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1.野良猫⑥
あくる日。ふと、嵐はクリーニングの保管期限が迫っていることに気が付いた。だが同時に受け取れるタイミングがそうそうないことにも気付いて、考えた嵐は机の上に財布を出す。学生の頃使っていた、古びた財布だった。
「凪」
呼ぶと、凪はキッチンから手を拭いて出てくる。嵐は凪をソファに座らせ、財布を凪の前にすっと出した。凪は財布と嵐をゆっくりと交互に見た。
「この家を出て左に行って、そこから角を右に曲がって三つ目のところにクリーニング屋がある。そこに俺のスーツとコートを預けてあるから、凪、明日取りに行ってくれるか」
そう言うと、凪は数秒情報を飲み込んだあと、こくこくと頷いた。よし、と返した嵐は今度は財布を開き、それから中に紙幣が入っているのを凪に見せる。
「あと、これは好きに使え。一応一週間分の食費だ。足りなければ、俺に言え。スーパーは……クリーニング屋まで行けばわかる」
「……わかりました」
そう言って凪に差し出すと凪はおずおずと受け取り、そしてゆっくりと頭を下げた。これで、これからは嵐が仕事にいないあいだ、凪に食材や日用品を任せることができる。
凪が財布を受け取ったのち、嵐は一度思い出したように引き出しを開ける。
「……あと、これも持っていけ」
嵐は黒の折り畳みタイプの地味なエコバッグを取り出して渡す。凪は「いいんですか?」と聞く。
「必要だろう。袋代が無駄にならなくて済む」
そうして嵐が立ち上がった時、ふと凪が「あの」と言って嵐を呼び止めた。
「なんだ」
振り向いてそう問うと、凪はおずおずと言う。
「好きな料理って、なんですか」
その質問に、別にない、と言いかけた嵐は顎に手を当てて考えた。
「……サバ味噌。生姜は多めだ」
「え?」
凪がきょとんとする。
「あ……じゃあ、お弁当のおかずは……」
「なんでもいいが、卵焼きは出汁多めで、甘くない方が好きだ」
そう答えると、凪は一瞬目を伏せて、それから静かに頷いた。
「わかりました。あの……本当にいいんですか」
次いで浮かんだ凪の控えめな疑問符に、嵐は凪を見つめる。
「なにがだ」
「その……お金。オレがこれを持って逃げるって、思わないんですか?」
凪はそう言って財布の表面を、絆創膏の巻いてある指でそっとなぞった。変なことを言う。嵐は一度瞬きをして、凪に問いかけた。
「……逃げるたってどこに」
「……そうですね」
凪は小さくそう言って、手にした財布をぎゅっと握った。
日用品や食材は安いものじゃなくていい、家にあるものがなくなったらそれと同じものを買えと言うと凪は戸惑ったが、言いつけはしっかり守った。
嵐が家に帰ってくると、凪はその度に律儀に財布を嵐に返した。中には釣り銭と、綺麗に折り畳まれたレシートが入っていた。目を通して確認してみたが、そこに凪らしい品は一つも入っていなかった。
「今日はサバ味噌がいい」
仕事で家を出る前、嵐は凪にそう言った。玄関まで見送りに来た凪が頷く。
「はい、わかりました」
「あと、もしビールがあったら頼む」
「……はい」
凪が一瞬言葉に詰まる。そのわずかな間が気になった嵐は踵を返す。
「どうした」
「なんでもないです。……行ってらっしゃい」
凪はそう言って、嵐を玄関で見送った。
帰宅後、冷蔵庫を開けた嵐はビールを探す。しかしそこにないことに気付き、凪へと振り返る。
「ビールは?」
キッチンで味噌汁を温めていた凪が動きを止める。凪は少し視線を彷徨わせたのち、それから嵐の顔を見ないままぽつりと言った。
「すみません。年齢確認があって……」
小さな声だった。髪の隙間から見える耳の端が赤くなっている。お玉を持つ手が少し、震えている。嵐は固まる。
未成年。
嵐は固唾を飲む。
同時に、嵐の中で過去の出来事が一気に繋がった。
「おれを買いませんか」「今日のお礼に」
——あの言動を思い出して、内側で温度が一段下がる。頭の中で冷たい計算が入る。
「……十八は、越えているのか」
冷蔵庫を閉めた嵐は、無意識に低い声でそう問いかけていた。
「……はい。たぶん、もう」
曖昧さの残る言葉で、凪はそう頷いた。
「たぶん?」
振り返る。凪は俯いたまま答える。
「正確な日は、わからなくて。すみません」
嵐は次になんと声を掛けたらいいのかわからず、迷う。
「……そうか。なら、次から俺が帰りに買う」
今度は嵐が視線を落とした。凪が味噌汁の火を止め、ようやく顔を上げた。
「あの……怒らないん、ですか」
「なんでだ」
「あ……いえ、その……」
凪が言い淀む。そんな凪の様子を見て、変なことを言うやつだと思いつつ嵐は動く。
「……飯にするぞ」
「はい、黒川さん」
凪もまた動き出す。いそいそと味噌汁のお椀を出し、ご飯をよそう。相変わらず凪の食べる量は嵐の半分ほどもなかった。これで足りるのかと不思議に思ったが、口には出さなかった。
それから凪は変わらず嵐の言うことを聞き、リクエストに答えてくれていた。凪がほとんど夕食を食べない日もあったが、聞くと嵐が帰る前に少しつまんだからいらないと、そう返ってくるばかりだった。
一つ気になることがあると言えば、最近、凪の帰ってくる時間が遅いことだった。
帰宅した時には家にいるのは確かだが、レシートに打刻されている時間が、前よりも遅くなっている。
「今日は遅かったな」
皿洗いをしている凪に嵐がそう問いかける。水音の中、凪が「はい」と答える。
「スーパー、混んでたのか」
「……はい」
追逐しようとすると、返事が一拍遅れる。レシートをなぞる手が止まる。嵐は少し気になったが、まあそういうものかと思い納得した。
「あの、先にお風呂、入ってもいいですか」
きゅ、と蛇口が閉まる音がする。凪のその言葉に嵐は「……ああ」と返事をし、凪を見送る。しかしその時、柔軟剤でも石鹸でもない、甘ったるい香水の残り香がした。
顔を上げる。嗅ぎなれない匂いに、無意識に眉が寄る。凪に香水をつける趣味は、あっただろうか。普段凪からするのは、石鹸と、ほんの少しのミントの匂いぐらいだった。
もう一度息を吸う。もしかすると、スーパーで香水のキツい人がいたのかもしれない。
ふと、バスルームへと向かう凪の、新しい首輪の下に赤い跡が見えた。薄く、鬱血 した桜色。
気のせいかと一瞬思ったつかの間、凪はそのままバスルームへと消えてしまう。嵐は追いかけようか迷って、結局踏み出せなかった。宙に手を伸ばしたまま、嵐は固まる。
やがて嵐は静かに手を下ろした。
バスルームからは、凪が静かに湯を掬 う音が聞こえてくる。そこでようやく嵐は息を吐く。見間違い、という可能性もある。いや、あれは、単なる虫刺されだ。
けれど首輪の下の赤い跡と、嗅ぎ慣れない香水の匂いが、嵐の中でやけに記憶に焼き付いていた。
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