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十一、消えない印 ※

 湯船の中で、ほんのり赤く染まった頬に安堵して、銀花(ぎんか)(ゆずりは)を自分の膝の上に座らせる。  長い薄茶色の髪の毛を左肩に垂らすように寄せ、覗いた(うなじ)に浮かんでいる赤紫色の小さな三日月に唇を落とした。触れた瞬間、楪の身体がびくんと揺れた。なにも言わずに触れたせいだろう。  番の印に吸い寄せられるように、銀花は気付けば項を喰んでいた。 「あ······っ」  その瞬間、吐息まじりの声が楪の口から零れた。銀花はそのまま自身の神気を注いでいく。噛み痕がなるべく残らないようにと、優しくしているつもりだったが、八重歯が獣のそれのように尖っている銀花には難しかった。 「ぎ、銀花、さま······わ、たし、」  身体の中に流れてくる、自分のものではない"なにか"の存在に、熱に、楪は身悶える。湯は少しぬるいくらいだったので、それとは別の熱だとすぐにわかった。息づかいが荒くなっていく。心臓がどくどくと身体中に響いているようで。 (あ、つい······このまま溶けてしまいそう······銀花様の身体も、なんだかさっきより······)  胸の辺りまで湯に浸かり、座ったまま後ろから抱きしめられる格好で項を甘噛みされ、ほとんど動けない状態の楪は、背中に感じる銀花の鼓動の速さに顔を赤らめる。熱に絆されだんだんと気が遠くなっていくのを感じながらも、銀花から流れてくる神気がそれを許さない。 「楪······、大丈夫か?」  はあ、はあ、と途切れ途切れに吐き出される少し荒い呼吸に、銀花は顔を上げた。銀花自身も夢中になっていたせいで、楪の状態に気が回っていなかったようだ。  項にくっきりと残る噛み痕は、間違いなく自分が楪に付けたもので。身体に馴染み始めた神気が、肌を通して感じられる。しかしそんな純粋な感動を塗り潰すかのように、銀花は視界に映った光景に目を瞠った。  まるで目合(まぐわ)っているかのように、甘くとろけた表情を見せる楪の姿がそこにはあった。それを目にした途端、銀花はある衝動(・・・・)が抑えられなくなる。 (思っていた以上に······これはくる(・・)な)  このままではまずいと、楪を横にして抱き上げ勢いよく湯から出た。水を吸って重たくなった衣が、思いの外動きを鈍らせる。銀花は足を止め目を閉じ、自身の神気を操り風を起こした。その風は一瞬にしてふたりの衣を乾かし、髪や身体さえも湯船に浸かる前の状態に戻す。 「楪、無理をさせてすまない。今宵はこれで終わりにしよう、」  楪は曖昧な意識の中で、身体が宙に浮いているかのような不安定な感覚だった。銀花の声が耳元で囁いた言葉に、頷くこともできない。 (からだ······、まだ、あつい······項のあたりがじんじんする······このまま······死んでしまう、のかな?)  感じたことのないこの疼きはなんなのか。  触れて欲しい。でも触れて欲しくない。触れられたら、もっとおかしくなってしまいそうで。 「少し横になって休むといい」  部屋に着き、布団の上に楪をゆっくりと下ろすと、頬に指先だけで触れそっと撫でる。外から優しい風が入ってきた。障子が半分だけ開いていたようだ。隙間から覗く庭の灯籠が、薄暗闇の中ぼんやりと光を灯していた。  手をかざして部屋の行燈を消す。部屋はお互いの顔がわかるくらいの暗さになった。銀花は楪の横に自身も横たわると、そのまま細い身体を抱き寄せる。三晩もこんなことを繰り返していたら、どこかで本当に手を出してしまいそうで、銀花は自分の中の抑えられない衝動に目眩がした。 「楪、なにかして欲しいことはあるか?」  せめて、楪が望むことをしてやりたい。きゅっとその身を抱きしめて、なるべく怖がらせないようにと努める。楪はされるがままその身を預ける形で、銀花の腕の中で蹲るように身体を丸めた。 「······銀花様の、お顔が見たいです」  もぞもぞと身動(みじろ)いで、楪は訴えるようにそう言った。どこか震えているその声に応えるように、銀花は腕をゆるめて身体を動かしやすいようにしてやる。楪の色素の薄い瞳が見上げてきた時、銀花は息を飲んだ。  衣の胸元あたりを左手で遠慮がちに掴み、どこか哀しげな様子でこちらをじっと見つめてくる楪。いったいどうしたのだろうか、と困惑する。 「······このまま、眠るのが怖いんです。次に目を開けた時、今日の出来事はぜんぶ夢で、まぼろしで。明日になったら、またあの場所で天井を見上げているんじゃないかって」  ふっと小さな笑みを浮かべ、目を伏せて。楪は自分が馬鹿なことを言っているとじゅうぶんわかっていながらも、不安でしかたなかった。ぬくもりを知ってしまえば、あの部屋は冷たく孤独だったとわかる。たった一日で、灰色のセカイが色とりどりの鮮やかなセカイに変わってしまったのだ。 「それは、俺も困る。この十五年の間、ずっとお前を待っていた。やっとこの手で触れられるのに、夢だったなんてオチは望まない」  頬に触れれば、熱を帯びていて。自分の神気がその身に流れ共有されていると思うと、なんだか感慨深い。山神の番として、ではなく。楪というひとりの存在が銀花の心を満たしていく。 「······楪、夢などではないよ。だから安心してゆっくり眠るといい」  そっと髪を梳くように頭を撫でて、隙間なく抱きしめてやる。やがて寝息が聞こえてきた頃、銀花は楪の首筋の左側に唇を落とし、時間をかけてゆっくりと痕を残す。楪が寝ている間に、同意もなく付けた印。その行為に対して背徳感を感じつつも、心の内はそれとは違う事を知っていた。 (お前は俺の唯一無二の番だ。誰にも渡さない)  執着。  本当は。自分以外の誰かが、楪の身体に指一本でも触れることさえ嫌なのだと、自覚している。  首筋に付けたこの吸い痕は、時間が経てばいつかは消えてしまうだろう。  しかしその内側に刻印された印は簡単には消えない。神狐の刻印。自分のものだという証。なにかあれば、目には見えない守護が楪を守るだろう。 「おやすみ、楪」

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