2 / 2
File.2 痴漢と恋
夕方のラッシュは、いつだって地獄だ。
乗降客数ではさして大きくもない八尾井 駅だが、帰宅時間ともなれば話が変わる。どこからともなく人が湧き出て、ホームは瞬く間に人で埋め尽くされるのだ。
すし詰めの電車内で、八木沢 司 は窓際に押し付けられていた。
若干二十歳の大学生。いまだ少年の線を残した頼りない痩身は、こういう場所では人波に抗えず飲み込まれるばかりだ。
(お願いだから、早く終わってくれ)
司はただひたすら、それだけを念じていた。
握りしめた拳を熱気に曇る窓ガラスに押し付け、きつく目を閉じる。
司の背後にはぴったりと、体格のいい男が張り付いていた。臀部を撫で回される感触に皮膚が粟立ち、噛み締めた唇の隙間から呻きが漏れる。
「ッ、……ぅ」
いっそこのまま声を上げれば済む話だ。
やめてくださいと、それだけ言えばいい。分かっている。分かっているのに、司の唇は張り付いたように固く閉じたまま動かない。
子羊のように身を震わせ、窓の外に意識を向ける。曇ったガラス越しに流れていく景色を見つめ、ひたすら終わりの時を待つ。
(なんでこんなことになってるんだろう……?)
背後にいる男の笑う吐息が、司の耳たぶを湿らせた。
*
片桐 悦也 は一つ年上で、大学のゼミが同じだった。
ガッシリとした体躯に人懐っこい笑顔、性格も明るく、話上手で、三分もあれば誰とでも打ち解けてしまうような、コミュ強の男。
当然ながら男女問わず人気者で、彼は常に人の輪の中心にいた。
そんな悦也が司に声をかけてきたのは、今から半年ほど前のことだった。
ゼミの飲み会でぽつんと隅っこいた司に、「お前なんでそんなとこいんの。こっち来いよ!」と、気さくに話しかけてきた。
司はとにかく驚いた。
まともに友達もおらず、地味で物静かな自分に、人気者の彼が声をかけてくるなんて。
悦也は司を仲間の輪に引き込んで、みんなと話す機会を作ってくれた。
司がどんなに口下手でも、うまく話を拾って広げてくれる。こんな自分にも居場所があるんだと、大学に入ってから初めてそう思えた。
そんな悦也のことを、好きになるのは一瞬だった。
飲み会から少し経った頃、司は一生分の勇気を振り絞って彼に告白をした。
振られるのは覚悟の上だった。悦也はしょっちゅう女の子と遊んでいるようだったし、男に興味がないことは明らかだった。
それでも伝えたいと思ったのは、司のエゴだ。やらない後悔より、やる後悔。振られたあとで、大学に来づらくなったとしても構わない。そのくらい真剣だった。
すると悦也は少し考えてから「いいよ」と言った。
信じられなかった。都合の良い夢でも見ているのかと思った。天にも昇る心地とは、まさにあの瞬間のことだ。幸せすぎて、いっそ怖くもあった。
だけど──。
*
「いやー、今回もスリル満点だったな~!」
改札を抜けて駅から出たところで、悦也が晴れやかな声をあげた。
んー、と伸びをして、すぐ隣を歩く司の耳元に顔を寄せてくる。
「すぐ隣にいたおっさん、気づいてたかもな。ちょっとヒヤッとしたわ」
のんきに笑う悦也の隣で、司はまだ顔色が戻っていなかった。モヤモヤとした吐き気が込み上げ、ぐっと奥歯を噛みしめる。
やがて商店街に差し掛かったところで、司は足を止めた。
「……悦也さん」
「ん?」
「僕、これ以上はもう……」
一歩先で、悦也の足が止まる。勇気を振り絞り、司は続けた。
「こんなこと続けてたら、いつか絶対バレます。誰かに通報されでもしたら──」
