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第ニ章:其の一:濡るる蒼かな、なびく裾
がたごとと重い足取りの路面電車が街を行き来するように並行して、まだ人力車も活躍していた。
円タクという一円で乗ることができるタクシーが町に顔を出し始め、人々の生活は徐々に西洋化していく傾向にある。
怪談作家という肩書の男──名を荻窪(おぎくぼ)という──、今日は困ったように眉根を寄せて、原稿用紙を見下ろしていた。
とんとんとん、と指先で文机(ふづくえ)を叩く。
何度頭をひねってもなかなか出てこない物語の尖先(きっさき)が、頭を悩ませていた。
乱れた黒髪を勢い良くかき混ぜて、ため息をつく。
書きたいものが形にならない、頭の中にはもやもやしたものが姿を変えてはまた現れていた。
掴みきれない靄(もや)の中にいるような感覚に陥って、荻窪は畳の上に寝そべる。普段ならしないであろう、その行動は誰から教わったものなのか。
畳のい草が背中に当たる。やや荒い手触りがざらりと背中をなでていく。
暗い色味の天井は、まだ昼だというのに薄闇に覆われていた。あの闇さえ取り除ければ、というやや苛立ちが、荻窪を困ったように唸らせる。
荻窪はいつもよりも薄闇に包まれた天井を見つめて、雨でも降るのだろうかと思った。
湿り気を帯びた風が室内に入り込み、いつもよりも気温が低く感じられる。
天井を見上げるその一瞬の隙間に、写真のない写真立てが視界をよぎった。
以前は確かにそこにあったもの、でもいまは荻窪の手によってその写真は抜き取られている。
視界に入った瞬間に、それはざらついた感触で心を撫でていった。それは背筋を粟立たせ、何事もなかったかのように去っていく。
荻窪は深淵から覗かれそうな心地になって、ゆたりと瞳を閉じた。
覗かれるのであれば覗いてやろうではないかとは、荻窪の怪談作家としてのプライドだったのかもしれない。
天井の薄闇が緩やかに、ぼかされていく。いまから飛び込もうか、いや、飛び込むまじきか。
迷うくらいなら飛び込んでしまおうか。
その瞬間にざわりと、濃紺の着物の裾がかすかに揺れた。
「先生、玄関が開いていたので勝手に入ってすみません……て、なに寝てるんです?」
雪見障子をすぅ、と開けたのは、締切間近になると姿を現す担当の高梨(たかなし)だ。
にこやかなお愛想の笑顔を浮かべて障子を開けるも、荻窪の見た目の体たらくに眉をしかめる。
体たらくに寝そべっていたわけでは──と説明するつもりもなく、ただ荻窪は天井から高梨へと静かに視点を移動しただけだった。
その無感情な視線の動きに、高梨ははっとしたように瞳を開く。
この変わりようといったら。
「先生、なにか思いついたんですね! 早速書いてみては? 原稿用紙もあるわけですし、あ、なにかお飲み物を用意しましょうか? 熱いのが良いです? それとも冷たいのが──、」
「高梨くん、ちょっとでいい、静かにしてくれないかい?」
矢継ぎ早の文言攻めに、さすがの荻窪も言葉を遮った。
やれやれ、と言いたそうに身体を起こした荻窪は、じろりと高梨を睨めつける。別に気分を害されたわけでも創作への足がかりを奪われたわけでもないが、気が散ってしようがない。
「す、すみません……。」
高梨はしょんぼりと肩を落とすと、荻窪に叱られたと思ったのだろう、すごすごと台所へと歩いていった。熱い茶を入れてくれるのか、それとも頭が冴えるように冷えた茶を用意してくれるのか。
叱りつけたつもりはないが、とそんなしょぼくれた高梨の背中を見送った荻窪は、寝そべっていた身体を完全に起こしきると、文机に向けた。
***荻窪の怪談***
その店の軒下に、蒼の着物を着た女が出るという。
鮮やかな青ではなく、少しくすんだ蒼の着物を身に纏い、その女はなにかを探すように辺りを見回しているという。
女の手元はやや落ち着きがなくそわそわしていた。
失くしてはならないものを失くしたかのようなその挙動に、つい手を差し伸べたくなってしまう。
女にはそんな、儚さというよりも手を差し伸べたくなるほどの小柄さと落ち着きのなさ、守りたいとさえ思わせるものがあった。
だが、肝心の捜し物はまるで分からない。
だれも彼女がなにを探しているのか、覚えていないのだ。
聞いたはず、答えが返ってきたはず、なのに覚えていない。 だから、とある店の軒下に現れる女のことがどんどん噂になって広がっていく。
人の口には戸は立てられぬ、とはよく言ったものだ。噂になるのはなにかを探していることと着ている着物の色のみで、残りの全ては靄の中。
伏せられたその瞳が何色だったすら、みな、覚えていないのだ。
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