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野良猫│残り物と居場所

 ふと、夜中に目が覚めた嵐はトイレに立った。リビングを通り抜けて寝室に戻ろうとした時、部屋の隅――ソファの影になにかが落ちていることに気が付いた。明かりをつけると、そこには凪が床に転がっていた。寝ていた、というよりはただ横になって体を丸めていた。その存在に思わず心臓を握られたような感覚がした。嵐は凪に近づく。薄く目を開けて息を殺していた凪は、嵐に気付いて目を閉じる。 「なんでソファで寝ない」 「……慣れてるので」 「床にか」  凪は答えない。凪に視線をやりながら、嵐は言葉を返す。 「ソファを倒せばベッドにできる。お前はそこで寝ろ」 「わかりました」  起き上がった凪はもたもたとソファを倒そうとしている。嵐は壁面収納から客用の毛布を取り出した。そしてソファの倒し方がわからないらしい凪に毛布を押し付け、代わりにソファを平らにしてやる。凪は嵐の方を見て、それからおずおずとソファに横になった。毛布の先から顔を出した凪が、まだ嵐を見つめている。 「寝ろ」  それだけを言いつけて、嵐は寝室に足を向ける。凪が「はい」と返事をする声が背中越しに聞こえた。  寝室のドアを閉める直前、ふと凪の方を振り返る。目を閉じてはいるが、睫毛が震えている。寝息すら聞こえてこない凪を見遣りながら、嵐はそっと部屋の電気を消した。  翌朝、目が覚めると凪が起きていた。部屋の隅で息を殺して膝を抱えて背中を丸めている凪に目を向けると、彼はびくりと身を震わせる。けれど嵐も凪も特になにも言わなかった。ソファの上に毛布が小さく畳んであるのを一瞥した嵐はいつも通りにコーヒーを飲み、服を着替え、仕事に向かうことにする。 「オートロックだから、出れば自動で閉まる」  家を出る直前、机の上に合鍵を置いて、嵐は振り返らないまま続けた。 「出て行くなら、勝手にしろ」  凪は目をぱちくりさせたまま、鍵と嵐を交互に見ていた。  仕事を終えた嵐は、帰り道でほんの一瞬だけ考える。家を空けたまま置いてきた以上、荒らされていないか、何か持ち出されていないか。ただその思考は長く続かなかった。もしそうなっていれば、その時に処理すればいい。  同時に、昨日からの凪の挙動も思い返す。勝手に触らない、視線を外す、必要以上に動かない。あの様子ならやらない可能性が高いと、嵐はそれ以上深く考えるのをやめる。逃げるならそれでいい。その程度の関係だ。  嵐がドアを開けた瞬間、ふと違和感を抱いた。コンビニの袋を持って家に上がる。……いい匂いがする。見ると、食卓に食事が並んでいることに気が付く。ご飯、味噌汁、少し焦げた卵焼きが鎮座している。そしてその横に、凪。 「……まだいたのか」  そう言うと、凪の肩がびくりと跳ねた。 「あ……出ていくなら、勝手にしろって、言われたので。でも、いてはいけないとは……」  凪は顔を真っ赤にしている。俯いてもじもじとしたあとでくるりと嵐に背を向ける。 「す、すみません……っ、おれ、すぐに……」 「待て。これ、お前が?」  そそくさと玄関に向かおうとした凪を呼び止めると、彼は振り向く。 「あ……か、か勝手に、触って……すみません」 「……いや」  よく見ると、今日洗濯するはずだった服が畳んで部屋の隅に置いてある。そのまま視線を一周させる。物の配置は大きく変わっていない。荒らされた形跡もない。そこで初めて、机に置いたままの鍵と、整えられた室内に気付く。 「どこまで触っていいかわからなかったので、できる範囲で……」 「……そうか」  ふと嵐が試しに上着を預けると、黙って受け取った凪はてきぱきとハンガーにかけ、玄関横のクローゼットに入れる。