「あ?」
低い声だった。
振り返った悦也の顔から、笑みが消えていた。司の肩がびくりと跳ねる。
「なにお前、なんか文句あんの?」
「そ、そういうわけじゃ……」
「お前がオレのこと好きだって言うから、付き合ってやってんだろ?」
悦也はわざとらしく肩をすくめて、司を見下ろした。
「お前がオレに付き合わない道理、なくね?」
とっさに言い返すことができなかった。ただひたすらうつむいて、唇を噛み締めることしかできない。
「あー、なんか冷めそう」
悦也は溜め息をついて、ふと空を見上げた。
「オレたち、もう終わりにすっか」
心臓がぎゅっと縮んだ気がして、司は縋るような目をしながら顔をあげる。
「や、やだ!」
すると悦也はぱっと表情を明るくして、司の肩に腕を回した。
「だよな~! そうだと思った。オレたち愛し合ってるもんな?」
「……うん」
「よし。んじゃ、ホテル行こうぜ。金あるよな?」
「……はい」
二つ返事で頷きながら、司は思う。これは本当に恋人と呼べるのだろうか、と。
薄々、気づいてはいた。悦也にとって、自分は都合がいいだけの存在なのだと。
痴漢プレイなんて特殊性癖に付き合ってくれる女の子なんて、そうそういるはずがない。
だけど司は別だ。気が弱く、NOと言えない都合のいい相手。
仮にバレたとしても、口が達者な悦也のことだ。友人同士のじゃれ合いだとでも言い張って、うまくかわしてしまうのだろう。
分かっていた。
ずっと前から、分かっていた。
なのにズルズルと続けてしまう。悦也に嫌われることの方が、ずっと怖いから。
そこを利用されているのだということも、ちゃんと分かっているのに。
司はうつむいたまま、悦也の隣を歩き続けた。
*
翌日の夕方もまた、司は八尾井駅のホームに立っていた。
時間を指定するメッセージに従って、司はここにいる。結局、どうしても断れなかった。
やがて乗り込んだ車内は、昨日と同じように人で溢れ返っていた。
いつもの窓際に身を寄せた司は、背後の気配に目を閉じる。
(ちょっと我慢すればいいだけなんだ……こんなの、なんでもない……!)
いつからこうなったんだろう──ふと、そんなことを思う。
悦也のことが好きで、気持ちを受け入れてもらえただけで幸せだったはずなのに。
今はただ、この時間が一秒でも早く終わることだけを願っている。
「ッ、……!」
腰と臀部に、ぬるぬると手が這い寄ってきた。
司はぎゅっと肩をすくめて、下唇を噛みしめる。
早く終われ、早く終われ、早く終われ──!
すると次の瞬間、何かが横から割り込んできた。
司の身体が、何者かの力強い腕によってぐっと引き寄せられる。
「──大丈夫ですか」
低い、しかし穏やかで優しげな声だった。
「ぁ、ぇ……?」
歳は司とそう変わらないくらいだろうか。清潔感のある黒髪に、誠実そうな顔立ち。青年の労りに満ちた眼差しが、司に静かに注がれている。
「ごめんな。騒ぎになると思うけど……怖かったら顔を隠してていいから」
彼は小声で囁くと、司の身体を庇うように強く抱きしめた。
その胸に顔を埋めながら、呆然と目を見開くことしかできない。ただひどく、泣きたいような気持ちになった。
背後では悦也が硬直し、息を呑む気配がしていた。
青年はキリッとした眉を吊り上げ、悦也をきつく睨みつける。
そして──
「このひと痴漢です!!」
よく通る青年の声が、車内に響き渡った。
一瞬にして周囲がざわめき、人々の視線が悦也に集まる。
