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2.正しさ②

 その日、嵐は仕事を早く切り上げて帰るところだった。  次の取引で使う家具と食器類を現地で確認した嵐は、会社に戻ってもよかったが早めに上がることにした。  早めに家に帰って、凪とスーパーに買い物に行こうかと嵐は考える。ついでに、一緒に夕食でも作るか。二人でやれば効率がいいし、車があれば、米や洗剤などの重いものも楽に運べる。それか、夕食にでも凪を誘うか? 最近、凪の食が細いのが気になる。体調を崩されたら面倒だ。……あの食事量で、本当に足りているのだろうか。  そういえば、凪は嵐のリクエストに応えてくれるばかりで、凪が自分の好きな物を作ることはない。  だが先日は、かぼちゃのそぼろ煮は残さず食べていた。肉じゃがの時は、箸の進みが少し早かった。煮付けや肉が好きなら、角煮やビーフシチューもいい。家に来たばかりの時も、からあげ弁当をじっと見ていた。半分だけ食べた次の日、帰ってきた時には弁当が空になっていたのを見てほっとしたのを覚えている。肉を付けさせるなら、肉を食べるのが適している。  逆にオクラの白だし和えや納豆は、最後に食べることが多かった。……もしかしたら、凪はねばねば系が好きではないのかもしれない。  それからレストランに行った時、デザートに出たいちごのムースを、じっと見ていたのを思い出す。スプーンでそっとすくってゆっくりと運び、口に入れた瞬間、ほんの少し頬が緩んでいた。甘いものが好きなら、たまには買ってやるか。成績のいい部下には、それなりの報酬を渡すのが社会の礼儀だ。  嵐はふっと息を零しながら、ハンドルを握り直す。  ――その時だった。  繁華街の端に、凪に似た面差しを見つけた。 「……ん?」  嵐は急ブレーキを踏みそうになって、路肩に駐車する。  先程見えた光景を、再び頭の中でなぞる。  今のは、なんだ。  少しくたびれた笑顔と、その隣に男がいた。肩に手を回して、仲良く連れ添って歩いているように見えた。見間違いだと思った。けれどあの服は、あの首輪は、嵐が買ったものによく似ていた。  車を降り、嵐は凪に似た姿を追いかける。見つけて、別人だと安堵したかった。けれど、少し前、凪が香水の匂いをつけていたことを思い出す。首輪の下に、赤く鬱血したような痕があったことも。――あれは、虫刺されじゃないのか。  路地に入る。入ってから、ラブホテルが連なる路地だと言うことに気付いた嵐は頭がくらくらしそうになった。夕方頃、それほど強くない冬の日差しの中、凪と男の後ろ姿を見付けた。少し猫背気味の背中は、キッチンでよく見る背中だった。似た人じゃない。凪本人だった。  見間違いだと思いたかった。だが、あの背中を見間違えるはずがない。  見ていると、男は凪の肩に手を回した手をそのまま腰へと持ってくる。そして、さらにその下へ。凪の小さい尻を、男が無遠慮に撫で回す。凪は抵抗しない。 「……っ」  喉が引き攣る。声が出ない。克明に映るその光景が、嵐の目にやけにゆっくりと映る。  やがて二人はしばらくホテルの前で立ち止まる。睫毛の長さや鼻の小ささがよくわかる、凪の横顔が見える。そして男が入口を指差す。凪が小さく頷く。いつもみたいに、控えめな動きで。  二人が建物の中に入ろうとしたのを見て、嵐はようやく走り出した。追いかけて、追いついた嵐は二人のあいだに割って入り、それから男と凪の手首を咄嗟に掴んだ。 「手を離せ」 「は? あんた誰? いてぇんだけど!」  男は突然現れた嵐にしどろもどろになりながらそう言う。嵐は低い声のまま、男に迫った。 「この子は帰る」 「は? なんだよ! 俺まだなにもしてねぇぞ!」 「触るな。……金は」 「……っ、まだ払ってねぇけど……」 「なら、失せろ」  男は嵐の腕を振り払い、悪態をつきながら去っていった。  走ってきた嵐は肩で息をしながら、ゆっくりと凪に向き直る。凪は無表情のまま、俯いている。さっきの営業スマイルみたいな屈託した笑顔はない。嵐はようやく凪の手首を離す。 「……なにをしている」  息を整えた嵐がようやくそう言うと、凪は無言のまま、びくりと肩を震わせる。表情は前髪に隠れてよく見えない。 「ここで、なにを売るつもりだった」  眉間に力が入る。凪は答えない。 「俺は……っ」  俺は、こいつのなんだ。  言いかけて、なにを言おうとしていたのか、自分でも分からなくて言葉に詰まる。なぜ凪がここにいる。服も、食事も与えているはずだった。なにが足りない。  嵐は凪の肩を掴む。骨ばった、痩せた肩。指が震えそうになる。凪は一瞬嵐を見て、すぐに視線を逸らした。  やがて嵐は小さく息をつく。その時、通りがかったカップルと目が合う。通行人が凪と嵐をちらちらと見ている。ホテル街の真ん中にいるという事実と好奇の目に晒されていることに気付いた嵐は、凪の肩から手を離す。 「……っ。