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第ニ章:其の二:濡るる蒼かな、なびく裾

 ***荻窪の日常*** 「先生、お茶をお持ちしましたよ。熱い方で良かったですか?」  す、と雪見障子を開けた高梨が、お盆に湯呑みを乗せて戻ってきた。担当になってからの高梨に、好きにしていい、と言ったのは荻窪だ。  だが、本当に好きにすることができる度胸があることに、驚きを隠せない。自由にしてくれて構わない、そう言ったのは確かに荻窪本人だったから。  だけど、高梨は台所や勝手口、書斎や居間には入るがそれ以外の場所には近づかなかった。玄関でさえ鍵を使って開けて入ってくるにも関わらず。  さすがにそこは踏まえているのか。  高梨が見せるその当たり前の配慮に、内心はありがたいと思っている。だって、荻窪には見せたくないものもあるのだから。 「ああ、ありがとう。私の好みを覚えていてくれたのかい。」  ちょうど万年筆を置いたところで声をかけてくれた高梨を、ついと見やる。  文机(ふづくえ)の傍に置いてある小さなテーブルの上に、湯呑みを置いた高梨が、なにかに気がついたように少しだけ固まった。  視線の先を追えば、写真のない写真立てが置かれた、あの出窓だ。高梨がなにか言わない限り、荻窪はなにも言うつもりはなかった。  いつも使っている湯呑みに入れてくれた熱めのお茶を、ず、と啜る。静かすぎる空間で、お互いの呼気だけが聞こえてきそうだ。  いや、なにか問われたとしても、答えを口には到底、できはしない。  荻窪はなにかを問われる前に、高梨に視線を向けて「夕飯を食べていくかい?」と当たり障りのないひと言を繰り出した。 「あ、はい、あの、先生がご迷惑でなかったら……僕が作りますよ。こう見えて作れるんです、練習しましたから!」  元気よくそう言い放った高梨の、最初に作ってくれた夕飯を思い出した。  焦げた魚──見た目は溶岩かと思うほど、それから、おかゆのような白米に、里芋の煮っころがしのような「なにか」。  ある意味あれは才能だとすら思えたあの料理が、いまは少しはまともになった、ということなのだろうか。  思い出して荻窪は、のどをくつくつと低く鳴らした。高梨の学習能力は、まるで紙が水を吸うかのようだ。あれから練習したと豪語する高梨に、それでは任せてみようか、と少しは思う。 「ええ、幼馴染に教えてもらったので、この前のようにはなりませんよ。」  少し照れくさそうにそっぽを向いた高梨の、幼馴染という言葉に引っ掛かりを覚える。 「幼馴染……ああ、もしかしてきみの婚約者殿……、」 「そんなわけないでしょう? さっちゃんに迷惑がかかりますよ、先生。僕はまだまだ未熟ですからね、先生、そんなことくらいご承知でしょう。」  荻窪の言葉を遮って、はっきりと否定する。  高梨は困ったような顔をして荻窪を見やると、婚約者なんて存在は端から居ないことを知っているはずだ、と言わんばかりにやや軽く睨んだ。 「さっちゃん、か。よほど親しいと見える。」  ​荻窪は唇の端を吊り上げると、少し意地悪げに高梨へ視線を流した。睨まれたことなど意に介さぬその流し目は、さしずめ「仕返しできるものならやってみろ」とでも言いたげだ。  高梨は、その老獪な視線に射すくめられ、降参だと言わんばかりに肩をすくめた。 「……もう、先生には敵いませんよ。さっさと夕飯にして、原稿を書いてもらいますからね!」  高梨は逃げるように台所へと立ち去った。  一人残された荻窪は、冷めかけた茶を最後の一口まで飲み干し、再び出窓の向こうの薄闇に目を向けた。  ***荻窪の怪談***  女が出ると噂の店は、豆屋だ。  豆屋の店の軒下に、くすんだ蒼の着物を着た小柄な女。探しているものがあれど、なにかは分からない。顔の印象すら残らない。なぜなのかは誰も分からず、またその謎めいた噂だけが先走る。 「なら、俺がその女の謎を解こうじゃないか。」  と、意気揚々と手を上げたのは、米屋の店主だ。最近鼠(ねずみ)の被害をようやく片付けることができたためか、ご機嫌だ。  豆屋ならそんなに離れているわけではないから、と米屋の店主はさっそく見張る。  毎日現れるわけではないらしい、というのはこの見張ることで知り得たことだ。  これで不可解な事実のひとつが解明される。  米屋の店主はさらに調子に乗った。 「俺がその女の謎を解いてやろう! きっと解けるはずだ。」  何度も何度もそう、豪語したある日のことだ。  とうとう待ちに待った女が現れた。どこからともなく、すぅ、と。一瞬視線を逸らした間に現れていた。  噂通りのくすんだ蒼の着物、俯いた顔に小柄な身体をしている。米屋の店主はようやく見つけた獲物にありつけた犬のようにいそいそと彼女に近づいた。 「娘さん、あんたはここでなにを探しているんだ?」  横に並べば、彼女が如何に小柄か分かる。米屋の店主よりもずっと小さかった。 「はい、わたくしは人を捜しておりました。」  俯いたまま、小さくて可愛らしい声が落ちていく。  人を捜していた、ということは、誰かと待ち合わせなのだろうか、米屋の店主は首を傾げた。ここ数日ずっと豆屋の軒先を見張っていたが、待ち合わせをしているような人間は通っていない。 「それはどんなお人なんだい?」  記憶にある限りの通行人を思い浮かべて問うてみる。もしも見たことがある人物ならば協力してやりたい。そう思わせる小柄さだ。 「……わたくしの子らを殺した憎い男にございます。」  小さく掠れた声がぽたり、事実を告げてくる。そこには感情がこもっているのか、と思わせるほどあまりにも淡々とした声色だった。  ここで米屋の店主は初めてこの女に寒気を覚えた。  淡々としすぎている。複数の子らを殺された女の態度には、到底思えなかった。

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