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第一章:其の二:狂気の沙汰も、また恋なり
***荻窪の日常***
書き出したのはいいとして。男はぴたりと筆を置く。それとほぼ同時。
「荻窪(おぎくぼ)先生、僕です、高梨(たかなし)です。もちろん、ご在宅ですよね?」
がらりと威勢良く扉が開いて、玄関から大きな声が響いてきた。そうして、遠慮もなにもないというような足音が不気味なほどに静まっていた廊下中に、いや、それどころかその家中に響き渡るほどの大きな音を立てる。
それに似つかわしくないほそりとした身なりで、眉目秀麗、姿だけは風に吹かれて飛んでいってしまいそうな儚げな青年が夕暮れ時の西陽を受けて、とある一室の障子の前でにわかに大声を張り上げた。
「先生!」
声と共に、先生と呼ばれた男が文机から振り返る。
「やあ、そろそろ来るころだと思っていたよ、高梨くん。」
荻窪は高梨を見るなり、顔を上げて苦い笑顔を作ってみせた。書いてはいる、大丈夫、ちゃんと書いている。
「で、先生、怪談の原稿はどうです?」
さ、と畳の上に膝を付いた高梨が、荻窪の手元をのぞき込んだ。少しばかり進んだ原稿用紙が何枚か、文机に広がっている。
「先生、出来上がってないじゃないですか、まさか、詰まったんですか?」
高梨の声にやや棘と心配が混じる。眉間に皺が寄り、まさかといった表情に切り替わった。荻窪はそんな彼の顔を見ながら、また少しやつれたか、と心の中で小さくつぶやく。
外はそろそろ暗くなり始め、高梨は「雨戸を閉めに行きましょうか?」と声をかけた。
「ああ、いや、私が閉めに行くよ。すまないが、少しだけ待っていておくれ。」
荻窪はゆっくりと立ち上がると、いつものようにひたひたと廊下へ出ていく。雨戸を閉めるのは彼にとって、一種の儀式のようだ。
祈るように一枚一枚を丁寧に戸袋へと送る。手のひらで雨戸に触れ、丁寧に。
高梨はもう、何度もその光景を見てきた。
時間をかけて雨戸を閉め終えた荻窪が書斎へと戻ってきて、文机に向かうと高梨はその背中に声をかける。
「先生の雨戸の閉め方は、なにかの儀式のようですね。」
荻窪は高梨に振り返ると、小さく苦笑した。そう見えるのだろうか。この動作は、荻窪が幼い頃に見ていた母の仕草の真似だった。母はいつも、父が不在のときはこうして、雨戸を一枚一枚丁寧に、なにかに祈るように手のひらで撫でてから戸袋にしまっていた。
「そう見えるかい?」
荻窪は言葉を濁すと、それ以上は何も言わずまた、文机に戻る。背中に高梨の視線が刺さるものの、荻窪の両親はとうに他界しており、そのことはあまり人に話してはいない。
万年筆を手の中で弄ぶ。
この癖はなにかを考えるとき、怪談を書くときの癖だ。荻窪はゆっくりと目蓋(まぶた)を閉じると、なにかを考えてからついと開けた。
***荻窪の怪談***
「ああ、あなたはなんて素敵なの。とても立派に鳴くのね。」
かなりやを指に止まらせた妻が鳴き声を奏でるその鳥に、感嘆の声をあげる。
もう何ヶ月と聞いているのにまだ飽きないのだろうか。
数週間ぶりに帰宅した男は、妻のかなりやへの傾倒(けいとう)ぶりに少々肝が冷えた。
いつもなら、玄関まで迎え出ていた妻が出てこない。具合でも悪いのかと思って急いで妻の自室に向かってみれば、ただただ、かなりやを指に止まらせてそう話しかけていた。
「おい、私が帰宅したことに気が付かないのか?」
やや苛ついた声で男が、妻にそう声をかける。
障子に映った妻の影が、数週間前に見たときよりもずっと痩せこけたように見えて、手が止まった。
障子を開けようとして、怖さが先立つ。
たった数週間──。
家を空けたのは、ひと月にも満たない、数週間。
その間に何があったというのか。
微動だにしない影と、小鳥へ向ける甘い声。そのあまりの乖離(はくり)に、男は言葉を失い、ただ立ち尽くすしかなかった。
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