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1.野良猫④
その日から、帰った時には食卓に食事が並ぶようになった。朝も起きれば一通りの食事ができている。凪は嵐が買ってきた食材をうまいこと調理してくれるようになった。掃除も、文句の一つも言わずにやってくれる。その妙に慣れた手つきや生活力がある意味不思議に思えたが、アルバイトかなにかで身に付けたのだろうと、嵐は想像していた。
数日後、食後の片付けは凪に任せ、部屋でメールを打っていた時のことだった。少しして、キッチンで皿の割れる音が聞こえた。嵐が様子を見に部屋から出て音のした方を見ると、真っ白な顔をした凪の足元には割れた皿の破片が飛び散っていた。
「あ……すみません、ぼーっとしてて」
大丈夫か、と声を掛ける前に、はっとした顔の凪と目が合う。かと思うと凪はその場に座り込み、素手で割れた皿の欠片をかき集め始めた。一拍遅れて声が出た。
「っ、なにしてる!」
「ごめんなさい!」
駆け寄った嵐が凪を止めようとしたその時、凪は頭を抱えるようにして後ずさった。意外なその反応に、嵐は辿り着く数歩前で立ち止まる。凪はキッチンの隅で頭を抱え、自身を守るように蹲っている。丸めた足のつま先が白い。破片で切れた指からはじわ、と血が滲んでいる。肩を震わせている凪を、嵐は呆然と立ち尽くしたまま見下ろしていた。
「ご、ごめんなさい……」
嗚咽にも似たか細く震えた声が、凪の口から漏れた。少しして嵐が殴らないとわかったのか、凪はおずおずと手をどける。ゆっくりと見上げたその目は怯えていて、なぜか困惑の色も浮かんでいた。はっとした凪は慌てて居住まいを正し、それから小さく口にする。
「あの……申し訳ありません。お皿は働いて弁償します……」
嵐はため息をついた。
「……素手で割れ物に触る馬鹿がどこにいる」
「え?」
「見せてみろ」
膝をついて、凪の顔を覗き込む。彼はきょとんとした顔をしていたが、すぐにはっとなって手を引っ込めようとした。
「あ……はい……でも、平気です、これぐらい……」
「うるさい」
嵐は凪の手を引いて洗面台に連れていき、彼の指に刺さったガラスを洗い流す。水の下で、凪の手は思ったより冷たく感じた。手の甲にある、古い傷が洗面台の下で光る。丸く、同じ大きさの白い痕が、等間隔で二つ。一瞬、指が止まる。凪が目を伏せる。蛇口を閉めた嵐は、数秒、凪の手をじっと見た。やがて血が滲んだのを見て、ようやく嵐は動いた。
救急箱から絆創膏を持ってきた嵐はそれから凪の冷たい手を取り、改めて指を見る。破片で切れた凪の指は、細いのに節が硬くなっていた。水でふやけた白い指先には、小さなひびがいくつも入っている。嵐はその手をほんの少しだけ握ったあと、絆創膏を巻いてやった。少しよれたり折れたりしてしまったが、どうにか最後までやり遂げる。凪は絆創膏に苦戦する嵐を、静かに見ていた。痛みより、別のことに戸惑っているように見えた。
「ありがとう、ございます……」
ふうと息をついた嵐の横で、凪がそうやって頭を下げる。凪はしばらく自分の手を見つめて、それから軽く握った。
嵐は収納にしまってあったほうきとちりとりを持ってきて、割れた皿を片付ける。
「わかったらもういい。……そのちりとり、抑えてろ」
「はい」
凪が絆創膏を巻いたばかりの手でちりとりを抑え、そこに向かって嵐は箒を掃く。ばらばらになった皿が一箇所に集まり、それを新聞紙で包んだあとで不燃ごみにまとめる。
「……これ、不燃ごみの日に出しておけ」
小さくまとまった皿の入ったその袋を凪に渡すと、受け取った凪は神妙な顔をして言った。
「あの、おれ、迷惑かけません。貴方の役に立ちます。だから、もう少しだけ……」
そう小さく言って、凪は項垂 れる。唇を噛んで震えている凪に、嵐はもう一度だけため息をついた。
「……明日は皿を買いに行く。凪、お前もついてこい」
「わ、わかりました」
嵐は凪を後部座席に載せて、一緒に出かけることにした。
車から降り立った凪は、嵐の後をトコトコとついてくる。時々後ろを気にしつつ、嵐は真っ先に服屋に行った。凪はまるで荷物持ちのような顔でぼーっと近くの商品を見ていたが、嵐が凪を呼び寄せ、その体に服を当ててみると、凪は目を丸くして嵐を見上げた。
「あの……お皿を買うんじゃ……?」
「それもだが、俺のだとサイズが合わないだろ、お前」
