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第ニ章:其の四:濡るる蒼かな、なびく裾
***荻窪の日常***
腕によりをかけた、と得意げに話す高梨が拵(こしら)えた夕飯は、美味、とは言い難いものではあったが、それでも食べられる代物にはなっていた。
目をきらきらさせて味を問いかける高梨に、「ああ、美味しいよ」とは答えたものの、高梨自身が口にしたときどう思うのか、少し心配だった。
それじゃ僕も、とひと口放り込む。
味を堪能しているのか、もぐもぐと咀嚼を繰り返す。高梨の暗茶の瞳がきょろきょろと動いたかと思うと──。
ちらりと荻窪へと目を向けた。
「……食べられなくはない味、といったところですか。及第点ですね。」
そして、得意げな表情をして、もうひと口放り込む。
荻窪はそんな高梨を見ながら、彼が前向きで良かった、と思わざるを得なかった。
溶岩の魚から一転食べられるほどの食事に変化を遂げた──それだけでも大したもんだ、と荻窪も箸を進める。
食後、二人は居間で先ほど荻窪が書き上げた原稿に目を通していた。
荻窪は高梨に淹れてもらったお茶をすすりながら、読書に勤しんでいる。
書斎から持ってきた書物は、血生臭い怪談作家が好むとは到底思えない、恋愛小説だ。
ぺらり、ぺらり。
ゆっくりと頁を捲るその速度は、明らかに読みすすめているその速さでしかない。
高梨は荻窪が読み耽る小説のタイトルと、彼が書いた原稿とを見比べた。
こんな不気味なものを書く人が、いまは目の前で恋愛小説を読んでいる。
しかも巷で女学生に人気の純愛小説だ。
「あの、先生。」
おずおずと声をかけた高梨へ、荻窪は読書のときに愛用している眼鏡をしたまま、視線を向けた。
「なんだい? 高梨くん。」
乱れた黒髪に無精髭、切れ長の瞳に黒縁の眼鏡──渋みを前面に引き出している荻窪が、読んでいるのは恋愛小説というその相違。しかも、純愛物のタイトルだ。女学生が手に取って読んでいそうな、可憐な装飾が描かれた表紙に重なる、荻窪の無骨な指が似つかわしくない。
「あの……、聞きたいことはたくさんあるんですが……ええと……、鼠はたくさん子を成しますよね。」
ああ、と思い当たる。
「鼠がどんなふうに子育てするか知っているかい? 毛も生えていない目も皮膚に覆われた小指の先ほどの赤子を七匹から九匹産むんだ。」
荻窪は自分の小指を高梨の目の前に突き出した。
第一関節に満たない大きさを示して、丁寧に説明する。
「自身の睡眠も食事も後回しにして、ただひたすら乳を与え排泄を促し、保温して安全を守るんだよ。」
つい、と少しずり落ちてきた眼鏡を押し上げた。
視線はずっと小説から離れることはないが、言葉は滑らかに紡ぎ出す。
「彼らの寿命の二年から三年の間の、妊娠期間が二十日ほど、独り立ちまでの間が三週間ほどと考えてごらん。愛情深くなければ、できないと思わないかい?」
荻窪が小説の頁をぺらりと捲る。
「でも次の妊娠で……、」
高梨が言い淀んだ。
「次に生まれてくる子は、先の子たちじゃあないんだよ。」
荻窪はひと言ひと言を噛み締めるように、高梨にそう伝える。
「そうですよね。親鼠が悲しむのは当然ですよね。僕は危うく米屋の店主と同じ考えをするところでした……。」
ぺらり、再び荻窪が頁を捲った。高梨が反省しようとしていまいと気にはしていないとでも、言うように。
「先生、あの、その本は……?」
とうとう我慢できずに高梨が荻窪に、その本の真意を尋ねてしまう。
「ああ、この本かい? 巷で流行っていると聞いてね。」
なかなか面白い、そう荻窪は付け足した。
女学生が好む純愛小説を荻窪が、なかなか面白いと評している。
高梨は呆気にとられるしかなかった。
先ほどまで鼠の怨念を書いていた男が、いまは純愛小説を読んでいる。
「せ、先生はそういったものをお好みで?」
前任からも聞いたことがない、とでもいうように高梨は驚きを隠して無理やり笑みを浮かべてみせた。
「いや、好まないよ。」
小説から視線を上げた荻窪は、まっすぐ高梨を射抜く。真剣に読んでいたし、面白いとも言っていた。だが好まない、このひと言で高梨の表情は怪訝そうになる。眉根を寄せて、それなら何故読んでいるのかという表情にがらりと変わった。
「そういう感情には疎くてね。参考になるかと思ったんだ。」
くす、と自嘲気味に笑みを浮かべた荻窪が、ぱたりと本を閉じる。そして、表紙に描かれている男女のイラストを、ゆっくりと指で撫でた。
「それで? 高梨くんは私に何を訊きたいんだい?」
眼鏡を外さないのはわざとなのだろうか。
荻窪は目が泳いでいる高梨を、ひたりと見据えた。
「あの、先生は昔、どなたか好──、」
好きな人がいたんですか? とはごく自然な質問だろう。だって、写真の入っていない写真立て、鼠の母性、純愛小説と流れている。
「高梨くん、悪いがそれには答えたくないな。」
傷みを持つ視線が高梨から逸れた。訊くなと言いながら、態度は雄弁だ。
高梨はそれらから察することしかできなかった。
それ以上を語らない荻窪の、拒絶と引かれた一線を目の当たりにした高梨は、しおしおと肩を落とす。
「ごめんなさい、先生。」
踏み込みすぎました、と素直に頭を下げた。がばりと下げた頭のせいで表情は見えなかったけれど、きっととても申し訳なさそうな顔をしているのだろう。
荻窪はそんな高梨を、ちりりと傷む心で見つめた。
謝る必要などないのだ。踏み込ませぬよう壁を作っているのは自分の方なのだから。
外ではいつの間にか夜霧が立ち込め、庭の木々を静かに濡らし始めていた。
開け放たれた居間の空気は湿り気を帯び、荻窪の頬を冷たく撫でる。
高梨の中に時折見える、あの面影は果たして誰のものなのか。
抜き取られた写真の空白を埋めるように、霧が部屋へと忍び込んでくる。
彼に宿る、面影は果たして誰のものなのか。
──濡るる蒼かな、なびく裾。
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