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1.野良猫⑤

 百貨店へと出かけたその日の夜、食器棚には凪のマグカップと茶碗が並んでいた。嵐が雑貨屋に行って選んだものだった。そして買ってきた服は嵐のクローゼットの空いた所に収納した。いつのまにか凪が整理してくれていたのか、収納周りはだいぶすっきりしていた。  ソファに座った嵐がスマホでニュースを見ていると、ふと凪が風呂から上がってきた音がした。ぺたぺたと足音がして、それが嵐の前に立つ。 「……なんだ」  凪の気配に、嵐はスマホから顔を上げずにそう尋ねる。ばさ、と布が落ちる音がした。 「あの、今日のお礼に……」 「ん?」  嫌な予感がしてスマホから凪へと視線を移すと、目の前で凪がタオルを脱いで裸になっていた。反射で思わず後ずさる。けれど凪はソファに膝を乗せ、嵐へと近付いた。 「こういうの……黒川さんもするんです……よね? 久しぶりで、上手くできなかったら、すみません……」  事務的で、淡々とした声。そこに感情はない。だからこそ、嵐は凪がなにを言っているのか、わからなかった。けれど我に返った嵐は凪の意図に気付いた瞬間、立ち上がって凪に向かって怒鳴りつけていた。 「ふざけるな! 俺はそんなことのためにお前に施したわけじゃない」  落ちたタオルを凪に向かって投げる。凪は「ひっ」と小さく悲鳴を上げ、肩を竦める。床にへたり込んだ凪を見てやり過ぎたと思った嵐はつい歯噛みする。怯えている凪を見て、嵐は胸が締まるような気持ちになる。 「二度とそんなことは言うな。……俺をそんな男にするな」 「あぇ……」  凪の横を通り過ぎ、嵐は自室に戻る。ドアを閉める直前で振り返ると、凪は蹲ったまま、背中を震わせていた。舌打ちをして、嵐はそのまま部屋のドアを閉じた。そこでようやく振り返って、部屋の外の物音を確認する。一度だけ、鼻を啜る音が聞こえた。  それきり、部屋の外は静かになる。  やがて嵐はドアのそばを離れ、それからベッドに入った。  次の休みの日、嵐は家にいた。  コーヒーを淹れようとした時、先日買った凪のマグカップが目に入った。百貨店の雑貨屋で凪が手に取っていたものだ。二重構造の陶器で、保温性がいい。生成りの落ち着いた色味も悪くない。これに目を付けるとは見る目があると思ったが、凪は値札を見てすぐ棚に戻していた。  嵐はそのマグカップを手に取り、それから凪へと振り返る。 「コーヒー、飲むか」  キッチンで洗い終わった皿を拭いていた凪にそう尋ねると、凪は無言で首を振った。嵐は肩透かしを食らったような気がした。しかし冷蔵庫に牛乳があるのを思い出し、嵐は再度振り返る。 「……ホットミルクなら、飲むか」  布巾を持つ手が止まる。だいぶ迷ったあと、凪はしばらく視線を彷徨わせ、それから口を開いた。 「……いいんですか?」  凪が布巾を小さく折り畳み、嵐は自分のコーヒーを入れる。湯気が立つ。そしてレンジであたためたマグカップを持って、リビングへ行く。ローテーブルの上にカップを二つ置いた嵐がソファに座ると、手を拭いた凪がそろそろとやってくる。凪は嵐の隣には座らず、床の上でソファを背もたれにして座った。  嵐はちらと凪のつむじを見下ろしたが、凪は気付かないまま嵐の用意したマグカップを両手で持った。  すぐには飲まずに、凪はミルクの匂いを嗅ぐ。それから、少しだけ口をつける。 「……あったかいです」  そして、小さくそう零した。その声を聞いて、ふっと息が抜ける。 「ホットミルク、好きか」  凪は俯いた。そして細い指が、マグカップの縁をなぞる。 「……母が、昔作ってくれました。はち……」  そこまで言いかけて、凪は口を噤んだ。控えめな咳払いをして、凪は二口目を飲む。 「はちみつか?」  嵐がそう続ける。凪はマグカップを見つめて、それから静かに頷いた。 「はい。……はちみつ、入れてもらいました」  そして、マグカップを両手で包み込む。後ろから見た背中はいつものように丸まってはいたが、少しばかり力が抜けているように見えた。優しく甘い匂いがした。 「……そうか」  嵐は頷く。そしてスマホの買い物リストを少しだけ更新した。  その時、嵐のスマホが鳴った。着信だった。嵐はその場で電話に出る。 「明日香か」 『元気? 今度の食事会、パパが時間を変更できないかって』  電話の向こうの女性の声に、視界の端の凪が少しだけ背筋を伸ばした。  彼女は橘明日香。実家が経営するホテルグループで広報と企画を担当しており、SNS運用や女性向けの宿泊プラン、アフタヌーンティーなどの企画を手がけている。  明日香の派手な見た目や華やかな仕事ぶりは嵐とは少し噛み合わないところもあるが、その商才と、仕事を楽しみながら成果を出す実力については嵐も認めていた。 「そうか、なら調整しておく。あとで希望時間をメールでくれないか。俺の両親にも伝えておくから」 『ありがとう。ドレスコードはビジネスフォーマルでいいのよね?』 「ああ」 『そう。じゃあ、それだけ。体に気を付けてね』 「問題ない。きみも気を付けてくれ」  電話の向こうで明日香が笑う。シャンパンの泡が弾けるような、小さくて上品な笑い。電話が切れる。すぐに、彼女からメッセージが来る。 「……今の」 「ああ、婚約者だ」  そう答えると、凪がホットミルクをもう一口飲む。嵐は彼女の父の希望時間を確認し、ウェブサイトから予約時間を変更する。両親にもそのことを共有する。 「そうですか」  転送ボタンを押した時、少し間を開けて凪はぽつりとそう言った。後ろから見た凪の表情はわからなかったが、彼の声のトーンはいつもと変わらなかった。  スマホを再度テーブルに置いて、嵐は飲みかけのコーヒーに手を伸ばす。一瞬だけ手が止まる。そういえば言っていなかったな、と思い出す。だがすぐにコーヒーに口を付ける。啜る音が、静かすぎる部屋の中でやけに大きく響いた。  凪には言う必要がなかっただけだ。隠していたわけでもない。そう頭の中で整理して、嵐は二杯目を淹れに行く。さっきより少し濃いめに淹れてリビングに戻ると、凪は飲み終わったマグカップを持ってつと立ち上がる。それから自分の仕事に戻って行った。  マグカップを洗う音が、いつもより途切れがちに聞こえた。

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