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2.正しさ①

「今夜は晩飯はいらない。お前だけで食べてていい」  家を出る前、弁当を差し出してきた凪にそう言うと、凪はぴくりと固まった。嵐が弁当を受け取ると、ようやく凪が動き出す。 「わかりました」  そして、か細い声でそう言った。  仕事の後、嵐は車で予約していた会場に向かう。都心にある、格式高いホテルの日本料亭。婚約者の明日香との、両家顔合わせの日だった。両親は先に来ていて、丁度ホテルのロビーで鉢合わせる。やがて明日香が来て、それから明日香の両親が到着した。  お互い挨拶をして、仕事の話をしながら料理を楽しむ。この食器は有田焼だ。そして卓と同じ漆の沈金(ちんきん)が施されている吸い物の椀が目に入る。……センスがいい。どれも一流の食器が、この空間、料理と調和している。料理の味も申し分ない。  吸い物の椀を開ける。ふわりとした出汁の香りに、家の台所を思い出す。そこにゆっくり鍋をかき混ぜる手、少し猫背気味の、細い背中が追加される。  凪は、夕食をちゃんと食べただろうか。 「ねえ」  ふと、向かいに座った明日香に呼ばれる。明日香は装飾の控えめなネイビーのワンピースに、パールのネックレスを付けていた。いつも緩く巻いていた髪が、今日はストレートになっている。 「今、仕事のこと考えてたでしょ」 「……ああ、まあな」  そう返すと、明日香が笑った。笑うと張りのある頬が持ち上がり、目が綺麗なアーチ状になる。リップの塗られた艶のある唇が美しく弧を描き、見る人を惹きつける。そんな笑顔だった。 「明日香が以前、早生田の学祭で嵐さんを見かけたことがあるって、教えてくれまして。それから、うちの立食パーティーに黒川さんをご招待したでしょう? その時に嵐さんをまた見かけたそうで、しっかりした、真面目な人だったって明日香が話してくれたんですのよ」 「まあ、そうだったんですか」 「ちょっとお母さん、恥ずかしいわよ、もう」  そうして明日香は母親の訪問着の袖をぎゅっと掴み、少し拗ねたような顔をする。 「嵐は昔から真面目すぎるくらい真面目で、学生の頃もサークルより図書館ばかりでしたのよ」 「ふふ、それ、なんとなく想像できます」  母の言葉に、明日香が笑う。嵐は苦笑を浮かべた。ふと、明日香の父が嵐を見て言う。 「娘は、昔から人を見る目だけはあると思っています」  そう言うと、今度は「お父さん」と明日香の声が飛ぶ。両親も、全員が柔らかく笑っていた。  会食は恙無(つつがな)く進んでいく。 「御社は今期、海外展開も順調だとか」 「いえ、まだ足場固めの段階です。御社のような規模には到底及びません」 「なにをおっしゃる。ご子息も御社で主任を務めておられるとか。優秀な方と伺っています」 「まだまだ修行中です。そちらのお兄様も今、現場でホテルの経営を学んでおられると聞きました。立派なことです」  明日香の父に言われて、嵐の父がそう返す。母親同士もお互い打ち解けた様子だった。 「御社の広報、明日香さんが担当されているんですって? 息子が教えてくれたのですけれど、写真のセンスがとても素敵ですわね」 「まあ、嬉しいわ。今はなんでもSNSの時代でしょう? 私は疎いのだけど、この子が助けてくれて」 「素敵ですわねぇ。今度のビュッフェの企画も明日香さんが考案したと聞きましてよ」 「ええ、この子が中心になって考えたのですけれど、二番目の兄が今パリで料理の修行をしていましてね。相談しながら決めたそうなんです」 「パリで修行なんて素晴らしいですわね。いつかお料理をいただけるのを楽しみにしています」 「ええ、ぜひ」  そんなことを話している。居心地が良いのか悪いのか、なんとも言えないむず痒さに、嵐は正座した足を少し崩したくなった。  別れ際、お互いの両親は先に帰る。両親を見送ったあと、隣に立った明日香が手を繋いでくる。 