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2.正しさ③

 その晩、嵐は何度か目を覚ました。  眠りが浅い。時計を見る気にもならず、ただ天井を見ていた。瞼を閉じても、すぐに意識が浮かび上がる。仕事の疲れのせいかと思ったが、違うと脳が告げていた。  夢を、見ていた。  内容ははっきりしない。ただ断片だけが残っている。ネオンでやたらと眩しい通りに、人気のない路地。見慣れない男と、もう一人、ほっそりした男が並んで立っている。  会話の内容は聞こえない。ただ、紙幣を数える指先だけがやけに鮮明だった。  華奢な方の男が笑っていた。作り物みたいな、薄い笑い方。  嵐はその光景を、少し離れた場所から見ていた。  見ているだけだった。  近付く理由が見つからない。関係がない。そう判断して、その場を通り過ぎようとする。  けれど、足が止まる。  なぜ止まったのかはわからない。ただ、その場から視線を外せなかった。  やがて、男が手を伸ばす。華奢な肩に触れて、そのまま腰へ。さらに下へ。 「あっ……」  聞いたことのない甘い響きが聞こえて、嵐はそこでようやく動いた。  動く必要はないはずだった。  頭ではそう理解しているのに、体が先に反応していた。腕を掴んで、無理やり引き剥がす。なにかを言った気がするが、言葉は思い出せない。  ただ、相手の手を離させたことだけは覚えていた。  その瞬間、目が覚めた。 「……!」  声が出ない。  静かな部屋だった。時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえる。  嵐はしばらく天井を見て、それからゆっくりと息を吐いた。  夢だ。そう、頭の中で整理する。  内容は曖昧だし、意味もない。なぜあんな夢を見たのか、考えるがわからない。昼間見た光景が、混ざっただけだろう。  そう結論付けて、嵐は目を閉じる。  けれど、さっき掴んだはずの手の感触だけが、妙に残っていた。  冷たくて、細くて、力を込めれば簡単に折れそうな、あの感触。  嵐は一度だけ眉を寄せて、それから考えるのをやめた。考えたところで、なんの意味がある。  そう切り捨てて、今度こそ眠りに落ちた。  次の日の朝、起きた嵐がリビングに出ると、朝食を用意していた凪の手が一瞬止まった。しばらくすると、凪が振り返る。視線に気付いた嵐が目を向けると、聞こえるかどうかの声量で「あの……」というのが聞こえる。 「なんだ」 「お……おはよう、ございます……」  尻すぼみではあったが、凪は確かにそう言った。  ネクタイを結んでいた嵐の手が止まる。 「……ああ。おはよう」  俯きかけた凪がはっと顔を上げて、嵐を見つめる。  朝の光が柔らかく降り注いでいて、味噌汁の匂いが優しく漂っていた。  凪はほんの少し唇を噛んで、それから静かに背中を向ける。そして再びねぎを刻み始めた。 「あの、これ」  その日の夕食のあとで、嵐は凪に買ってきたものを机に置いた。四角い形をした箱を出すと、凪は嵐と箱を何度も交互に見る。  ケースを開け、さらに中から本命を取り出す。国内大手の、ミドルレンジのスマートフォン。防水、防塵、指紋認証が付いている。画面はそこそこ大きいが、重すぎない、凪の手に収まるサイズにした。初期設定は終わっている。  自分のアカウントを入れておくか迷ったが、結局なにも設定しなかった。 「お前が使え」  既にショップでフィルムを貼ってもらっていた端末を衝撃吸収タイプのケースに入れ、充電ケーブル一式も取り出して丸ごと凪に渡す。便利だろうと、首から下げられるネックストラップも買っておいた。  しかし凪はぶるぶると首を振る。 「こんなにいいの、いらないです」  嵐は一瞬視線を外す。 「……俺が前に使っていた機種だ」 「えっ」  そう言うと、凪は戸惑いはしていたが、不安そうな顔は少し和らいだ。  ネックストラップをスマホにつけて、凪の首から下げさせる。凪は一瞬ぎゅっと目を瞑って身を硬くしたが、嵐のされるがままに大人しくしていた。 「連絡が取れないのは困る。もし遠出する時や、変わったことがあったら言え」  凪の首から下がっているスマホの画面を見せて、嵐はそう言う。  これで、把握できる。……ああいう状況を、もう見逃すつもりはなかった。 「電話のかけ方はわかるな」  念の為聞いてみる。 「電話……」  凪はどうしたらいいかわからないらしい。電源ボタンを探す凪の後ろに周り込み、スマホのロックを解いて、電話帳を開く。