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正しさ│空白の電話帳

 次の日の朝、起きた嵐がリビングに出ると、朝食を用意していた凪の手が一瞬止まった。しばらくすると、凪が振り返る。視線に気付いた嵐が目を向けると、聞こえるかどうかの声量で「あの……」というのが聞こえる。 「なんだ」 「お……おはよう、ございます……」  尻すぼみではあったが、凪はたしかにそう言った。  ネクタイを結んでいた嵐の手が止まる。 「……ああ。おはよう」  俯きかけた凪がはっと顔を上げて、嵐を見つめる。  朝の光が柔らかく降り注いでいて、味噌汁の匂いが優しく漂っていた。  凪はほんの少し唇を噛んで、それから静かに背中を向ける。そして再びねぎを刻み始めた。 「あの、これ」  その日の夕食のあとで、嵐は凪に買ってきたものを机に置いた。四角い形をした箱を出すと、凪は嵐と箱を何度も交互に見る。  ケースを開け、さらに中から本命を取り出す。国内大手の、ミドルレンジのスマートフォン。防水、防塵、指紋認証が付いている。画面はそこそこ大きいが、重すぎない、凪の手に収まるサイズにした。初期設定は終わっている。  自分のアカウントを入れておくか迷ったが、結局なにも設定しなかった。 「お前が使え」  既にショップでフィルムを貼ってもらっていた端末を衝撃吸収タイプのケースに入れ、充電ケーブル一式も取り出して丸ごと凪に渡す。便利だろうと、首から下げられるネックストラップも買っておいた。  しかし凪はぶるぶると首を振る。 「こんなにいいの、いらないです」  嵐は一瞬視線を外す。 「……俺が前に使っていた機種だ」 「えっ」  そう言うと、凪は戸惑いはしていたが、不安そうな顔は少し和らいだ。  ネックストラップをスマホにつけて、凪の首から下げさせる。凪は一瞬ぎゅっと目を瞑って身を硬くしたが、嵐のされるがままに大人しくしていた。 「連絡が取れないのは困る。もし遠出する時や、変わったことがあったら言え」  凪の首から下がっているスマホの画面を見せて、嵐はそう言う。  これで、把握できる。……ああいう状況を、もう見逃すつもりはなかった。 「電話のかけ方はわかるな」  念の為聞いてみる。 「電話……」  凪はどうしたらいいかわからないらしい。電源ボタンを探す凪の後ろに周り込み、スマホのロックを解いて、電話帳を開く。一件、情報が出てきた画面を凪に見せる。 「これが俺の名前だ。なにかあったらここを押して、俺を呼べ。SMSもここから送れる」 「……っ、わかりました」  一瞬凪が固唾を飲む。その様子になにか変なことでもしたかと思ったが、いつもより距離が近いことに気が付いた嵐は静かに距離を取った。咄嗟に咳払いをして、ふと自分のスマホを取り出して言う。 「俺の方にもお前の番号を登録しておく。……お前の字は、これでいいのか?」 「は、はい」  嵐は自分のスマホの画面を見せながら、凪の電話番号を自分の電話帳に登録していく。  誕生日を欄に視線が移った時、嵐の指が止まる。  ――正確な日は、わからなくて。  そう、過去に凪の言った言葉が再生される。自分の誕生日を知らない人間を、嵐は見たことがなかった。  いつか、わかるようになるのだろうか。  わからなくても、自分には関係のない話だ。  なのになぜか、知りたいと思う。  会社の住所やメールアドレスなども入れてある自分の情報とは対照的に、凪の電話帳は随分すっきりしていた。空白のまま、嵐は登録ボタンを押す。  凪は恐る恐るスマホを触っている。天気予報を見たり、ニュースを見ている。その目が少し、レストランでデザートを食べた時と似ている気がした。  それを見ていた嵐は頷いて、それから風呂に向かうことにした。  翌朝。嵐が起きてリビングに出ると、凪はすでに起きていた。だが、いつもと違う。テーブルの端に、スマホが置いてある。画面が点いている。  嵐が近付くと、凪が顔を上げる。 「……おはようございます」 「ああ」  嵐はスマホに目をやる。画面には、送信済みのメッセージが一件だけ表示されていた。 『おはようございます』  送信先は、嵐。  嵐は一度だけ瞬きをして、それから自分のスマホを取り出す。通知を開く。たしかに同じ文面が届いている。  数秒、そのまま画面を見たあと、嵐は短く入力する。 『確認した』  送信する。凪のスマホが小さく震える。凪がそれを見に来て、ほんの少しだけ目を見開いた。すぐに視線を落とす。凪はSMSの画面をそっと指でなぞって、それからまた持ち場に戻った。  嵐はコーヒーを淹れる。湯気が立ち上る。凪はその隣で、いつも通り味噌汁の火をつけた。  なにも変わっていない。  だが、なにかが確実に増えていた。

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