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二十九、守りたいもの

 社に戻っている余裕はない。今すぐにでも(ゆずりは)から穢れを取り除く必要があった。黒鴉(くろあ)が捜していた者が楪になにをしようとしていたのか。大人気ない態度だったと自分でも思う。  その場に膝をつき、楪の身体を起こして抱き寄せる。横向きに自分の膝の上にのせて、肩を持って左腕で支えた。途端、穢れが銀花(ぎんか)をも侵食しようと靄のようにこの場に漂い始める。 「楪、大丈夫だ。俺が必ずお前を守るから」  穢れに蝕まれた肌は黒に侵食されており、それは首より下の部分まで及んでいた。首には銀花がつけた神狐の刻印がある。刻印といっても常に目に見えるものではないが、穢れの侵食を留めてくれているようだ。  しかし靄はやがてふたりを包み込むように纏わりつき、すべてを呑み込もうとより濃くなっていく。 「すまない……少しだけ我慢してくれ」  銀花は楪の顔に近づき、そのまま青白くなっている唇に自分の唇を重ねた。本来、穢れを見つけ宿す際はこんなことはしない。だが内側に入ってしまった穢れを取り除くにはこれ以外の方法はないのだ。 (楪の優しさにつけ込んだか……)  穢れはただの靄ではない。中には邪霊と一体化して知恵を持つモノもいる。死んだ獣に寄生して操りさらに多くの死を齎すこともある。  ひとの中に入って負の念を増幅させ、最悪争いや殺しをするモノも。楪の中にいるモノは、楪が山神の花嫁と知って殺そうとしたのだろう。もしも崖から落ちた後、あのままひとりで雪の中に埋もれていたら。 (……あれは、楪を助けてくれたのか?)  あの時は意識を失っている楪を襲おうとしているように見えたが、冷静に考えてみれば違っていたのかもしれない。だからと言って、あの時の自分の態度を謝る気もなかった。  少しずつ楪の肌が元の色に戻っていく。このように自身の身体に穢れを取り込むのは初めてだったが、なんともいえない感覚だった。楪だから引き受けるが、それ以外に同じことが起きてもこの方法は取らないだろう。 「………ふっ……う………、」  重なり合う唇の隙間から溢れた自分のものではない吐息に、銀花はゆっくりと離れていった。楪の瞼が微かに震えて、それからゆっくりと何度も途中で閉じながら開かれていく。 「楪、遅くなってすまない。穢れは取り除いたが、まだ動かない方がいい」  そっと楪の左頬に触れた。ひんやりと冷たい肌に心が痛んだが、銀花のぬくもりに安心したのか、やがて小さく微笑んだ。 「……声が、聞こえて……」 「声?」 「………はい、子どもの声が、助けて……って」  慈しむような表情で。 「……ひとりで、泣いて……早く見つけてあげなきゃって……間違いで……良かった、です」  ぎゅっと銀花は楪が話し終える前に、その身体を抱きしめていた。それがただのまやかしだとわかった今も、騙されたと嘆くのではなくまやかしで良かったと安堵する楪の姿に、自分の中に渦巻いていた強い怒りや憎しみが自然と消えていく。 「帰ろう、楪。お前が次に目覚めるまで、ずっと傍にいる」  はい、と銀花の胸に顔を埋めて、楪は静かに目を閉じた。銀花は少しでも動かさないように慎重に立ち上がり、外に視線を向ける。  あんなにも吹き荒れていた雪はいつの間にか止んでいて、静かなものだった。そのままの姿で領域へと向かう銀花の表情はどこか苦しげだったが、楪を抱き上げる腕は弱まることはなかった。  自身の部屋に楪を連れ帰り、部屋の奥にある寝台の上に寝かせると、銀花はその場に崩れるように座り込んだ。ぎゅっと心臓のあたりを衣ごと強く握りしめ、苦しそうに前のめりに傾ぐ。 「ぐ……っ……さすがに……無茶をしたか」  銀花は自身を嘲笑うかのように口の端を歪める。山神に代替わりをしてから十五年間。この身に宿し続けた穢れ。  あの初夜の儀式で浄化されるはずだったが、銀花はそれをしなかった。楪に自分の神気を注ぎ、番の花嫁としてその身は銀花のものとなった。  初夜の儀式によって楪の身体は一時的に穢れを浄化できる身となっていたが、銀花はあえて移さなかったのだ。本来は三晩かけて少しずつ神気を注ぐのと同じく、穢れを花嫁に引き受けてもらうのが習わしのようだ。  それをしなかったことによって、銀花の身体はすでに限界に近い。その危うい状態で楪を蝕んでいた執拗な穢れを取り込んだことによって、一歩間違えれば自分自身が呑み込まれてしまってもおかしくなかった。 (俺は、楪を自分の欲で穢したくない。だが、これでは……)  守るどころか危険に晒してしまうかもしれない。それでも、楪には望んでいない交わりを強いることはできなかったのだ。あの笑顔が曇るようなことはしたくない。慕ってくれているその気持ちを裏切ることはできない。  黒鴉が言うように、真の番に花嫁がなる条件は山神と交わること。そこに花嫁の意思は必要ない。過去の花嫁たちは皆そうやって山神の番として役割を果たしてきた。だが、銀花には銀花の考えがあり、銀花にとって楪は唯一無二の大切な存在。 「……お前は、俺を心から愛してくれるだろうか」  青白い顔で眠る楪の左手をそっと握り、寝台に上半身を預けたまま、銀花はゆっくりと瞼を閉じた。

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