帰るぞ、凪」  そして嵐は停めてある車に向かって歩き出した。足音が聞こえてこなくて、嵐は振り向く。凪はしばらく立ち尽くしたまま、嵐を見ていた。  しばらくして、凪がようやく歩き出す。  凪が後部座席に座る。俯いた目元に髪が掛かっている。表情はよく見えない。握り締めた手が震えている。嵐も無言のままだった。エンジン音だけが、やけに大きく聞こえていた。  嵐はアクセルを踏む。バックミラー越しに凪を見る。  凪は一度も顔を上げなかった。  家についても、凪はしばらく無言だった。  コートを脱ぎ、自分でクローゼットに掛ける。ネクタイをほどいて、それから嵐は背中越しに凪に言う。 「座れ」  凪は大人しく床に座る。 「そこじゃない。ちゃんと、ソファに座れ」  そう言うと、凪は「すみません」と小さく口にして、ふらつきながらもソファに座り直す。嵐も隣に座る。  帰るまでの道のりのあいだ、頭の中で考えていたことを凪にぶつける。 「こっちを見ろ、凪」  凪の顔を見る。俯いてばかりで、正面からはあまりちゃんと見たことのない顔。小さい鼻と薄い唇。少し顔色が悪いように見える。 「あそこでなにをしていた」  凪は視線を逸らす。唇が震えている。 「金が、いるのか」  しばらくの間。そこで、凪はわずかに顎を動かして頷いた。 「……なら、俺に言え。なにに必要なんだ」  凪が息を吐く音が聞こえた。唇の隙間から空気が漏れ出るような、そんな息遣いだった。しばらく待っては見るが具体的な回答は得られないままの状況に、嵐はまたため息を吐きそうになる。 「……あの、これ」  ふと、今までだんまりだった凪がポケットから皺になった茶封筒を取り出した。俯いたまま目も合わせず、両手で差し出されたそれに、嵐は視線を寄せる。 「なんだ、これは」 「ご迷惑、お掛けしてしまったので……」  それがなにか理解した瞬間、頭の奥がかっと熱くなった。息が詰まる。手に取らなくても薄さのわかる、それ。薄い封筒の向こうに、千円札が透けて見える。あと何枚かは入っているのはわかるが、鼻で笑えるほどの額だった。 「そんな額で……」  一体何人に、どんな顔で触らせた。凪の白い首筋についていた赤い痕を思い出す。拳を握りながら思わず小さく零すと、凪が顔を上げる。 「……足りませんか」  小さくて掠れた凪の声に、嵐は奥歯を噛み締める。拳を握る手が震えた。肺の中の空気の塊が、一気に押し出される。 「そんな端金で帳尻が合うと思うな。……自分を安く見るな」  そう言うと、凪が息を呑む。それから細い手がゆっくりと降りていく。泣きそうなのを堪えている、潤んだ瞳が目に入る。嵐が凪の肩に手を置くと、凪の肩が震えた。 「とにかく、危ないことはもうするな」 「……はい」  凪は小さく頷いた。それきり部屋は沈黙する。やがて凪が切り出す。 「あの、夕飯、食べますか。お味噌汁、すぐ作ります」  そう言って凪はソファから立ち上がろうとしたが、すぐによろめいた。ソファにへたり込んだ凪に手を伸ばしかけて、嵐は言う。 「いい。今日は俺がやる」 「……っ、でも、大丈夫です」  キッチンに立とうとすると、凪に先を越される。嵐の見ている前で、凪は食事の準備を始める。包丁を持つ手が震えている。あの手で、とつい思ってしまう。どこか見ていないと落ち着かなくて、嵐はしばらく凪の細い背中を見つめていた。  夕食は、味はいつも通りだった。けれど食卓は静かで、箸の音だけが聞こえてくる。  嵐はいつも通り、残さずに食べる。「ご馳走様」と言って、凪を見る。凪が嵐と自分の食器を下げる。凪はほとんど食べていなかった。まったく口を付けなかった味噌汁を、凪が鍋に戻している。嵐はそれに気付いて、結局、なにも言わないままだった。  風呂に入って、着替えた嵐は自室に戻る。凪も一通り明日の弁当の仕込みが終わったのか、部屋の隅でじっとしている。嵐が視線をやると、凪も目線を返す。  どこか怯えた目。けれどなにか命令を待っている。  怒られないか、恐れている。  嵐はそのまま凪の前を素通りして、自室に入った。ベッドに腰を下ろし、電気を消す。目を閉じる。けれど意識は落ちない。今日の光景が、焼き付いている。  そこで嵐はベッドから起き上がり、ドアに向かう。開けようか少し迷ったのち、嵐はドアノブを回した。  リビングに戻ると、まだ明かりがついていた。凪はソファの端に座っている。部屋から出てきた嵐に気付いて一瞬視線を寄越すが、それきり目を伏せる。 「……おやすみ」  凪に対して、そんな家族みたいな言葉を口にしたのは初めてだった。  気付いた凪が顔を上げる。一瞬、理解できない顔をする。それから小さく「……おやすみなさい」と返す。声が少し掠れていた。  ただそれだけを言って、嵐は部屋に戻る。ベッドに横になる。  目を閉じると、ようやく意識が暗闇に溶けて行く。

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