「痴漢だってよ」
「やだ、サイッテー!」
どこからか、女性たちがヒソヒソと囁く声がする。
「なっ!? ち、違う! オレはそんなこと……!」
悦也は真っ青な顔で激しく首を横に振るが、注がれる視線は冷え切っていくばかりだ。
やがて駅に着くなり、悦也は周囲にいた男性たちによって電車から引きずり出された。
青年に肩を支えられ、司もまたホームに降り立つ。
「離せよクソ! 誤解なんだって!!」
「なにが誤解だ! この痴漢野郎め!!」
「大人しくしてろ!! すぐに駅員が来るからな!!」
ホームには人だかりが出来上がり、騒ぎに気づいた駅員がすぐに駆けつけてくる。
「どうしたんですか!? 落ち着いてください!」
「落ち着いてなんかいられるかよ! 冤罪だよ冤罪! オレは無実だ!!」
悦也の血走った目が司を捉え、突き刺すように人差し指を向けてくる。
「こいつだよ! こいつが頼んできたんだ! オレはこいつの変態趣味に付き合ってやってただけで、何も悪くねぇんだ!!」
その言葉は、確実に司の胸を抉った。
適当に言い逃れるをするどころか、悦也は司に非をなすりつけてきたのだ。
「え、そ、そうなの?」
駅員の男が戸惑いの目を向けてくる。
周囲の視線もまた、激しい動揺と共に司に向かって注がれた。
一瞬で空気の流れが変わったことで、悦也の唇にかすかな笑みがのぼる。
「バカなことを言うな!」
すると、青年が厳しい声をあげた。
「こんなに怯えて今にも泣きそうになっている子が、そんな真似するわけないだろ!」
司の肩を抱く青年の手に、力がこもる。司は涙に濡れた瞳を見開き、彼を見上げた。
見ず知らずの青年だけが、この場において自分をまっすぐに信じて庇ってくれている。
信じられないという思いで、胸がジンと痺れるのを感じた。
「ふざけんじゃねぇ!!」
けれど悦也は一歩も引かなかった。
「そいつはとんでもない嘘つきの変態なんだよ! 誰が好き好んで男のケツなんか触るかっての!!」
戸惑いに満ちた人々の視線が、相も変わらず司に注がれる。
好奇と、嫌悪と、同情と。ないまぜになったそれらの中で、司は声も出せずに立ち尽くすばかりだった。
何か言わなければ。否定しなければ。なのに、喉が張り付いて動かない。
ガタガタと震える自分が、ひどく惨めだ。すぅっと心が凍りついていくのを感じた。
──そうだ、これが自分だ。
ずっと気づいていたのに、目を逸らし続けた。嫌われたくないからと、嫌だと言えなかった。都合よく使われていると分かっていても、好きだからと言い聞かせた。
その結果がこれだ。
公衆の面前で、すべてを悦也に押し付けられている。
(……もう、いいや)
なにもかも、どうでもよくなってしまった。
これ以上騒ぎが大きくなるくらいなら、いっそのこと──。
すべてを諦めかけた、そのとき。
「ちょっと待ったーーッ!!」
遠くから聞こえた声に、人々がどよめきながら一斉に視線を向ける。
ドドドドドドドドドッ!!
そこには煙を上げながら走ってくる人影があった。
両手にそれぞれ巨大なハリセンを持ち、車輪のように高速で回転させながら突進してくる謎のおばさんに、巻き込まれた周囲の人々が「うわあああ!」と吹き飛ばされていく。
まるで某奥州筆頭が如きレッツパーリィな登場の仕方だった。
ところで今の10~20代の若い世代は戦●BAS●RAを知らない子もいるってマジなんか。そら歳も取るでぇ……という余談はさておき──
「腐破 ーーッ!!」!
