪を見遣りながら、嵐はそっと部屋の電気を消した。
翌朝、目が覚めると凪が起きていた。部屋の隅で息を殺して膝を抱えて背中を丸めている凪に目を向けると、彼はびくりと身を震わせる。けれど嵐も凪も特になにも言わなかった。ソファの上に毛布が小さく畳んであるのを一瞥した嵐はいつも通りにコーヒーを飲み、服を着替え、仕事に向かう。
「鍵はここだ」
家を出る直前、合鍵を机の上に置きながらそう言う。凪は目をぱちくりさせたまま、嵐を見ていた。
仕事を終えた嵐が家に帰ってドアを開けた瞬間、ふと違和感を抱いた。嵐がコンビニの袋を持って家に上がる。……いい匂いがする。見ると、食卓に食事が並んでいることに気が付く。机に置いた鍵は手付かずのままで、ご飯、味噌汁、少し焦げた卵焼きが鎮座している。そしてその横に、凪。
「これ、お前が?」
「はい」
よく見ると、今日洗濯するはずだった服が畳んで部屋の隅に置いてある。ところどころ端が揃っていないのが気になるが、それでも助かることに変わりなかった。
「えっと……どこまで触っていいかわからなかったので、できる範囲で……」
「……そうか」
上着を預けると、黙って受け取った凪はてきぱきとハンガーにかけ、玄関横のクローゼットに入れる。手馴れたものだ。
それから食卓についた嵐は黙って食べる。味は、意外に悪くはなかった。
彼の食事はどうしたのかと思いふと視線をやると、凪はお腹を押さえたまま嵐が食事しているのをじっと見ていた。なにをそんなに見ていると思った嵐が味噌汁を啜った瞬間、ぎゅるぎゅるという音がした。
「……すみません、ごめんなさい」
時計の秒針がはっきり聞こえるほどの静寂の中では、その音は目立ちすぎた。驚いた嵐が顔を上げると、視線の先で凪がお腹をさすっている。というより揉んでいる。
「……飯、食ってないのか?」
まさかという思いでそう訊ねると、視線の先で凪が手を止め、目を伏せる。
「な、なにを食べていいのか分からなくて。すみません。残ってたら、それでいいので……」
「はぁ? じゃあなんだ、俺の食べ残しを食べるつもりだったのか?」
「はい」
冗談かと思った。が、たしかに凪は嵐が食べるぶんしか作っていなかった。嵐は空になった鍋の蓋となにもない冷蔵庫を閉めると、乾物をストックしている棚を開けた。
「……次からはちゃんと二人ぶん作って、俺と同じものを食べろ」
「わかりました」
「……まったく。今日だけだ」
そう言って、キッチンに立った嵐は面倒だと思いながらも袋麺を用意した。しばらくするとラーメンができあがる。どんぶりによそって、リビングに向かう。凪は相変わらず床の、それも部屋の隅に、ひっそりと息を潜めるように座っている。
「なにしてる、座って食べろ」
ダイニングチェアを引いてそう命令すると、凪は恐る恐るという風に腰掛けた。浅く座ったまま、凪はまた静かに食べ始める。
「ラーメン……ありがとうございます」
嵐はちらっと凪を見て、表情は変えずに短く返した。
「別に。腹の音がうるさかっただけだ」
凪は俯く。恥ずかしいというより申し訳なさの先行したその顔に、嵐はまたため息をつく。しばらくして凪が顔を上げ、嵐に尋ねる。
「あの、おれ、なにしたらいいですか?」
また交渉。面倒だと思いつつも、嵐は考えてやることにする。家にいるだけなら手持ち無沙汰だろう。そんなに仕事がしたいのかと考えて、嵐はふと閃く。
「お前、料理ができるんだな。弁当は作れるか?」
「はい」
「なら、明日から作れ」
そんな提案したのは、昼食を買う時間の節約になる。そう思ったからだ。
そう言うと、凪が短く息を吸う。
「……っ。はい、わかりました」
詰まりながらもそう返事して、凪は服の裾をぎゅっと握った。
凪に長らく使っていなかった弁当箱と、キッチンの道具、場所、設備の使い方を教える。そして冷蔵庫を開けて中を見てもらい、作れるかを改めて問う。しばらくして凪がこくりと頷く。任せていいのかと最初は疑問だったが、できなければそれでいい。