一件、情報が出てきた画面を凪に見せる。 「これが俺の名前だ。なにかあったらここを押して、俺を呼べ。SMSもここから送れる」 「……っ、わかりました」  一瞬凪が固唾を飲む。その様子になにか変なことでもしたかと思ったが、いつもより距離が近いことに気が付いた嵐は静かに距離を取った。咄嗟に咳払いをして、ふと自分のスマホを取り出して言う。 「俺の方にもお前の番号を登録しておく。……お前の字は、これでいいのか?」 「は、はい」  嵐は自分のスマホの画面を見せながら、凪の電話番号を自分の電話帳に登録していく。  誕生日を欄に視線が移った時、嵐の指が止まる。  ――正確な日は、わからなくて。  そう、過去に凪の言った言葉が再生される。自分の誕生日を知らない人間を、嵐は見たことがなかった。  いつか、わかるようになるのだろうか。  わからなくても、自分には関係のない話だ。  なのになぜか、知りたいと思う。  会社の住所やメールアドレスなども入れてある自分の情報とは対照的に、凪の電話帳は随分すっきりしていた。空白のまま、嵐は登録ボタンを押す。  凪は恐る恐るスマホを触っている。天気予報を見たり、ニュースを見ている。その目が少し、レストランでデザートを食べた時と似ている気がした。  それを見ていた嵐は頷いて、それから風呂に向かうことにした。  風呂から上がると、リビングの明かりは落ちていた。キッチンの手元灯だけがついている。凪はテーブルに向かって、さっきのスマートフォンを両手で持っていた。画面の光が顔に当たっている。  嵐に気付くと、凪は慌てて画面を伏せる。 「……見てただけです。すみません」  嵐は瞬きする。 「別に、謝る必要はない」  そう言って、嵐は冷蔵庫から水を取り出す。キャップを開けて一口飲む。視線だけで凪の手元を見る。指の動きは、まだぎこちない。 「触って覚えろ。壊れても困らない」 「……はい」  凪は小さく頷く。それから、また画面に視線を落とす。今度はすぐに伏せなかった。  しばらくして、嵐はテーブルにスマホを置いた凪を見た。 「……電話、試してみろ」 「え?」 「今、ここで」  凪の肩が強張る。けれど、逃げる様子はない。嵐は自分のスマホをテーブルに置いたまま、ソファに座る。  数秒。凪は画面を見て、それから恐る恐る指を動かす。  呼び出し音が鳴る。すぐ目の前で鳴っているのに、凪はびくりと肩を震わせた。少し遅れて、嵐のスマホが震える。そのまま通話ボタンを押し、耳に当てる。 「……黒川だ」 「あ、あの……」  凪が言葉に詰まって、嵐を見る。通話越しでも、呼吸の乱れがわかる。 「用件を言え」 「えっと……」  凪は一度口を閉じて、それから小さく息を吸った。 「……ちゃんと、繋がりました」  嵐は一瞬だけ目を細める。 「そうか」  それだけ返して、通話を切った。  凪はスマホを胸の前で握ったまま、しばらく動かなかった。やがてゆっくりと顔を上げる。不安と、少しの興奮が混じっているような気がした。 「……これで、いいんですか」 「いい」  そう短く答える。凪は小さく頷いた。それから、ネックストラップに指をかける。首元に触れた瞬間、わずかに肩が強張った。嵐はそれを見て、視線を外す。 「……寝るぞ」 「はい」  リビングの電気を消す。凪はいつも通りソファに横になる。毛布を自分で引き寄せる動きが、少しだけ速くなっていた。  翌朝。嵐が起きてリビングに出ると、凪はすでに起きていた。だが、いつもと違う。テーブルの端に、スマホが置いてある。画面が点いている。  嵐が近付くと、凪が顔を上げる。 「……おはようございます」 「ああ」  嵐はスマホに目をやる。画面には、送信済みのメッセージが一件だけ表示されていた。 『おはようございます』  送信先は、嵐。  嵐は一度だけ瞬きをして、それから自分のスマホを取り出す。通知を開く。確かに同じ文面が届いている。  数秒、そのまま画面を見たあと、嵐は短く入力する。 『確認した』  送信する。凪のスマホが小さく震える。凪がそれを見に来て、ほんの少しだけ目を見開いた。すぐに視線を落とす。凪はSMSの画面をそっと指でなぞって、それからまた持ち場に戻った。  嵐はコーヒーを淹れる。湯気が立ち上る。凪はその隣で、いつも通り味噌汁の火をつけた。  なにも変わっていない。  だが、なにかが確実に増えていた。

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