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エピローグ

 目が覚めた時、最初に視界に入ったのは白い天井だった。まだ新しい家の匂いが少しだけ残っている。  凪が選んだ白いカーテンの隙間から朝日が差し込み、大きなベッドを淡く照らしていた。  嵐と凪と、それから風香は、少し前に引っ越した。  以前のマンションより広い部屋だった。二階建ての、庭付きの家。大きくなった風香が走り回れるようにと、嵐と一緒に内見に行き、二人で選んだ。  近くには公園があった。休日になると風香を連れて散歩へ行くのが、最近の日課だった。  今日は、高卒認定試験の日だった。  そのことを思い出した瞬間、胃の奥が少しだけ重くなる。 「……」  小さく息を吐いて隣を見る。嵐はまだ眠っていた。その向こうでは、風香もベビーベッドの中で静かな寝息を立てている。そばではペンギンのぬいぐるみが、風香を見守っていた。  凪は二人じっと見つめた。  少し前まで、自分にこんな朝が来るなんて思ってもいなかった。 「起きたのか」  低い声に、凪は少し驚く。いつの間にか嵐が目を開けていた。 「おはようございます」 「ああ」  短いやり取りだった。けれど、それだけで少し安心する。 「緊張してるのか」  図星だった。凪が頷くと、嵐は手を伸ばして軽く頭を撫でる。 「大丈夫だ」  根拠なんてない言葉だった。それでも、不思議と肩の力が抜けた。 「落ちても死なない」  真顔で続けられて、凪は口を尖らせる。 「そういう問題じゃないです」  けれどすぐに笑って、二人でベッドから下りた。  窓の外では鳥が鳴いていた。  玄関先で、凪は何度も鞄の中を確認する。指先には少し汗が滲んでいた。 「受験票は」  背後から、嵐の声が聞こえる。 「……あります」 「筆記用具は」 「持ちました」 「財布の中は」 「さっき確認しました」  凪が振り返ると、そこにはスーツ姿の嵐が立っていた。休日だというのに、妙にきっちりしている。嵐の腕に抱えられた風香も、よそ行きの服を着てどこか整っていた。 「あう!」  風香が凪を見て声を上げる。凪は少しだけ笑って、その頭を撫でた。 「本当に車で送らなくていいのか」  嵐が眉を寄せる。 「朝なら道も混まない。会場の近くまで――」 「だ、大丈夫です」  凪は慌てて首を振った。 「俺も……そろそろ、電車、ちゃんと乗れるようになりたいので……」  凪はスマホに表示された、高卒認定試験会場までのルートをスクショした画面を嵐に見せる。見せながら、少しだけ緊張する。以前なら、一人で遠くへ行くこと自体が怖かった。人の多い場所も、電車も、全部。由布院に一人で向かえたのは、ほとんど奇跡だった。  嵐はしばらく凪を見つめ、それから小さく息を吐く。 「……わかった」  完全には納得していない顔だった。それでも飲み込んで、凪を送り出すことを決めたように口を引き結ぶ。その時、嵐が再び口を開く。 「凪、時計は?」 「あ。……取ってきます」  気付いて、凪は恥ずかしくなる。すぐに靴を脱いで、寝室に入る。キングサイズのベッドを横目に、凪は小物や絵本が収納されている棚を見る。  棚の上には、水族館の写真、由布院の写真と、風香の写真が並んでいる。眼鏡ケースや指輪のケースが並んでいる中に、凪は自身の時計がないか探す。  ふと見慣れない箱を見つけて、これかと思った凪は慌てて開く。 「あ……」  けれどそこで、凪は息を止めた。 「……これ」  それは首輪だった。表面には細かいひび割れがあって、裁断面が毛羽立ち、金具はくすんでいる。どう見ても使い古されたそれに見覚えのあった凪は、廊下から聞こえてきた足音に顔を上げる。 「どうした。……ああ、これか」  由布院で捨てたはずの首輪を見つけた凪を見て、嵐はわかっていたように頷いた。 「御守りだ。……お前がいらないなら、もう俺のだ」  どうしてか、嵐は、凪のその首輪がどういう意味なのか、わかっているような気がした。自分の手から離れたそれを嵐が持っているのを不思議に思っていると、嵐は優しく笑う。 「そろそろ時間だぞ。……時計なら、ここだ」 「あっ」  嵐はベッドの宮棚に出ていた、凪の腕時計を差し出す。セイコーの、シンプルな革ベルトの時計。いつか嵐と同じラインに立てるようになるまでは、これがいいと思って、凪が自分のバイト代で買った時計だった。 「……ありがとうございます」  それを腕に巻いたあとで、凪は首輪を入っていた箱にしまい、棚の中に戻す。それから凪は再び玄関に向かい、靴を履いた。  靴紐をぎゅっと結んで立ち上がると、嵐に抱っこされた風香がぱたぱたと手を振り始める。 「あー!」  凪は目を瞬かせたあと、小さく笑った。  玄関先に並ぶ二人を見て、凪は微笑む。  帰る場所がある。  待っている人がいる。  凪は鞄を握り直す。その指には、嵐と同じ指輪が光っている。 「いってきます」 「ああ。いってらっしゃい」  その声を受けて一歩外へ踏み出すと、背後から風香の明るい声が追い掛けてきた。 「まー!」  凪は思わず振り返った。 嵐はまだ玄関先に立っている。 風香を抱いたまま、不器用に手を振っていた。  夏の風が、やわらかく吹いていた。

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