妙に、手馴れている。  それから食卓についた嵐は、黙って食べる。味は、意外に悪くはなかった。  彼の食事はどうしたのかと思いふと視線をやると、凪はお腹を押さえたまま嵐が食事しているのをじっと見ていた。なにをそんなに見ていると思った嵐が味噌汁を啜った瞬間、ぎゅるぎゅるという音がした。 「……すみません」  時計の秒針がはっきり聞こえるほどの静寂の中では、その音は目立ちすぎた。驚いた嵐が顔を上げると、視線の先で凪がお腹をさすっている。というより揉んでいる。 「飯、食ってないのか?」  まさかという思いでそう訊ねると、視線の先で凪が手を止め、目を伏せる。 「な、なにを食べていいのか分からなくて。でも大丈夫です」 「なにがだ」 「あ……黒川さんの、残ってたら、それでいいので……」 「はぁ? じゃあなんだ、俺の食べ残しを食べるつもりだったのか?」 「はい」  冗談かと思って、嵐は固まった。躊躇いもなく頷くその様子に、ぞわりとした違和感が走る。そこに遠慮も、羞恥も見えない。  けれどたしかに凪は嵐が食べるぶんしか作っていなかった。立ち上がった嵐は空になった鍋の蓋となにもない冷蔵庫を閉める。昨日、半分残してあった弁当はもうない。それから凪を見る。 「……くそ」  そう小さく漏らすと、凪が「すみません」と返してきた。ややあって、嵐は乾物をストックしている棚を開けながらため息をついた。 「次からはちゃんと二人ぶん作れ」 「わかりました」 「……今日だけだ」  そう言って、キッチンに立った嵐は面倒だと思いながらも袋麺を用意した。しばらくするとラーメンができあがる。どんぶりによそって、リビングに向かう。凪は相変わらず床の、それも部屋の隅に、ひっそりと息を潜めるように座っていた。目が合うと、猫みたいにびくっとする。 「なにしてる、食べろ」  ダイニングチェアを引いてそう命令すると、凪は恐る恐るという風に腰掛けた。浅く座ったまま、凪はごくりと喉を鳴らす。それでも手をつけていいのか迷っている。 「食べろ」  もう一度言うと、凪は絞り出すような声で「いただきます」と言って箸を手に取った。  それから凪は急いで手を動かす。少し噎せそうになって、慌ててコップを掴む。その手は震えていた。 「あの……ありがとうございます」  食べ終えたあとで、凪はちらっと嵐を見る。嵐は表情は変えずに短く返した。 「別に。腹の音がうるさかっただけだ」  凪は項垂れる。恥ずかしいというより申し訳なさの先行したその顔に、嵐はそう言うしかなかった。しばらくして凪が顔を上げ、嵐に尋ねる。 「あの、おれ、なにしたらいいですか」  また交渉。面倒だと思いつつも、嵐は考えることにする。そんなに仕事がしたいのかと考えて、嵐はふと閃く。 「お前、料理ができるんだな。弁当は作れるか?」 「はい」 「なら、明日から作れ」  そんな提案したのは、昼食を買う時間の節約になる。そう思ったからだ。  そう言うと、凪が短く息を吸う。 「……っ。はい、わかりました」  詰まりながらもそう返事して、凪は服の裾をぎゅっと握った。  凪に長らく使っていなかった弁当箱と、キッチンの道具、場所、設備の使い方を教える。そして冷蔵庫を開けて中を見てもらい、作れるかを改めて問う。しばらくして凪がこくりと頷く。任せていいのかと最初は疑問だったが、できなければそれでいい。  翌朝、他人がいる気配と物音、それからいい匂いがして嵐は目が覚めた。着替えた嵐がリビングに出る。キッチンは壁付けになっており、凪はリビングに背を向けて立っている。包丁を動かすたび、薄い背中が小さく揺れていた。気付いた凪が振り返る。目が合うと、ぺこりと頭を下げられた。 「あの……」  コーヒーを淹れようとした時、凪がトレーをダイニングテーブルに乗せた。