嵐が貸してやったパーカーやスウェットは、着古しているせいもあり凪の体躯にしてはかなりだぼだぼだった。捲ってもすぐ落ちてくる袖や、布が余って動きづらそうにしていたのを思い出す。あれでは家事に差し支える。
「おれの、ですか?」
「他に誰がいる」
「でも、本当に大丈夫ですから……」
遠慮する凪に、嵐は不機嫌を顕にする。
「お前は召使いかなにかか? 俺ばかりいい物を着てみろ。外聞が悪いだろ」
「あ……すみません……」
嵐は再度、凪の服を見繕う。服を見るのは嫌いではない。人の印象は見た目で決まる、というのが嵐の持論だった。普段はスーツでフォーマルな服が多いが、普段着もそれなりにこだわっている。
いろいろと凪の体に合いそうな服を選んでみる。試着室に放り込んで「どうだ?」と尋ねると、凪は少し恥ずかしそうに「えっと、お腹周りが少し……」と返ってくる。
「そうか。ならゆったりめにしろ」
「わかりました」
会計の時、値段を見た凪がびっくりした顔で固まった。そして嵐の袖を掴み、必死な様子で首を振る。
「あ、あ、あの、こんな高いのダメです」
「必要経費だ。……カードで」
「……っ」
冬のボーナスが出たばかりだから別に痛くも痒くもない。だというのにまるで命を救った恩人のように、凪はありがとうございます、ありがとうございます、と繰り返すばかりだった。うるさいのであとの生活必需品についてはもはや値段は見せないで買った。この程度で困るほどの額ではない。
嵐は美容室に行き、彼の髪を整えてやった。希望を聞いてみたが、凪は「短すぎなければ」とオーダーするだけでそれ以外のことは言わなかった。長さは残しすぎないよう、清潔に見えるようにとだけ店員に告げる。凪は切り落とされた髪が床に落ちていくのをじっと見ていた。最後にワックスを付けるか聞かれたが、断った。
ぼさぼさだった髪が多少の艶を取り戻し、来た時よりも幾分かマシになった。元々の大人しさが上品に見えて、少なくとも場違いではなくなった。身なりを整えればそれなりに通用しそうだ。体格に関しては痩せてはいるが、食事が整えば変わるだろう。
「あ、あの……本当にありがとうございます。こんなにいっぱい、買ってもらったのは初めてで」
凪がぺこぺこと頭を下げて、「ありがとうございます」と何度も口にする。嵐はふんと鼻を鳴らした。
「普通買うだろ」
「そうですよね……すみません」
凪はそう言って俯く。嵐はため息をついた。
昼時で腹が減ったので、同じ百貨店内にあるレストランに入ることにした。
店に入って、嵐はテーブルを観察した。ウォールナットの無垢材で、天板の厚みも十分ある。安物ではない。椅子は木フレームにレザー張り。プレースマットは落ち着いたレザーのバーガンディで、テーブルの色と馴染んでいる。カトラリーは丁寧に磨かれたクリストフルだった。……悪くない。
そろそろ決まっただろうかと思い、凪を見る。しかし凪はメニューを見て固まっていた。
「なににする」
一応聞く。
「お、おれ、いちばん安いのでいいです……」
凪がようやくメニューから顔を上げたかと思うと、青ざめた顔でメニューを畳み、そう弱々しく返した。値段表記のないメニューを用意してもらえばよかったかと思いついたが、後の祭りだった。嵐はそうかと息をつき、それから手元のメニューを見て改めて思考する。前菜、スープ、メイン、デザートが選べるコースになっている。少し考えて、嵐は凪に尋ねる。
「俺と同じでいいな」
「は、はい」
凪は頷く。
料理が運ばれてくる。皿は白磁のリムプレートだった。レイノーかベルナルドあたりか。料理の色を邪魔せず、かつ写真に撮った時、料理の鮮やかさを引き出すような控えめな光沢をしている。
凪はテーブルの向かいで、嵐の手元を何度も見ながら、自分のナイフとフォークを動かしていた。肉を口に運んだ瞬間、凪の動きが止まった。
「どうした」
そう尋ねると、凪はどこか慌てた様子でびくりと反応し、「美味しい、です」と答えた。
「そうか」
嵐がそう答え、自らも肉を口に運ぶ。食べ慣れた食事だ。まあ普通かと思いながら食べ進めて行くが、凪が嵐のペースについて行こうとして、その手が忙しなく動いていることに気が付く。
「……ゆっくり食べろ」
「は、はい」
嵐がそう言うと、凪は素直にコクコクと頷く。けれど手元はずっと休まっていなかった。そのうち、凪がナイフを床に落とす。
「わ、すみませ」
「待て、拾うな」
