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File.2 痴漢と恋

 夕方のラッシュは、いつだって地獄だ。  乗降客数ではさして大きくもない八尾井(やおい)駅だが、帰宅時間ともなれば話が変わる。どこからともなく人が湧き出て、ホームは瞬く間に人で埋め尽くされるのだ。  すし詰めの電車内で、八木沢 司(やぎさわ つかさ)は窓際に押し付けられていた。  若干二十歳の大学生。いまだ少年の線を残した頼りない痩身は、こういう場所では人波に抗えず飲み込まれるばかりだ。 (お願いだから、早く終わってくれ)  司はただひたすら、それだけを念じていた。  握りしめた拳を熱気に曇る窓ガラスに押し付け、きつく目を閉じる。  司の背後にはぴったりと、体格のいい男が張り付いていた。臀部を撫で回される感触に皮膚が粟立ち、噛み締めた唇の隙間から呻きが漏れる。 「ッ、……ぅ」    いっそこのまま声を上げれば済む話だ。  やめてくださいと、それだけ言えばいい。分かっている。分かっているのに、司の唇は張り付いたように固く閉じたまま動かない。  子羊のように身を震わせ、窓の外に意識を向ける。曇ったガラス越しに流れていく景色を見つめ、ひたすら終わりの時を待つ。 (なんでこんなことになってるんだろう……?)  背後にいる男の笑う吐息が、司の耳たぶを湿らせた。  *  片桐 悦也(かたぎり えつや)は一つ年上で、大学のゼミが同じだった。  ガッシリとした体躯に人懐っこい笑顔、性格も明るく、話上手で、三分もあれば誰とでも打ち解けてしまうような、コミュ強の男。  当然ながら男女問わず人気者で、彼は常に人の輪の中心にいた。  そんな悦也が司に声をかけてきたのは、今から半年ほど前のことだった。  ゼミの飲み会でぽつんと隅っこいた司に、「お前なんでそんなとこいんの。こっち来いよ!」と、気さくに話しかけてきた。  司はとにかく驚いた。  まともに友達もおらず、地味で物静かな自分に、人気者の彼が声をかけてくるなんて。  悦也は司を仲間の輪に引き込んで、みんなと話す機会を作ってくれた。  司がどんなに口下手でも、うまく話を拾って広げてくれる。こんな自分にも居場所があるんだと、大学に入ってから初めてそう思えた。  そんな悦也のことを、好きになるのは一瞬だった。  飲み会から少し経った頃、司は一生分の勇気を振り絞って彼に告白をした。  振られるのは覚悟の上だった。悦也はしょっちゅう女の子と遊んでいるようだったし、男に興味がないことは明らかだった。  それでも伝えたいと思ったのは、司のエゴだ。やらない後悔より、やる後悔。振られたあとで、大学に来づらくなったとしても構わない。そのくらい真剣だった。  すると悦也は少し考えてから「いいよ」と言った。  信じられなかった。都合の良い夢でも見ているのかと思った。天にも昇る心地とは、まさにあの瞬間のことだ。幸せすぎて、いっそ怖くもあった。  だけど──。  * 「いやー、今回もスリル満点だったな~!」  改札を抜けて駅から出たところで、悦也が晴れやかな声をあげた。  んー、と伸びをして、すぐ隣を歩く司の耳元に顔を寄せてくる。 「すぐ隣にいたおっさん、気づいてたかもな。ちょっとヒヤッとしたわ」  のんきに笑う悦也の隣で、司はまだ顔色が戻っていなかった。モヤモヤとした吐き気が込み上げ、ぐっと奥歯を噛みしめる。  やがて商店街に差し掛かったところで、司は足を止めた。 「……悦也さん」 「ん?」 「僕、これ以上はもう……」  一歩先で、悦也の足が止まる。勇気を振り絞り、司は続けた。 「こんなこと続けてたら、いつか絶対バレます。誰かに通報されでもしたら──」 「あ?」  低い声だった。  振り返った悦也の顔から、笑みが消えていた。司の肩がびくりと跳ねる。 