「ねえ、ドライブしましょ」  明日香が嵐の車の助手席に乗る。ジョーマローンの香水がふわりと香る。シートベルトをした明日香が、嵐の顔を覗き込む。 「今日は楽しかった?」 「ああ」  嵐はそう頷く。少し素っ気ない返事になったが、明日香は気にしていない様子だった。 「そうだ、どこかで飲み直さない? 久しぶりに二人きりでゆっくりできる機会なんだし。友達が教えてくれた、おすすめのバーがあるの」 「……明日は、仕事が早い」  そう言うと、明日香は静かな口調で、小さく「あらそう」と言った。 「なら、二軒目はやめておいた方が良さそうね。またの機会に飲みましょ」  明日香の提案に、嵐はそうだな、と首肯した。 「よければ、きみのマンションまで送っていこう」 「玄関までエスコートしてくれる?」 「もちろんだ」  彼女のマンションは都心の一等地にある。一人暮らしではあるが、たまに家事代行が来て掃除や料理をしている。マンションに入ると、コンシェルジュの一礼を受ける。明日香は嵐の腕に自分の腕を絡ませながら歩く。少し歩きにくいと思いつつ、嵐は彼女をエスコートする。  明日香の部屋がある階まで上がる。明日香が鍵を開け、それから中に入る。 「じゃあ、俺はここで」  そう言うと、コートを脱いだ明日香が振り返る。 「本当に帰るの? 一応、ワインもおつまみもあるわよ。明日は仕事も空けてるし」 「すまない。気持ちだけ受け取っておく」 「そう。相変わらず真面目ね」  去り際、明日香がキスをする。嵐の背中に腕を回し、強く、けれど静かに抱き締める。唇が表面で軽く触れるだけで、追従はない。それが精一杯の明日香の誘いだと、嵐はわかっていた。けれど身体は応えられなかった。  やがて彼女は静かに唇を離し、そしてひっそりとした微笑を浮かべた。 「来月、見学の予約入れておく?」 「……また連絡する」 「そう。なら待ってるわ。体に気を付けて、お仕事頑張ってね。おやすみ」  明日香がバイバイ、と手を振る。 「ありがとう。……きみも、おやすみ」  そして嵐は帰宅する。  玄関の鍵を開けて中に入ると、ぱっと電気がついた。凪がいて、出迎えてくれる。少し目をしぱしぱさせているのを見て、靴を脱いだ嵐は顔を上げた。 「悪い、起こしたか」 「いえ。起きてました」 「……そうか」  コートを脱ぎ、玄関まで迎えにきた凪に預ける。一瞬、上品な香水の匂いがする。あ、と嵐が思ったと同時に凪の手が止まった。気付いたかもしれない。嵐は不安になる。けれどなぜ、不安になる? 「今日は、どうでしたか」  少しの間を置いて、凪が問い掛けてきた。いつも通りの、平坦な声。 「ああ。……両親との顔合わせの食事会だった。問題ない」  嵐はなんでもないようにそう答えて、ネクタイをほどく。 「そうですか」  凪もただ、静かな声でそう答える。いつものようなやり取り。  なにも、変わっていない。だのに思考が乱れる。 「お風呂、できてます。……お着替えも出してます」 「ああ、なら入るか」  凪がコートを掛けて、鞄を部屋まで持っていってくれる。嵐はそれを見送って、それからバスルームへと向かった。風呂に入れば、多少は思考がすっきりすると思った。けれど考えてもわからなかった。  風呂から上がって髪を乾かし、リビングに戻ると凪が眠っていた。ソファの端の方で背中を丸めて、膝を軽く抱えるようにして縮こまっている。嵐は足音を立てないようにして近付く。表情がいつもより幼く見える。起きているか、気になったが確認するのはやめた。  代わりに、収納してあった凪の毛布を出してそっとかけてやる。そのまま手が髪へと伸びる。頬にかかった髪を払ってやろうと思い手を伸ばしかける。手が近付いた瞬間、凪の呼吸が揺れて、睫毛が震えた。 「……っ」  結局、少しだけ毛布の位置を直して、嵐はリビングの電気を消した。

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