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第一章:其の三:狂気の沙汰も、また恋なり
***荻窪の日常***
荻窪がふと視線を上げると、そこには写真のない写真立てが視界に入る。その中身は荻窪自身の手によって抜き取られ、いまは空っぽだ。
それでも荻窪はまるでそこに写真が入っているかのように見つめると、小さくため息をついた。
「高梨くん、すまないがお茶を入れてくれないか? きみが淹れたあのお茶を飲みたいんだ。」
初めて高梨が、お茶を淹れてくれた日のことを思い出す。渋すぎて吹き出すかと思った強烈な味を、忘れることができるはずもなく、荻窪は笑いを噛み殺した。
「先生、気がついてないと思っていますか? バレていますからね!」
高梨はむっとしたようにそう言いながら、それでも台所にお茶を淹れに行ってくれる。
荻窪はそんな高梨に感謝しながらも、壁の近くに置かれた衣桁(いこう)へと目を向けた。そこには、荻窪が着るには小さい濃紺の着物が掛けられている。
こまめに手入れを欠かさないその着物は、荻窪のものではないが、大切なものには変わりなかった。
『お前の言うように、文士になったぞ。』
心の中でそう、声をかける。
濃紺の着物は当然返事も返すことなく、ただ静かにそこに居た。
文机に向き直ると、荻窪はまた万年筆を走らせる。
流れるような筆音を立てながら、原稿用紙に文字を埋めていった。
***荻窪の怪談***
妻の自室に影が映る。
廊下から見る障子越しに、かなりやを指に止まらせたはずの妻の影。
しかし、かなりやの影は徐々に変化する。
ぴーぴるるる。
ちちち、ふぃるる。
ぴー……ろ……、……ぴろろ。
鳴き声もあのきれいな歌声ではなくなっていく。
ぴぴ……こ……ろ……ぴぴふぃるるる。
時折、かなりやの声に混じって聞こえてくる。
それは鳥の喉が鳴らす音ではない。明らかに、この世の男が発する低く湿った声であった。
ずずず、と影が揺らめいた。
見ている間に、指に乗っていたかなりやは若い男の姿に変わる。
小さかったはずのかなりやの影が徐々に膨れ上がり、有象無象になりながら、若い男の姿へと変貌を遂げた。
「ああ、あなたはなんて素敵なの。とても立派に鳴くのね。」
妻の声が蜜のように甘く響いた。
これはかなりやに言う声にしては甘すぎる。間男でも連れ込んでいるのではあるまいか。
男は一瞬、黒く染まった嫉妬がぞわりと湧き上がった。
しかし、なにかがおかしい。
そうだ、おかしい。
指に乗せていたかなりやはどこに消えた?
突然現れたこの若い男の影はどこから来たんだ?
そして、どうして妻は、さっきから同じことしか言っていないんだ……?
それに、妻の姿はさっきからひとつも動いていなかった。
***荻窪の日常***
「先生、お茶が入りましたよ。」
雪見障子を開けた高梨が、湯呑みを乗せたお盆を手に、書斎に戻ってきた。
荻窪が愛用している石油ランプを置いている台に湯呑みを置くと、高梨は、す、と後ろの方に下がって座る。
「ありがとう、高梨くん。」
少し熱いくらいのお茶を啜った荻窪は、「やっぱり渋みが強いな」と心の中でつぶやいた。しかし、この渋みにも随分慣れたものだ。
いままでは自分で自分の好みのお茶を淹れていたものだが、最近では高梨の淹れたお茶を恋しく思う。
高梨に感化されたのだろうか、荻窪はきっちりと正座して待機している高梨を横目で見やった。
初めて会ったときもそうだったが、彼はいつも疲れた顔をしている。いままでいろんな担当と仕事をしてきた荻窪が見ても、高梨はその中で群を抜いて疲れた顔をしていた。
そういえば初めてあったあの日も、彼を眠らせてやりたくて、わざと見張っていてくれないか、と声を掛けた。
自分よりはかなり若いはずの高梨が、やつれた顔をしているのが気になってしまった。
背後から聞こえてくる寝息を耳にして、安堵したことを思い出す。
初っ端から寝落ちた高梨は、そこから随分と荻窪の書斎で眠ることが多くなった。
そのたびに、布団をかけて、「ゆっくりおやすみ」と小さく声をかけている自分も、どうしようもない。
自分は、自身の懐に迷い無く飛び込んでくる人間に弱いのだろうか。
荻窪は手の中で万年筆を転がした。
「先生、筆が止まってますね?」
背後で見ていた高梨が、す、とすり足で近づいてくる。肩越しに手元をのぞき込んでから、「やっぱり詰まってますか?」と問いかけてきた。
そんなことはない、そう振り返ろうとして荻窪は思わず固まってしまう。耳元で聞こえた声からするに、ここで振り返ってはいけないと、本能で感じた。
「先生、僕で良ければなにかお手伝いしましょうか?」
家で使っている石鹸の香りだろうか。それとも、高梨自身の香りなのだろうか。花のような爽やかな匂いが鼻をくすぐった。
万年筆を握る手に力がこもり、荻窪は思わず高梨の頬を手のひらで押し返した。柔らかな頬の感触が高梨の若さを象徴しているようだ。
「先生、それはひどいです。」
高梨の声がむすりとしている。
「きみがまだ、完成していない原稿を覗き込むのが悪いんだろう?」
荻窪は無理やり言い逃れをして、万年筆を握り直した。本当はそんなことではなかったが。言えるはずもない。気分を変えるように、荻窪がお茶を啜った。
「少しは美味しく淹れられるようになってますか?」
輝くような瞳で問われると、いいえとは言い難い。
渋みは前程ではなくなってはいるが、依然として渋さが勝っている。
それでも荻窪は、この味を気に入っていた。
「ああ。少なくとも、私はこのお茶が好きだよ。」
荻窪は高梨にそう、声を掛けた。
***荻窪の怪談***
男はとてつもない恐怖に駆られ、思わず妻の部屋の障子を開け放つ。
勢いよく走った障子は、鴨居にぶつかる反動で少し戻るほどだったが、それでも妻は驚きもしなかった。
「ああ、あなたはなんて素敵なの。とても立派に鳴くのね。」
三度、妻の声が機械的に響いた。
そこに若い男の姿はない。かなりやは、変わらず妻の細い指の上に止まっている。
だが、男の理性は限界だった。呪われた幻影を振り払うように、妻の手にいたかなりやを奪い取り、力任せに握り込む。
ぐしゃり、という生々しい手応えと共に、手のひらの中で小さな命が潰(つい)えた。
男はその、あまりに柔らかく、そしてあまりに熱い感触にぶるりと身を震わせた。
込み上げる吐き気と、逃げ場のない後味の悪さ。命を奪った瞬間の感触が、呪印のように手のひらにこびりついて離れなかった。
男は弾かれたように、妻のいた場所を仰ぎ見た。
そして、喉の奥が凍りつくのを感じた。
そこにいたのは、生きた女ではなかった。
妻は、すでにからからに干からび、ただそこに据え置かれただけの亡骸(なきがら)と化していたのだ。
あらゆる生気を吸い尽くされ、ミイラのように萎びたその姿。
では、先ほどまで部屋に満ちていた、あの蜜のように甘い「妻の声」は、一体どこから流れていたというのか。
男は、自らの手のひらを見つめた。
握りつぶした、まだ温かい、かなりやの死骸を。
──かなりやは、とてもきれいな声で鳴くという。
それは伴侶を探して鳴くという。
伴侶の見つからぬかなりやは、さて──。
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