「なにお前、なんか文句あんの?」 「そ、そういうわけじゃ……」 「お前がオレのこと好きだって言うから、付き合ってやってんだろ?」  悦也はわざとらしく肩をすくめて、司を見下ろした。 「お前がオレに付き合わない道理、なくね?」  とっさに言い返すことができなかった。ただひたすらうつむいて、唇を噛み締めることしかできない。 「あー、なんか冷めそう」  悦也は溜め息をついて、ふと空を見上げた。 「オレたち、もう終わりにすっか」  心臓がぎゅっと縮んだ気がして、司は縋るような目をしながら顔をあげる。 「や、やだ!」  すると悦也はぱっと表情を明るくして、司の肩に腕を回した。 「だよな~! そうだと思った。オレたち愛し合ってるもんな?」 「……うん」 「よし。んじゃ、ホテル行こうぜ。金あるよな?」 「……はい」  二つ返事で頷きながら、司は思う。これは本当に恋人と呼べるのだろうか、と。  薄々、気づいてはいた。悦也にとって、自分は都合がいいだけの存在なのだと。  痴漢プレイなんて特殊性癖に付き合ってくれる女の子なんて、そうそういるはずがない。  だけど司は別だ。気が弱く、NOと言えない都合のいい相手。  仮にバレたとしても、口が達者な悦也のことだ。友人同士のじゃれ合いだとでも言い張って、うまくかわしてしまうのだろう。  分かっていた。  ずっと前から、分かっていた。  なのにズルズルと続けてしまう。悦也に嫌われることの方が、ずっと怖いから。  そこを利用されているのだということも、ちゃんと分かっているのに。  司はうつむいたまま、悦也の隣を歩き続けた。  *  翌日の夕方もまた、司は八尾井駅のホームに立っていた。  時間を指定するメッセージに従って、司はここにいる。結局、どうしても断れなかった。  やがて乗り込んだ車内は、昨日と同じように人で溢れ返っていた。  いつもの窓際に身を寄せた司は、背後の気配に目を閉じる。 (ちょっと我慢すればいいだけなんだ……こんなの、なんでもない……!)  いつからこうなったんだろう──ふと、そんなことを思う。  悦也のことが好きで、気持ちを受け入れてもらえただけで幸せだったはずなのに。  今はただ、この時間が一秒でも早く終わることだけを願っている。 「ッ、……!」  腰と臀部に、ぬるぬると手が這い寄ってきた。  司はぎゅっと肩をすくめて、下唇を噛みしめる。  早く終われ、早く終われ、早く終われ──!  すると次の瞬間、何かが横から割り込んできた。  司の身体が、何者かの力強い腕によってぐっと引き寄せられる。 「──大丈夫ですか」  低い、しかし穏やかで優しげな声だった。 「ぁ、ぇ……?」  歳は司とそう変わらないくらいだろうか。清潔感のある黒髪に、誠実そうな顔立ち。青年の労りに満ちた眼差しが、司に静かに注がれている。 「ごめんな。騒ぎになると思うけど……怖かったら顔を隠してていいから」  彼は小声で囁くと、司の身体を庇うように強く抱きしめた。  その胸に顔を埋めながら、呆然と目を見開くことしかできない。ただひどく、泣きたいような気持ちになった。  背後では悦也が硬直し、息を呑む気配がしていた。  青年はキリッとした眉を吊り上げ、悦也をきつく睨みつける。  そして── 「このひと痴漢です!!」  よく通る青年の声が、車内に響き渡った。  一瞬にして周囲がざわめき、人々の視線が悦也に集まる。 「痴漢だってよ」 「やだ、サイッテー!」  どこからか、女性たちがヒソヒソと囁く声がする。 「なっ!? ち、違う! オレはそんなこと……!」  悦也は真っ青な顔で激しく首を横に振るが、注がれる視線は冷え切っていくばかりだ。  やがて駅に着くなり、悦也は周囲にいた男性たちによって電車から引きずり出された。  青年に肩を支えられ、司もまたホームに降り立つ。 「離せよクソ! 