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第三章:其の一:白花舞うや、濃紺の闇

 ​活動写真の幕間、弁士の滑舌良い声が朗々と響き渡り、暗がりに詰めかけた人々は皆、その声に憑かれたように聴き入っていた。  劇場を一歩出れば、巷には、剥落(はくらく)しかけた洋館と古びた日本家屋が、いびつな接木(つぎき)のごとく混在している。  伝統という硬い土を割り、和風の暮らしに潜り込んだ異国の文化が、毒々しくも美しい芽を吹き始めていた。  この、やや西洋の文化を取り入れた和風家屋に住む荻窪(おぎくぼ)という男もまた、時代の隙間に取り残されたような生き方をしていた。  好んで着ている着物、電気を通しながらもあえて書斎で灯す石油ランプ、毎日儀式のようにしている雨戸の開け閉め。  乱れた黒髪に無精髭、父の血筋か、この時代にはそぐわぬ大きな体躯(たいく)をしていた。暗茶の着物を好んで身につけ、文机(ふづくえ)に頬杖をついてぼんやりと庭を望む。  今夜はすでに雨戸を閉め、一日の日課を終えた荻窪は、さてさて、とでもいうかのように万年筆を握りしめて、文机に向かう「ふり」をしていた。  ふり、なのである。  折しも、濃紺の闇にはらはらと散るかのごとく、白花が舞い降りてくる。六角からなるその形は、ひとつひとつが全て違う結晶の形をしている、と昔誰かに教えてもらった。遠目から見れば白い花びらのようで、近くから見れば幾何学的な六角の結晶は、それぞれの個性を宿している。  荻窪はそれをひとつずつ目で追いながら、先月のことに思いを馳せていた。 『あの、先生は昔、どなたか好──、』  その時の高梨の表情は、ただ気になったから、というだけにしてはあまりにも、痛いものだった。  声も少し怯えているような、震えた声で、訊いてはいけないと分かっていたような。  気が付かないわけではなかった。高梨の荻窪に対するどこか、淡いものに。彼自身、それを自覚しているのかは知らないが、荻窪にはそれに経験がないわけではなかった。だが、荻窪は明確に高梨に応えるつもりはない。  ──これではだめだ。  そう思うのに、突き放すこともできない自分に苛立ちを覚える。またあのときのように追い詰めてしまうのなら、いっそのこと──。  そうは思うのに、高梨のあの、明朗活発さを眩しく思い、また、その思慮深さに惹かれている荻窪としては、手放せないと分かっていた。  ──こんなのは自己欺瞞(じこぎまん)だ。  頭を抱えた荻窪の耳に、背後から声がする。 『愛だの恋だのなんてな、所詮自己満足だ、そうは思わないか? 康路(やすみち)。』  は、として振り返れば、そこにはひたりと動きを止めた濃紺の着物が物を言わずに衣桁(いこう)に掛かっていた。  書斎に灯る暖色のランプの、橙色の焔がゆらりゆらりと、形を変える。  読みかけのままの純愛小説の終わりは、想いを伝え合って終わるのだろう。  だが、その先の苦悩は何ひとつ書かれてはいない。  これからは二人で乗り越える試練があるんだよ、でも幸せだから大丈夫だよね、という安直な気配だけを残して、物語は閉ざされている。  そんなものはまやかしだ、と荻窪は思う。  いや、自分自身にあてはまらなかっただけに過ぎないのは、分かっていた。  自分が幸せを望むなどあってはならないことだと、幾度となく言い聞かせてきたはずなのに。  ***荻窪の怪談*** 「白が舞い散る花の日に咲くと言われる幻の花を、ご存知でしょうか?」  ゆたりと、紅の着物を着た女が、寒さに震え火鉢に手をかざしていた男へと話し掛けた。  着物の紅と同じ色を注した口唇はうすらと弧を描き、男の言葉を待っている。ぱちりぱちりと微かな音を立てて燻る火鉢は緩やかな茜色を醸しながら、男と女を映し出していた。  危うげに揺れる行灯の炎が、白い襖にわずかに尾を引いた陰を落とし。 「いや、私は知らぬ。そのようなことはいま初めて聞いたよ。」  男は女の言うことを真に受けたのか受けていないのか。ろくに考えもせずに答えていたことを、後に後悔したかもしれない。なぜならこの答えは、男の行く末を決めるものだったからだ。 「知らぬのですか……。──ならば、用はない。」  妖艶に微笑む口唇はゆたりと弧を描いたままに。  ひゅ、と飛んできた刃物を躱(かわ)す間もなく、男は声を上げることも叶わぬままに絶命した。びしりと襖に紅い血が飛び、ゆらりと揺らぐ行灯(あんどん)の炎がそれを陰として映し出す。  くずおれた男はいまだ断たれた首筋からぶくぶくと血を吹き出して、辺りはだんだんと血の海になる。女の身に着けていた襦袢(じゅばん)はその血の海に浸り、まるでそれを吸い上げるかのように徐々にさらに深紅へと染まっていく。  女はその中でひとり、くすくすと楽しげに笑っていた。  まるで、男が絶命するさまを楽しむかのように、笑っていた。残忍なのに、そこはかとなく白い肌が際立って美しささえ感じる笑みだった。

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