そこにはご飯、味噌汁、少し焦げた焼きシャケ、卵焼きときんぴらごぼうの小鉢が、仲良く並んでいる。困惑していると、凪が言う。 「よかったら、どうぞ……」  別にいらない、と言いかけたが、仕方なく嵐は椅子を引き、そこに座った。それから手を伸ばす。ふと、嵐はトレーの上に凪の茶碗がないか探したが、すぐにないことに気が付いて振り返る。 「お前は」 「あとで、いただきます」  凪がそう言うので、嵐はそうかと頷き、味噌汁を啜った。ほのかに出汁の香りがする。……ちゃんと出汁を取ってある。  普段ならニュース番組を見ながらコーヒーを飲むだけだった。朝食があるのを珍しく感じながら嵐は食事に手をつける。やがて、凪が風呂敷包を嵐の前に差し出す。報告書を出すみたいなその慇懃な仕草にそこまでしなくてもいいと思いつつ、嵐は受け取った。会社で昼休みに広げる。凪の弁当は派手さがなく彩りも控えめではあったが、汁気も切られてきっちりと整っていて欠点はなかった。ずいぶん手馴れているなと思いながら、嵐は箸を付ける。味も特に文句はない。卵焼きは、甘くなかった。  帰宅して、嵐は空になった弁当箱を差し出す。受け取った凪は中身が空になっているのを確認して、一瞬ほっとしたような顔をする。  そして弁当箱を洗い場まで運んだ。 「主任~、お昼、ラーメンとかどうすか?」  後輩の三浦が話しかけてくるのを、嵐は弁当の包みを取り出して断った。 「いや、俺は弁当だ」 「えっ、弁当!? ……まさか、自分で? 明日香さん、じゃないッスよね?」  三浦が出した明日香という名前に、嵐は引っかかりを覚える。そして彼女とは、しばらく連絡を取っていなかったことを思い出す。そして浮かびかけた顔を、そのまま意識の外に追いやった。 「家のやつが作った」 「家のやつ? 嵐さんお手伝いさんいましたっけ」 「ああ……最近雇った」 「へー。……え、女? ベータかオメガかだけ教えてくださいよ」  答えるか迷う。知られれば面倒になる。あれは外に出すものじゃない。 「……ベータの男だ」  そう言うと三浦はあからさまにがっかりした。 「なんだよ夢がないっすね~。金持ちのアルファってオメガをペットみたいに囲うって言うから、ちょっと夢見ちゃったじゃないすか~」  身も蓋もないその話に、嵐は顔を顰める。 「いつの時代の話だ、それ。気持ち悪いこと言うな」  そう釘を刺すと、三浦は「はいはい」と軽く返事をする。 「ていうか、かわいいんですか? その男」 「知らん」  食い下がる三浦に、さすがの嵐も辟易し始めた。だが三浦の言葉に、嵐は一瞬だけ考える。  顔は思い出せる。あの黒い目も、痩せた輪郭も、はっきり浮かぶ。だがそれを言葉にしようとした瞬間、なにかが引っかかった。特徴を挙げようとしても、「細い」とか「暗い」とか、曖昧なものしか出てこない。  人間一人を説明するには、あまりにも足りない。  嵐は三浦をちらと見る。 「あっ、そいつの写真とかないんすか。雇った時の履歴書とか」 「しつこい、うるさい、早く行け」 「え~いいなぁ俺にも作ってもらえないですか~?」 「自分で作れ」  しつこく付きまとってくる三浦を手で振り払い、それから嵐はデスクの上で弁当の箱を開ける。きちんと詰められた白米、形の揃った卵焼き、鶏の照り焼き、ほうれん草のお浸し、きんぴらごぼうが行儀よく並んでいる。ほとんど自炊のしない嵐にとって、珍しいレパートリーだった。 「え……なんかめっちゃ、ちゃんとしてますね。冷食のやつじゃないっすよね?」  いつの間にか横から覗き込んでいた三浦がぼそっと呟く。嵐がつい手で覆い隠すと、三浦は羨ましそうに唇を噛んでいた。

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