誤解なんだって!!」 「なにが誤解だ! この痴漢野郎め!!」 「大人しくしてろ!! すぐに駅員が来るからな!!」  ホームには人だかりが出来上がり、騒ぎに気づいた駅員がすぐに駆けつけてくる。 「どうしたんですか!? 落ち着いてください!」 「落ち着いてなんかいられるかよ! 冤罪だよ冤罪! オレは無実だ!!」  悦也の血走った目が司を捉え、突き刺すように人差し指を向けてくる。 「こいつだよ! こいつが頼んできたんだ! オレはこいつの変態趣味に付き合ってやってただけで、何も悪くねぇんだ!!」  その言葉は、確実に司の胸を抉った。  適当に言い逃れるをするどころか、悦也は司に非をなすりつけてきたのだ。 「え、そ、そうなの?」  駅員の男が戸惑いの目を向けてくる。  周囲の視線もまた、激しい動揺と共に司に向かって注がれた。  一瞬で空気の流れが変わったことで、悦也の唇にかすかな笑みがのぼる。 「バカなことを言うな!」  すると、青年が厳しい声をあげた。 「こんなに怯えて今にも泣きそうになっている子が、そんな真似するわけないだろ!」  司の肩を抱く青年の手に、力がこもる。司は涙に濡れた瞳を見開き、彼を見上げた。  見ず知らずの青年だけが、この場において自分をまっすぐに信じて庇ってくれている。  信じられないという思いで、胸がジンと痺れるのを感じた。 「ふざけんじゃねぇ!!」  けれど悦也は一歩も引かなかった。 「そいつはとんでもない嘘つきの変態なんだよ! 誰が好き好んで男のケツなんか触るかっての!!」  戸惑いに満ちた人々の視線が、相も変わらず司に注がれる。  好奇と、嫌悪と、同情と。ないまぜになったそれらの中で、司は声も出せずに立ち尽くすばかりだった。  何か言わなければ。否定しなければ。なのに、喉が張り付いて動かない。  ガタガタと震える自分が、ひどく惨めだ。すぅっと心が凍りついていくのを感じた。  ──そうだ、これが自分だ。  ずっと気づいていたのに、目を逸らし続けた。嫌われたくないからと、嫌だと言えなかった。都合よく使われていると分かっていても、好きだからと言い聞かせた。  その結果がこれだ。  公衆の面前で、すべてを悦也に押し付けられている。 (……もう、いいや)  なにもかも、どうでもよくなってしまった。  これ以上騒ぎが大きくなるくらいなら、いっそのこと──。  すべてを諦めかけた、そのとき。 「ちょっと待ったーーッ!!」  遠くから聞こえた声に、人々がどよめきながら一斉に視線を向ける。  ドドドドドドドドドッ!!  そこには煙を上げながら走ってくる人影があった。  両手にそれぞれ巨大なハリセンを持ち、車輪のように高速で回転させながら突進してくる謎のおばさんに、巻き込まれた周囲の人々が「うわあああ!」と吹き飛ばされていく。  まるで某奥州筆頭が如きレッツパーリィな登場の仕方だった。  ところで今の10~20代の若い世代は戦●BAS●RAを知らない子もいるってマジなんか。そら歳も取るでぇ……という余談はさておき── 「腐破(ふはぁ)ーーッ!!」!  おばさんは悦也の前で急停止すると同時に、ハリセンを振りかぶった。 「いっっっってぇ!!!」  悦也の頭に、二刀流のハリセンが同時に炸裂した。  あまりの衝撃と激痛に、地面に転がった悦也がゴロゴロと転がりながら悶絶する。  さらに次の瞬間、おばさんのハリセンは流れるような動きで司にも向かってきた。 「ヒッ──!?」  殺られる……! と思った寸でのところで、青年が司を抱いたままなんとか身をかわす。  ハリセンが華麗に空振りし、おばさんが猫のようにすぅっと目を細めて笑った。 「……あたしのハリセンをかわすとは。坊や、なかなかやるじゃないか」  青年が冷や汗をかきながらも、おばさんを正面から見据えた。 「い、一体なんなんですか!? 