そう言うと、しゃがみ込もうとした凪が動きを止める。嵐が黙って手を上げる。給仕がやってきて床に落ちたナイフを拾い、そして凪のテーブルに新しいのを用意する。凪は顔を赤らめ、給仕にぺこりと頭を下げた。
「……」
嵐は食べるペースを落とした。
やがてデザートが運ばれてくる。淡いピンク色のムースに、綺麗に飾られたいちご。上には金箔と飴細工が乗っている。凪はテーブルのその料理を一点に見つめている。その目が輝いているように見えたのは、シャンデリアのせいかもしれない。
しかし嵐がスプーンを手に取ったことにも気付かずじっとそれを見つめ続けている凪に、嵐は声を掛ける。
「食べないのか」
そう言うと、止まっていた時が動き出したように、やっと凪が瞬きをする。
「あ、え」
「溶けるだろ」
「は、はい」
凪が銀のデザートスプーンを手に取り、そっとムースに差し入れた。ゆっくりと掬って口に運んだあと、凪は目を見開く。
「……あまい」
そしてそう、漏れ出たようなその声に、嵐はまだ手付かずだった自分のデザートの皿を凪の方へ押しやっていた。
「俺のも食べるか」
「え。……い、いいんですか」
凪が固まる。食べろと言うと、凪は頷きともお辞儀とも取れるような動きで頭を下げた。
あまり見ていると凪が怯えることを学習して、嵐はついと視線を外に向ける。店の中は上品な客で溢れている。時々、視界の端で周囲の客の視線を感じた。
ふと、視界の端で凪が動く。見ると食べかけのデザートの皿が突き返されていた。
「なにしてる」
「あの、これ……もらいすぎました」
「全部食え」
「あ……はい。すみません」
凪が静かに皿を引き戻す。
「いちご、好きなのか?」
「……よくわかりません」
嵐が視線を向けると、凪は手を止める。
「好きな物はないのか」
そう聞くと凪は顔を上げ、沈黙ののちに言葉を零した。
「メロン……とか、一度でいいから、食べてみたいです」
「メロン? いつでも食えるだろ」
頬杖をついていた嵐は顔を上げ、思わずそう口にしていた。
「す、すみません」
凪は曖昧に首を振り、謝罪なのか肯定なのかよくわからない首の動きをする。まあいいと頬杖を付き直して、嵐はムースをゆっくりと運ぶ凪の口元を見ていた。
あと彼に必要なものはないかと、食事を済ませた嵐は店から出たのち、凪を上から下まで見下ろす。
「あの……?」
嵐にじっと睨まれて、凪はつま先を揃え、首を竦めた。凪のぼろぼろの首輪が目に入った嵐はおもむろに凪の顎を掴み、それから目を細める。
「来い」
それだけを言い、嵐は凪を連れて今度は革製品専門店へ入っていく。
「いらっしゃいませ。どなたかへのプレゼントですか?」
首輪を物色している嵐に、ショップスタッフが話しかけてくる。顔を上げた嵐は凪を指差してスタッフに言う。
「ええ。彼に合う首輪を探してまして」
「え」
今度は凪へと向き直る。
「首輪。小さいんだろう、擦れてる。新しいのを買ってやる」
首輪をくいっと触る真似をして見せると、凪はおずおずと視線を落とす。
「あっ……平気です。キリを貸していただければ……」
「は? キリ?」
嵐は面食らう。凪は目を伏せ、それからなんでもないように言う。
「穴、開けます。そうしたらしばらくは使えるから……」
嵐は瞬きを二度したあとで凪の首輪に目をやる。見ると彼の首輪には雑に開けた穴が確かにあり、そこに留め具を通しているのがわかった。しかし、ただでさえ安物に見えるそれはかなりぼろぼろだった。嵐は顔を顰め、そして言う。
「汚い。服に合わない。見ていて不快だ」
「……はい」
嵐がそう言うと、凪は項垂 れた。
引き続き、スタッフに案内されながらショーウィンドウを物色する。首輪を見るのは初めてだったが、宝石をあしらったもの、最高級の革を使ったもの、レースを施したものなどいろいろとあるようだった。嵐はいちばんシンプルな首輪を選んで凪に付けさせた。
「それ、もう要らないだろ」
店を出る直前、凪が握り締めたままの首輪に向かってそう言う。ショップスタッフは「こちらでお預かりしますよ」と言って、凪にトレーを差し向ける。だが凪は首を横に振って、強く握ったまま離そうとはしなかった。珍しく頑固な一面もあるのだなと思ったのもつかの間、嵐は口を開く。
「……好きにしろ」
それ以上、嵐はなにも言わなかった。
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