おばさんは悦也の前で急停止すると同時に、ハリセンを振りかぶった。
「いっっっってぇ!!!」
悦也の頭に、二刀流のハリセンが同時に炸裂した。
あまりの衝撃と激痛に、地面に転がった悦也がゴロゴロと転がりながら悶絶する。
さらに次の瞬間、おばさんのハリセンは流れるような動きで司にも向かってきた。
「ヒッ──!?」
殺られる……! と思った寸でのところで、青年が司を抱いたままなんとか身をかわす。
ハリセンが華麗に空振りし、おばさんが猫のようにすぅっと目を細めて笑った。
「……あたしのハリセンをかわすとは。坊や、なかなかやるじゃないか」
青年が冷や汗をかきながらも、おばさんを正面から見据えた。
「い、一体なんなんですか!? 急に現れて……っ」
「決まってるだろ? 目を覚まさせてやるためさ」
おばさんはそれだけ言って、地面で頭を抱えている悦也に向き直った。
悦也は血走っていた目に涙を浮かべ、殺意を滲ませながらおばさんを睨みつける。
「こんのクソババア!! なにしやがんだ!?」
「そりゃこっちのセリフだよ!」
おばさんは片方のハリセンをぐるりと回して肩に担ぎ、悦也の前に仁王立ちになった。
「てめぇの欲のために人を道具のように扱って、恥ずかしくないのかい?」
「道具だぁ? こいつがオレのこと好きだって言うから、恋人ごっこに付き合ってやってんだろうが! そんな気色悪い奴をどう扱おうが──」
「レッツパーリィ腐破ーー!!」
「ぶぎゃあ!!!!」
悦也の脳天に再びハリセンが直撃し、彼はぐしゃりと地面に叩きつけられた。
「今cv.野●雅子でレッツパーリィって言った……?」
「え、中●和哉じゃなく……?」
カオスすぎる状況に、周囲を取り囲むギャラリーたちがざわついている。
しかしおばさんはそれらを意に介さず、悦也を冷ややかな視線で見下ろした。
「相手の好意につけ込んで、変態プレイを強要し、逆らったら別れをチラつかせる──ごっこ遊びにしたって、随分とお粗末な恋人ごっこだねぇ」
「んだとてめぇ……」
「アンタみたいなカスがいちばん始末に負えないんだ。自分が悪いなんて、これっぽっちも思ってないんだからね」
そしておばさんは、司にも向き直った。
「アンタも同罪だよ」
「……ッ!」
「気づいてたんだろ。ずっと前からさ」
図星を突かれ、何も言うことができない。
彼女の言うとおりだ。司はずっと気がついていた。自分が欲望の捌け口にされていること。そこには労りも、優しさもなかったこと。
司は悦也のようになりたかった。いつだって人の輪の中心にいる彼が羨ましかった。そんな彼と一緒にいれば、自分もそうなれるような気がして。
いつからかずっと、本当は気づいていたのだ。
そんなただの純粋な憧れを、恋と履き違えていたことにも──。
「自分で自分の価値を下げてどうするんだい。嫌なもんは嫌だって主張することくらい、赤ん坊にだってできることだよ」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「自分の正直な気持ちを、素直に認めてやることも……ね」
ずっと厳しく張り詰めたようだったおばさんの声が、ふと優しさを帯びたことに、司は唇を噛みしめた。
泣くものか、こんなところで。そう思うのに、目の奥が熱くてたまらなかった。
「黙って聞いてりゃ、好き勝手言いやがってぇ……ッ」
突っ伏していた悦也が、怒りに身を震わせながらノロノロと起き上がる。その瞬間。
「ゴミクズは黙ってな!!」
おばさんのハリセンが三度、唸りを上げた。
スパーンという小気味よい音と共に、悦也の身体が綺麗な放物線を描く。
そして──ちょうどそのタイミングで、ホームに滑り込んできた電車の扉が開いた。
「ぐわぁ~~ッ!?」
スポーン。
派手に吹っ飛んだ悦也の身体が、見事に満員の車内へと吸い込まれていく。
「あらやだ♡いい男がぶっ飛んできたわ~ん♡」
「兄ちゃん、いい身体してんなぁ! なんかスポーツやってんのかい?」
「ウホッ! こりゃあ楽しめそうじゃわい!」
そこはひしめき合う男達♂の巣窟だった。満員の車内はムワッとした熱気に満ちている。
「は? え? ぁちょ、どこ触って……ッ、や、やめ……ッ!?」