急に現れて……っ」 「決まってるだろ? 目を覚まさせてやるためさ」  おばさんはそれだけ言って、地面で頭を抱えている悦也に向き直った。  悦也は血走っていた目に涙を浮かべ、殺意を滲ませながらおばさんを睨みつける。 「こんのクソババア!! なにしやがんだ!?」 「そりゃこっちのセリフだよ!」  おばさんは片方のハリセンをぐるりと回して肩に担ぎ、悦也の前に仁王立ちになった。 「てめぇの欲のために人を道具のように扱って、恥ずかしくないのかい?」 「道具だぁ? こいつがオレのこと好きだって言うから、恋人ごっこに付き合ってやってんだろうが! そんな気色悪い奴をどう扱おうが──」 「レッツパーリィ腐破ーー!!」 「ぶぎゃあ!!!!」  悦也の脳天に再びハリセンが直撃し、彼はぐしゃりと地面に叩きつけられた。 「今cv.野●雅子でレッツパーリィって言った……?」 「え、中●和哉じゃなく……?」  カオスすぎる状況に、周囲を取り囲むギャラリーたちがざわついている。  しかしおばさんはそれらを意に介さず、悦也を冷ややかな視線で見下ろした。 「相手の好意につけ込んで、変態プレイを強要し、逆らったら別れをチラつかせる──ごっこ遊びにしたって、随分とお粗末な恋人ごっこだねぇ」 「んだとてめぇ……」 「アンタみたいなカスがいちばん始末に負えないんだ。自分が悪いなんて、これっぽっちも思ってないんだからね」  そしておばさんは、司にも向き直った。 「アンタも同罪だよ」 「……ッ!」 「気づいてたんだろ。ずっと前からさ」  図星を突かれ、何も言うことができない。  彼女の言うとおりだ。司はずっと気がついていた。自分が欲望の捌け口にされていること。そこには労りも、優しさもなかったこと。  司は悦也のようになりたかった。いつだって人の輪の中心にいる彼が羨ましかった。そんな彼と一緒にいれば、自分もそうなれるような気がして。  いつからかずっと、本当は気づいていたのだ。  そんなただの純粋な憧れを、恋と履き違えていたことにも──。 「自分で自分の価値を下げてどうするんだい。嫌なもんは嫌だって主張することくらい、赤ん坊にだってできることだよ」  胸の奥が、じんわりと熱くなった。 「自分の正直な気持ちを、素直に認めてやることも……ね」  ずっと厳しく張り詰めたようだったおばさんの声が、ふと優しさを帯びたことに、司は唇を噛みしめた。  泣くものか、こんなところで。そう思うのに、目の奥が熱くてたまらなかった。 「黙って聞いてりゃ、好き勝手言いやがってぇ……ッ」  突っ伏していた悦也が、怒りに身を震わせながらノロノロと起き上がる。その瞬間。 「ゴミクズは黙ってな!!」  おばさんのハリセンが三度、唸りを上げた。  スパーンという小気味よい音と共に、悦也の身体が綺麗な放物線を描く。  そして──ちょうどそのタイミングで、ホームに滑り込んできた電車の扉が開いた。 「ぐわぁ~~ッ!?」  スポーン。  派手に吹っ飛んだ悦也の身体が、見事に満員の車内へと吸い込まれていく。 「あらやだ♡いい男がぶっ飛んできたわ~ん♡」 「兄ちゃん、いい身体してんなぁ! なんかスポーツやってんのかい?」 「ウホッ! こりゃあ楽しめそうじゃわい!」  そこはひしめき合う男達♂の巣窟だった。満員の車内はムワッとした熱気に満ちている。 「は? え? ぁちょ、どこ触って……ッ、や、やめ……ッ!?」  悦也はスカウターが爆発しそうなほどの戦闘力を放つ男達♂によって、揉みくちゃにされている。次から次へと腕が伸びてきて、みるみるうちに衣服を剥がされていった。 「あれは……! 年に数回、不定期に運行されるという伝説の宴……男性♂専用痴漢車両じゃないか……!!」  ずっと事の成り行きを見守っていただけの駅員が、突如として説明的なセリフを放った。  