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三十、好きです

 唇に微かに残る不思議な感触。触れられた指先。優しい声。匂い。(ゆずりは)はぼんやりとした瞳でいつもとは違う天井を見つめていた。 「ここ……は、」  だんだんと記憶が戻ってきて、それから左手のぬくもりに気付いた。視線を向けてみれば、銀花(ぎんか)が自分の手を握りしめたまま寝床に上半身を預けるように眠っていた。 (銀花様の寝顔、はじめて見た気がする……)  さらさらの白銀髪。綺麗な顔。どこか疲れているような……当たり前だ。自分の軽率な行動で銀花に迷惑をかけてしまっただけでなく、穢れまで背負わせてしまった。それなのに自分は番の花嫁としてなんの役目も果たしていない。  銀花を起こさないようにゆっくりと静かに起き上がり、繋がれた左手をじっと見つめる。あの時、銀花が自分にしたこと。唇が重なった感触が今もここに残っている。穢れを移すために行ったことだとわかっていても、楪は薄れゆく意識の中で受け入れていた。 (どうしてあの時、銀花様は謝ったんだろう)  銀花にとって、自分は花嫁として不足なのかもしれない。なにもできないし、なにをしたら銀花が喜んでくれるのかもわからない。  水月(みなづき)にも訊いてみたが、番の花嫁は山神様と交わることで真の番となり、穢れを浄化できるのだという。身も心も、というのはそういうことなのだと楪は学んだ。 (私は銀花様のものなのに、銀花様は私を遠ざけている気がする)  でも今はこうやって傍にいてくれる。 「銀花様……好きです」  大好きです。  いつもたくさん優しくしてくれて、嬉しい。  好き、では駄目なのだろうか。  もっともっと好きになればいいのだろうか。そうしたら、銀花は自分を花嫁として認めてくれるのだろうか。呆れられてもう必要ないと言われてしまったら、どこへ行けばいいのだろう。口付けも交わりもしない。触れられたり抱きしめられることはあっても、それ以上の関係にはならない。 「どうしたら、私は……あなたの求める花嫁になれますか?」  形だけの花嫁。やはり自分が男の身だからだろうか。女性だったら良かったのかもしれない。直接言わないのは、銀花が優しいからだろう。 「………楪? 起きたのか?」  無意識に銀花の髪の毛に触れようとした右手を引っ込め、楪は小さく頷いた。 「銀花様は大丈夫ですか? 私にできることはありますか?」 「いや。なにも問題ない」  握られたままの左手がぴくりと微かに動き、それに気付いたのか銀花の手が離れていく。 「……そういえば、私を助けてくださった幼い姿の神様を銀花様は知っていますか? ちゃんとお礼がしたいんです」 「あれが神の類かどうかは俺はわからないが、黒鴉(くろあ)は知っているようだから、今度一緒に会いに行こう」  はい、と楪は頷いたが、銀花はどこか曇った表情をしていた。 「楪、お前に渡したいものがある」  そう言って立ち上がり、銀花は部屋の奥へと消えていった。楪はひとり寝床の上で銀花が戻って来るのを待つ。  やっぱり怒っているのだろう。しゅんと落ち込む楪の耳に、リンという澄んだ音色が届く。銀花の腕輪の鈴と少しだけ音色が違った。 「これを、」  いつの間にか戻ってきた銀花が、楪の髪に遠慮がちに触れてきた。そのまま少し癖のある長い髪の毛を後ろで纏められ、耳元で再びリンという音色がふたつ響いた。 「またもし迷子になった時に、すぐに見つけられるように」  後ろでひとつに束ねた髪の毛を左肩に垂らし、飾られたものを視界に入れる。そこには青い髪紐とそれにぶら下がった鈴がふたつ、楪の薄茶色の髪の毛を彩っていた。 「あ、えっと……これは、」 「気に入らなかったら常につけていなくてもいい。外に行く時だけ、つけてくれたらそれでいい。俺は耳が良いから音色でお前を捜せる。迷子になったら鳴らしてくれ。どこにいてもすぐにお前を見つけてみせる」  また貰ってしまった。襟巻きをもらったばかりなのに……。思わず首のあたりを触れてみたがあるはずもなく。楪の顔がみるみる青ざめていく。どうした? と銀花が不思議そうに訊ねてくるが、言葉が出るまで時間を要した。 「銀花様からいただいた襟巻き……なくしてしまったみたいです」  泣きそうな顔で俯いて呟いた楪に、銀花は「ああ、それなら」とまたどこかへ行ってしまった。崖から落ちた時に落としてしまったのだろうか。だったらあの辺りに落ちているかもしれない。探しに行きたいと言ったら、銀花は怒るだろうか? 「ちゃんとここにある。そんな顔をしないでくれ」  楪の手の中にそっと置いて、頬から零れ落ちそうな涙を指で拭ってくれた。自分の許に戻ってきた、柔らかくて肌触りの良い襟巻きを胸元に押し付けるように抱きしめる。 「ありがとうございます、大好きです銀花様」 「俺も大好きだよ」  そのまま抱きしめられ、そのぬくもりに絆される。同じようなやり取りを前にもした気がするが、その時とは違った感情が楪の中に芽吹いていた。    離れたくない。ずっと傍にいたい。真の番として、銀花の苦しみを少しでも減らしてあげられたらいいのに····。  幼い子どもをあやすように、銀花の優しい手が背中をさすってくれた。その心地好さに甘えるように、楪はゆっくりと瞼を閉じた。 第三章 穢れ 〜了〜

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