翌朝、他人がいる気配と物音、それからいい匂いがして嵐は目が覚めた。着替えた嵐がリビングに出る。キッチンは壁付けになっており、凪はリビングに背を向けて立っている。包丁を動かすたび、薄い背中が小さく揺れていた。気付いた凪が振り返る。目が合うと、ぺこりと頭を下げられた。
「あの、これ……」
コーヒーを淹れようとした時、凪がなにかを机の上に乗せていた。見ると朝食の乗ったトレーだった。ご飯、味噌汁、焼きシャケ、卵焼きときんぴらごぼうの小鉢が、仲良く並んでいる。困惑していると、凪が言う。
「よかったら、食べてください」
別にいらない、と言いかけたが、仕方なく嵐は椅子を引き、そこに座った。それから手を伸ばす。ふと、嵐はトレーの上に凪の茶碗がないか探したが、すぐにないことに気が付いて振り返る。
「お前は」
「あとで、いただきます」
凪がそう言うので、嵐はそうかと頷き、味噌汁を啜った。ほのかに出汁の香りがする。……ちゃんと出汁を取ってある。
普段ならニュース番組を付けながらコーヒーを飲むだけだったのが、朝食があるのを珍しく感じながら嵐は食事に手をつける。やがて、凪が風呂敷包を嵐の前に差し出す。報告書を出すみたいなその慇懃な仕草にそこまでしなくてもいいと思ったが、実際助かっているのは事実だった。
凪の弁当は派手さがなく彩りも控えめではあったが、汁気も切られてきっちりと整っていて欠点はなかった。ずいぶん手馴れているなと思いながら、嵐は箸を付ける。味も特に文句はない。卵焼きは、甘くなかった。
帰宅して、嵐は空になった弁当箱を差し出す。受け取った凪は中身が空になっているのを確認して、一瞬ほっとしたような顔をする。
そして弁当箱を洗い場まで運んだ。
そんな奇妙な生活が、始まった。
「主任~、お昼行きましょうよ。ラーメンとかどうすか?」
後輩の三浦が話しかけてくるのを、嵐は弁当の包みを取り出して断った。
「いや、俺は弁当だ」
「えっ、弁当!? ……まさか、自分で? 明日香さん、じゃないッスよね?」
「家のやつが作った」
「家のやつ? 嵐さんお手伝いさんいましたっけ」
「ああ……まあな。最近雇った」
「へー。……え、女? ベータかオメガかだけ教えてくださいよ」
答えるか迷う。
「……ベータの男だ」
そう言うと三浦はあからさまにがっかりした。
「なんだよ夢がないっすね~。金持ちのアルファってオメガをペットみたいに囲うって言うから、ちょっと夢見ちゃったじゃないすか~」
身も蓋もないその話に、嵐は顔を顰める。
「いつの時代の話だ、それ。気持ち悪いこと言うな」
そう釘を刺すと、三浦は「はいはい」と軽く返事をする。
「あーあ、可愛くて手作りのお弁当作ってくれる子、いねぇかな~。……できれば大人しめのオメガの子がいいな~」
「やめろ」
嵐はそう言い返すが、妙に腑に落ちた。聞き分けが良く、おどおどした凪の態度は嵐の癇 に障ることもあるが、若者特有のテンションやよくわからない理屈をこねたりもしないぶん、嵐が邪険にする理由はなかった。とはいえ、愛玩動物として可愛がろうという魂胆もまったく思いつかない。ある意味人間味がない。
「ていうか、かわいいんですか? その男」
「知らん」
食い下がる三浦に、さすがの嵐も辟易し始めた。というか、そもそも顔をちゃんと見たことがない。顔を思い出そうとしても、思い出せない。
「あっ、そいつの写真とかないんすか。雇った時の履歴書とか」
「しつこい、うるさい、早く行け」
「え~いいなぁ俺にも作ってもらえないですか~?」
「自分で作れ」
三浦がしつこく付きまとってくるのを手で振り払い、それから嵐はデスクの上で弁当の箱を開ける。きちんと詰められた白米、形の揃った卵焼き、鶏の照り焼き、ほうれん草のお浸し、きんぴらごぼう。ほとんど自炊のしない嵐にとって、珍しいレパートリーだった。
「え……なんかめっちゃ、ちゃんとしてますね。冷食のやつじゃないっすよね?」
いつの間にか横から覗き込んでいた三浦がぼそっと呟く。嵐がつい手で覆い隠すと、三浦は羨ましそうに唇を噛んでいた。
ともだちにシェアしよう!