いやそんなハッテン車両あってたまるかい……とその場にいた多くの人々が思ったが、誰も彼もがスッ……と伝説の男性♂専用痴漢車両から目を逸らした。 「いぃいやぁぁぁ!! たたたっ、助けてくれえぇ~~!!」  悦也の悲痛な叫びも虚しく、容赦なくプシューッと扉が閉まる。諸行無常……。 『発射……いえ、発車しまぁす』  アナウンスと共に、電車が静かに動き出す。  そして男達♂の夢と希望と吐息を乗せて、やがて電車は見えなくなった。  気がつけば、辺りには祭りのあとのような静けさが戻ってきていた。  駅員や野次馬たちの姿もまばらになっていき、見慣れた駅の風景に戻っていく。  残ったのは司と、青年と、謎のおばさんだけだった。 「あ、あの……」  司は恐る恐る、青年を見上げた。 「助けてくれて、ありがとうございました」  青年は少し驚いたような顔をして、それから思いだしたように司の肩から手を離した。 「い、いや! 俺はただ、当然のことをしただけで……」 「そんなことないです。あなたが声を上げてくれなかったら、今ごろ僕は……」  言葉が途切れた。  すると青年が首を横に振り、意を決したように口を開いた。 「本当は、もっと早く助けられたはずなんだ。俺、ずっと君のこと見てたから」 「え……?」 「見かける度に、いつも具合が悪そうだったから……ずっと気になってたんだ」  青年はこの時間帯の満員電車で、よく司のことを見かけていたのだという。  窓際に身を寄せてうつむいている司のことを、ずっと気にかけていた。人に酔ってしまう体質なのかもしれない──今までは、ずっとそう思っていたのだが。 「今日はたまたま手が届く位置に乗り合わせたんだ。だから気づいた。ずっとあんなのに付き合わされていたなんて……もっと早くに気付けていればよかった。ごめんな」 「ち、違う! 違います! あなたは何も悪くないです!」  今まで薄々気づく人間はいたけれど、みな見て見ぬふりをするばかりだった。  あれほど混み合った車内では確証も持てないし、男が痴漢されているなんて、誰も思わないからだ。  こんなふうに助けるために行動してくれたのは、彼が初めてだった。  何より、ずっと以前から気にかけてくれていた人がいたということに、司は胸が熱くなるのを感じた。  するとどこか辿々しい二人の会話を見守っていたおばさんが、「ふっ」と笑った。 「いい出会いがあったようだね」  振り返ると、おばさんは二本のハリセンをまとめて肩に担いで、背を向けていた。 「その縁、大事にしなよ」 「あ……待ってください! あなたは……?」  司が呼び止めようとしたが、おばさんはヒラヒラと手を振るだけだった。 「名乗るほどのものじゃないが」  夕暮れに染まる駅のホームで、まばらな人波にパーマ頭のシルエットが溶けていく。 「腐ェニックス・蝶子……とでも、覚えておきな」  そうして、おばさんは静かに消えた。  残された二人はその背をいつまでも見送り、しばらくの間ずっと黙っていた。 「……あの」  やがて先に口を開いたのは、青年の方だった。 「もし、よかったら」  青年はぎこちなく、しかし真剣な目で司を見つめた。 「少し、話さないか? 近くに行きつけの喫茶店があって……その、無理にとは言わないけど」  司は男の顔をまじまじと見つめた。キリッとした眉に、誠実そうな瞳。爽やかな黒髪が、夕暮れを弾いて艶めいている。その頬は、緊張した様子で赤くなっていた。  司の頬も、じんわりと熱くなった。どうしようもなく、胸がときめいている。 「……喜んで」  小さくはにかみながら、司はこくんとうなずいた。  すると青年が、どこかホッとしたように微笑みを浮かべる。  どこまでも広がる八尾井町の夕暮れが、今日は一段と、燃えるように赤かった。

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