悦也はスカウターが爆発しそうなほどの戦闘力を放つ男達♂によって、揉みくちゃにされている。次から次へと腕が伸びてきて、みるみるうちに衣服を剥がされていった。
「あれは……! 年に数回、不定期に運行されるという伝説の宴……男性♂専用痴漢車両じゃないか……!!」
ずっと事の成り行きを見守っていただけの駅員が、突如として説明的なセリフを放った。
いやそんなハッテン車両あってたまるかい……とその場にいた多くの人々が思ったが、誰も彼もがスッ……と伝説の男性♂専用痴漢車両から目を逸らした。
「いぃいやぁぁぁ!! たたたっ、助けてくれえぇ~~!!」
悦也の悲痛な叫びも虚しく、容赦なくプシューッと扉が閉まる。諸行無常……。
『発射……いえ、発車しまぁす』
アナウンスと共に、電車が静かに動き出す。
そして男達♂の夢と希望と吐息を乗せて、やがて電車は見えなくなった。
気がつけば、辺りには祭りのあとのような静けさが戻ってきていた。
駅員や野次馬たちの姿もまばらになっていき、見慣れた駅の風景に戻っていく。
残ったのは司と、青年と、謎のおばさんだけだった。
「あ、あの……」
司は恐る恐る、青年を見上げた。
「助けてくれて、ありがとうございました」
青年は少し驚いたような顔をして、それから思いだしたように司の肩から手を離した。
「い、いや! 俺はただ、当然のことをしただけで……」
「そんなことないです。あなたが声を上げてくれなかったら、今ごろ僕は……」
言葉が途切れた。
すると青年が首を横に振り、意を決したように口を開いた。
「本当は、もっと早く助けられたはずなんだ。俺、ずっと君のこと見てたから」
「え……?」
「見かける度に、いつも具合が悪そうだったから……ずっと気になってたんだ」
青年はこの時間帯の満員電車で、よく司のことを見かけていたのだという。
窓際に身を寄せてうつむいている司のことを、ずっと気にかけていた。人に酔ってしまう体質なのかもしれない──今までは、ずっとそう思っていたのだが。
「今日はたまたま手が届く位置に乗り合わせたんだ。だから気づいた。ずっとあんなのに付き合わされていたなんて……もっと早くに気付けていればよかった。ごめんな」
「ち、違う! 違います! あなたは何も悪くないです!」
今まで薄々気づく人間はいたけれど、みな見て見ぬふりをするばかりだった。
あれほど混み合った車内では確証も持てないし、男が痴漢されているなんて、誰も思わないからだ。
こんなふうに助けるために行動してくれたのは、彼が初めてだった。
何より、ずっと以前から気にかけてくれていた人がいたということに、司は胸が熱くなるのを感じた。
するとどこか辿々しい二人の会話を見守っていたおばさんが、「ふっ」と笑った。
「いい出会いがあったようだね」
振り返ると、おばさんは二本のハリセンをまとめて肩に担いで、背を向けていた。
「その縁、大事にしなよ」
「あ……待ってください! あなたは……?」
司が呼び止めようとしたが、おばさんはヒラヒラと手を振るだけだった。
「名乗るほどのものじゃないが」
夕暮れに染まる駅のホームで、まばらな人波にパーマ頭のシルエットが溶けていく。
「腐ェニックス・蝶子……とでも、覚えておきな」
そうして、おばさんは静かに消えた。
残された二人はその背をいつまでも見送り、しばらくの間ずっと黙っていた。
「……あの」
やがて先に口を開いたのは、青年の方だった。
「もし、よかったら」
青年はぎこちなく、しかし真剣な目で司を見つめた。
「少し、話さないか? 近くに行きつけの喫茶店があって……その、無理にとは言わないけど」
司は男の顔をまじまじと見つめた。キリッとした眉に、誠実そうな瞳。爽やかな黒髪が、夕暮れを弾いて艶めいている。その頬は、緊張した様子で赤くなっていた。
司の頬も、じんわりと熱くなった。どうしようもなく、胸がときめいている。
「……喜んで」
小さくはにかみながら、司はこくんとうなずいた。
すると青年が、どこかホッとしたように微笑みを浮かべる。
どこまでも広がる八尾井町の夕暮れが、今日は一段と、燃えるように赤かった。
ともだちにシェアしよう!

